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作品 - 20070917_701_2332p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


アゲハのジャム

  浅井康浩

どんなによわよわしくたって、見つめられているということの、その不思議な感触だけが
のこされていた。あなたはねむりに沈みこんでゆくけれど、塩のように、わたしとの記憶
を煮つめてきたのだから、そっと、さらさらとしたたってゆくものが、とめどないほどに、
みえてしまったとしても、わたしはもう、どうしようもないのでしょう。だから、そう、
あなたのからだが朽ちてゆくのを待っているのだとしても、わたしとの思い出がほつれて
しまうおとずれを、まつげをふるえさせるかすかなしぐさとして、あなたはそっと、わた
しにだけおしえてくれる。そうして、ともに、あなたから溢れだす、しょっぱい記憶の海
のなかへ、はからずも息をすることができてはじめて、わたしたちはこれから、どこへも
たどりつくことなく、ながされてゆくことができるのでしょう




教室で、わたしばかりを抱いてはほほえんでいたあのひとのやさしさのなかへ、ひかりに
さらされたままのすがたで、くるしさを告げようとしていたことの、それをだれもが告白
だというけれど、ささやくことのできなかったことばの、その手触りのひとつひとつが、
手のひらからゆっくりと消えてゆくことを知っていたからこそ、あのときの雨は、ふたり
を閉ざして、しんしんと降りしきることをやめなかったのだろう。





たとえ、なにもできなかったとしても、わたしはこの静けさのなかをあゆんでいける、そ
んな気がしていた。たとえ、あなたのかんじているだろうくるしみが、わたしに近づくこ
とをこばんでやまないのだとしても、あなたはやってきたのだから。ときには水のなかを
もぐって、こどもだったころの記憶にゆられながら。あなたはやってきたのだから、この
場所へ。こうして、見つめつづけているわたしのまわりの酸素は、どこまでも透きとおっ
てゆくのをやめなかったから、あなたにはなそうとしていた言葉たちは、みみもとをかす
めるようなささやきにしかならなかったけれど、それでもそっと、わたしを、つぼみのよ
うにやわらかく、つつみこんでくれていた。あなたのなかで、すこしずつうしなわれてゆ
くわたくしという記憶。それでも、こうしてかんじていられるあなたへのあたたかなまな
ざし。そして、この場所で、うまれてはじめて、きれいだといってくれたあなたとともに




たとえば、わたしがとしをとって、そっと、いまのわたしをふりかえれば、ここは、たど
りつけない場所になっていて、もういないあなたのそばで透きとおる、記憶のなかのわた
しがいるあの場所へ、ほつほつと、アゲハのジャムを煮るように溶けあう手はずをととの
えている、そのようなおさないわたしが、みえてくるのでしょう。思い出は、そっと霧の
ように降りそそいで、やさしく、時間のながれをゆるめてくれるから、ときには意味もな
く、隣でカタコト揺れながら、ほこりをかぶったままの空き瓶となって、あくびもし、え
いえんに、詰められることのないジャムの、あわいラベルを貼られたりもする。そうやっ
てすごすひとときが、しずかに夏のおわりをつげて





そういえば、あたたかかった夕食と、ぴちょん、とスプーンを鳴らすのがクセの、あなた
のいたずらっぽいまなざしの記憶に、部屋をでてゆこうとするわたくしの気持ちは、うっ
かりと染まりきってしまうのだった。やんわりと、気持ちがほどけてゆくのをみとどける
のを待っているかのように、思い出はやさしく、わたくしのうしろから手をふってくれて
いる。泣きたくなる、その一歩手前のさみしさを、ふりかえろうとする感傷のいいわけに
して、じぶんをどこまでもはぐらかすために、世界はつまり、ひとさじのたまねぎのあつ
いスープなのだとおもう。そして、忘れないでいよう。そのどれもが、かけがえのないも
のであったということを。

文学極道

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