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作品 - 20080417_335_2708p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


笛を持つ警吏

  殿岡秀秋

眼にはいると
同時に足がすくむ
あの店に似ている
突然
笛が鳴り
その日その時の
味覚と
怒りと
映像が
脳のスクリーンに
再現される

街を歩きながら
古い日の苦い液体が
当時のままに
食道からぼくの喉へせり上がってくる

立ち食い蕎麦屋の
厨房の中の
白い帽子を被った
初老の男の動きが変だ
手元は見えないが
どんぶりの中の
食べ残しの蕎麦や
汁をあつめていると感じた
それがぼくに来なければいいと願った
やがて食べ残しだけで一人前が
できあがる
それが運悪く
ぼくにだされた
ぼくは一度口にいれたが
濁った汁をどんぶりに戻して店を出た

二度と来なければいいや
とおもって
怒りを無理に
喉から食道へ飲みこんだ

ぼくが失ったものは
空腹の腹を満たさなかった蕎麦一杯と
その値段だけではない

街角に
似た店が眼にはいると
胸では大声を挙げたいのに
うな垂れて
店を出ていったことが
呼びさまされて
ぼくは唇を噛む
怒るべきだった
何も言わなかったことを
ぼくを監視する警吏が許さない

警吏は大きな十字路で
笛を吹きながら交通整理をする巡査の格好で
銀色の笛を持つ

別のことを考えながら歩いているのに
立ち食い蕎麦屋が眼にはいると
警吏が現れて笛を鳴らし
あの日あの時が
呼びおこされる

ぼくの眼は街を受けとめているのに
警吏は
駅前のあの店の中にぼくをおいてしまう

怒鳴ろうか
それとも
客が大勢いるので
変な目で見られたら恥ずかしいので
やめておくか
「こんなことしていいとおもっているのか」
あるいは
「新しいのととりかえろ」
と言いたい
混んでいる店の中で
食べ残しの丼が出たのはぼくだけだ
ぼくが何かいえば
しかし
周りの客が
怒りだしたぼくを
不思議そうに見るのではないか
かれらに
何を文句言うのかといわれたら
背中から声をかけられたら
ぼくは店主に
文句が言えなくなってしまう

何もしないで店を出る
それが失敗だと
警吏はぼくを責める

その店は数年もしないで潰れた
しかしぼくの失敗は消えない
似た店は都会の駅の近くにはどこでもある
メトロの階段を昇り
四角い空が
ひらけるとともに
眼に飛びこんでくる店の看板
とたんに警吏が現れて笛を鳴らす

あの日あの時が
映像とともによみがえり
叫びたくなる

ぼくは忘れたいのに
笛を鳴らす警吏
かれを初めに雇ったのは
幼い日のぼくだ

手を握ろうとしただけなのに
機嫌が悪いときの母は
ぼくの手を振り払う

手が空をさまよい
ぼくの気持ちは暗い井戸に落ちていく
からだは地上で母の側にいても
ぼくの気持ちは井戸の底から
遠く小さな空をながめる

母の不機嫌を
浴びないために
母よりも
先に笛を鳴らしてぼくに注意をうながす
警吏をぼくは必要とした

かれの戒めを聞いていれば
機嫌のいい母だけを見ることができる
と期待した

ぼくは大きくなって
母の手を握らなくなった
ところが警吏は
ぼくの監視を続ける

何か失敗したとおもうと
繰り返しぼくは責められる

ある日
幼いころに
かれを採用しことをおもいだした
ぼくをいつまでも苦しめているのは
衛生的でない立ち食い蕎麦屋ではなくて
ぼくにつきまとう警吏だ

「おまえを罷免する
笛を持って出ていけ
二度とぼくの前に現れるな」

ガラスのドアを閉める
警吏は何か言いいたそうである
ぼくは立ち去ろうとして振り返る

まだ銀色の笛を持って
ガラスドアの向うに立つ
警吏の顔は
ぼくに似ている

文学極道

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