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作品 - 20081111_449_3143p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


地平線

  雨宮

 
 
小さい頃、海の向こうには恐竜がいるものだと思っていたのだと、
夕色にぼやけた海の方を向いたまま、こっそりと打ち明けた。
隣に座る妻は小さく笑いしばらく黙った後、もしかしたら今もいるかもよと、
本気なのか冗談なのかわからない口調で言った。
海の彼方のどこかに?
そう。海の彼方のどこかに、
わたしたちの知らないどこかにいるかもしれないよ。
恐竜が?
うん、恐竜さんが。
 
 
海の方からは絶えず、波音だけが確かなものとして、胸元に生まれては消え、生まれてはまた、消えていく。
それを飽きもせず眺めている僕と妻と、数羽の海鳥。
どこか遠くへ行きたいと言い出したのは妻で、海へ行こうと行ったのは僕だった。
なにをするわけでもなく、ただ、海を眺める。
僅かに交わした言葉は、気づかないうちに波音になって、ぼくたちはすぐに言葉を見失う、生まれては消えていく、そのくりかえし。
車で片道三時間の小さな逃避行は、もうすぐおしまい。
果てのない遠くへと続く海の青の先に消えていく太陽は、とろとろになって、下の方から融けていく。
海、半熟卵みたいだね。
妻が呟く。
僕はそれには答えず、海鳥が帰路についた辺りから思いを巡らせていた、太陽の生まれてくる場所について妻に聞いてみた。
すると妻は迷いなく、白く小さな人差し指を真っすぐに海の方に伸ばした。
もしかして海から?
ううん、地平線から。
太陽は地平線から生まれて、地平線に帰るの。
 
 
夕陽に染まる妻の眼差しは、橙色にゆれる地平線の遥か、だれも知らないどこか遠くを見つめているような、そんな気がした。
不意に不安を覚え、頬に触れ名前を呼んでみる。
こちらを向く丸く小さな瞳、少しだけ口角の上がったやわらかな表情。
なんでもないと頭を撫で、もうほとんど融けてしまっている太陽に目を戻した。
 
 
地平線から生まれてくる太陽、海と融解し生まれ、そして再び、海と融解しきえていく。
妻の見つめる先と、僕の見つめる先は繋がっているのだろうか、そんなとりとめのないことばかりが頭をよぎる。
海鳥たちが消えていった遥か、その先にいるであろう、恐竜、
妻は、何を、
思っているのだろう。
風が強くなってきたせいかさっきよりも寒く感じる。妻も膝を胸に抱きしめ寒そうにしている。肩に上着をかけてやると、ありがとうと、小さく笑った。
帰ろうか、
うん、もうちょっと、もうちょっとだけ。
太陽が地平線に帰るまで?
うん、うんそう。太陽が帰るまで。
だからもうちょっと、と、そう言った妻の瞳は既に、地平線の先遥か彼方をみつめている気がした。
僕は妻の肩をそっと抱き寄せて、喉元まできていた言葉の向かう先を決められないまま、妻の見つめている先、地平線に帰っていく太陽に思いを重ねた。
 
 

文学極道

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