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作品 - 20071231_440_2522p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


No Title

  浅井康浩

あした、チェンバロを野にかえそうかなとおもっています。なんというか、
場所ではないような気がします。野にかえすこと、それだけがたいせつな
意味をもつようにと、そうおもっています。こんなにもとりとめようのな
い朝でさえ、南瓜のスープはコトコト煮えてしまうのですから、案外、草
を編むことさえ、まだおぼえているのかもしれません。あしたはあゆ祭り
です。きっとセリ科の繊維のひとすじのなかに、編み上げるときのしなや
かさまで感じとれるでしょうから、いとおしいものとしてそっと、手のひ
らにつつみこんでしまうことさえも、ゆるされてしまうのかもしれません



きっと、そんなときでさえ、なにもわからないままからっぽになっていっ
たわたしのなかを、あくがれはよぎってゆくのだろう。はかなさがあなた
をうつくしくして、音もなく、たとえせつなさとはちがったとしても、あ
なたをいとおしくおもってしまうそのように、わからなくたって、ここに
いてもいいんだよって、ひとことでつたえられるような、そんなことばを。



あなたのつくってくれる、にんじんのスープが口にはいったら、そのひっ
そりとしたくちあたりにさえうるんで、じぶんの輪郭さえも、おぼつかな
くなって、そのまま、わすれられてゆけばよいのにと、ほどけるくらいの
あたたかさになる


ときおり、そらみみとはちがったような、そんな、なつかしいこえのひび
きにうたれて、ひとすじの、ささやかな記憶すらもたちどころにわすれさ
ってしまって、いつかしら、音もなく、とりあえずのおはなしは幕をひら
いてゆく。あなたのつくってくれる、にんじんのスープを口にふくめば、
そのひっそりとしたくちあたりにさえうるんで、じぶんの輪郭さえも、お
ぼつかなくなって、そのまま、わすれられてゆけばよいのにと、ほどける
くらいのあたたかさになる



きっと、あなたのことも思いだすのだろう
きっと、そのころになれば、どうやったかはわからないまま、たどりつ
いてもいるのだろう。いつかしら、あたりにはせつなささえも、そっと
ふりつもったままで、小さな寝息のように、このまま知らない場所へと
そっと漕ぎだしているのがみえるのだろう。そうすれば、閉ざされたよ
うなくらやみを、そっと、手のひらでさわって、なぜるようにそっとす
べりこませるしぐさが、まわりの空気をさわさわと、揺らしてゆくのが
みえるのだろう



きっと、たいせつなのは、かばってやれない、ということ。きっと、鳴
りやまなかった音楽も、わたしが持っている言葉がすくなすぎたから、
すうっ、と、さらさらと攫われてゆく歌声めいて、ひっそりと聴こえな
くなっていったのでしょう。♯のいとおしさは、きっと、かなしみとな
るための記憶にさえ、かたちをあたえてやれないほどのやさしさだから
すべての音を消し去ってしまう粉雪の夜に、わたしたちは、どのような
曲を、かなでようとしていたのでしょう。なにひとつ、かなできれなか
ったこの指で、あなたのためにそっと、スープをそそいで、ありふれた
笑顔で、おいしいというときの、とめどないやさしさに胸をうたれて、
そっと、素足のわたしは、ことばにかわりに、とてもしずかなすてっぷ
を踏もう。

文学極道

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