トラウト博士が僕に言う。「失われることは、またある種の獲得でもあるんだ。」と。僕は断続して欠落する記憶に困惑させられていた。つまり僕の日常は穴だらけである。あそこと思ったものがここにあり、ここと思ったところはどこにもない。つじつまの合わないシュールな空白が僕を苛んでいる。博士は続ける。
「君の脳は蜂の巣のように浸食されている。隙間だらけだ。だが、この世に純粋な空白はあり得ない。隙間に入り込んでいる何かが、君が新たに獲得したものだ。」
僕は黙って窓の外を見た。向かいの病棟、三階、一列二十七箇所の窓のうち八箇所が解放されている。中庭に茂る桜の葉は盛夏の勢いを減速し、ようやく色を落とし始めた。
「何か、ですか?」と僕は問い返そうとして、やはりそれは忘れることにした。
僕は白い皿に布巾を当て、皿と布とを円周方向に動作させることで水滴を除去する。白い皿と白い布巾、だ。次の白い皿と、パートナーをチェンジした白い布巾だ。皿だ。
皿皿皿皿皿皿だ。
皿、しかし倦怠はない。皿は常に新しく、また常に新しい場所へと僕が皿を追い込むからだ。
厨房の奥では2人の男性と2人の女性が、肉と野菜を洗う、切る、煮る、焼く、蒸す、炒めるなどの動作を俊敏に繰り出している。長靴がコンクリートの床に流れる水をぴち、ぴち、ぴちゃぴちゃと撥ねている。僕の横でフォークを磨いている飯塚さんが、僕に身体を寄せて「お前さ、ほんとにちゃんとチンポ立つのかよ。女にや○○○○○△△み□□□○△り○○○×○□」と言う。彼の手元では常に6本のフォークが扇型に展開し、効率的にこすられて光沢を与えられていく。僕の視線は天井に張り付いて、僕と飯塚さんの二人を斜め三十二度くらいの角度から見下ろしている。食物の匂い。
今から二十三年前の八月十八日が浸食を受ける前に束の間光を放ったのだ、飯塚さんの磨いた二十三年前のフォークとともに。そして新しい皿。
トラウト博士の言に従うのであれば、僕は新たな獲得と向かい合わねばならない。それは死と相似形でやがて死と重なる種類の、言葉の介在を許さない、直接僕の主体と向き合う存在である。それについて言及できない存在の、しかし確かな質量。肌の匂い。ため息。
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作品 - 20080818_995_2968p
- [佳] 皿を拭う - 右肩良久 (2008-08)
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右肩良久