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作品 - 20080303_683_2647p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


たんぽぽ

  吉井

 たて樋をつたわる雪解け水が耳に障るから
 少女はフェルト底のスリッパを履いて
 踊り場の中途半端に塗られた漆喰の壁を見上げながら
 ふゆの明け暮れの何もない三畳間へ移っていった

 日に二回
 泣くように見える笑い顔がへばりつく時間
 お気に入りのテレビ番組を見に少女は下りてくる
 だから食事は早お昼と早夕飯そう決まっていた
 食事がすむと食器を洗いそして黄色い耳栓をして
 あなたを待ちながら聴く アイズ ウイズアウト ア フェイス と口ずさみ
 CDラジカセを抱えたまま気もそぞろに引き揚げていく

   *

 モルタル造りの戦前からある病院の建物は
 海岸が迫った小高い丘の上にあって
 まだ枠につながったプラモデルの部品のように並んでいた

 綿毛がわずかに爪先たって残っている1本のたんぽぽを
 くちびるが曲がった男が見つめていた中庭で
 少女は藤棚にバスタオルをひっかけ首吊り自殺を図った
 さくさくさくさく
 落としかけた命のしぶきが足下の土くれに当たって飛び跳ね
 たんぽぽは別れのささやきを聞くように被ばくした

 少女はここでこの夏を越した
 少女の主治医は女医で
 大抵の男より背が高く遠目には貧相に見えた
 女医はうす雪の匂いがしてくる扇子を左指に絡ませ
 角ばった見出しのような字をカルテに書き込んだ

 夏が終わり
 少女はあきらめのミミックで踏み固められた散歩道にしゃがみこみ
 くり落ちる橡の実を両手で拾い集めた
 少女は退院の日
 たんぽぽを掘り起こし大事そうに持ち帰った

  *

 たたきに両膝をそろえて立っている
 少女は一人で外に出ることはできない
 どうしたのそうたずねると
 バレンタインのチョコを買いに行くのだと言う
 200メートル程の道を手をつないで歩いた

 一歩いっ歩足を運べば
 一歩いっ歩目的地に近づくはずなのに
 少女は違った
 足が止まるのが恐怖だから一歩また一歩と繰り出す足が空回りする
 だから一歩も前に進めない
 固着した想いが割れない卵となって少女の身を侵していて
 少女が見る地上は現実からとてもなく遠ざかっていった

 少女は疲れたもののかげに埋もれて眠りについた
 すっかり雲がはかれた大空に
 はやい月が浮かんでいて
 少女が植えた たんぽぽは
 降りつもった雪の中から頸を北に傾けながら伸びていた

文学極道

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