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作品 - 20070615_134_2139p

  • [優]   - 宮下倉庫  (2007-06)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  宮下倉庫



それは妻がメレンゲを作るために、ボールに落とした卵5個分の卵白をホイッパ
ーでかき混ぜている時のことだった。5重苦よ、結婚してから、わたし、これで
もう5つめなのよ。そう言うと妻はホイッパーを卵白の表面に対し鈍角に投げ込
む。僕はどこかからの大事な電話に出ていたのだが、彼女が卵の数の話をしてい
るのではないことを悟り、受話器を置いていそいそと5歳の娘を幼稚園まで迎え
にいく準備を始める。あなた、お母さん方の眼があるのだから、赤い口紅くらい
さしていってね。それはもっともだと僕は、洗面所で赤い口紅を再現不能な気分
で一直線に2本塗りたくって×を作り、キャップも閉めずにぽいと投げ出し、黒
くて真四角の家を出る。そういえば娘を迎えに行くのは今日が初めてだった。そ
んなことを考えていたせいだろう。最初の角を折れたところで、猛スピードで突
っ込んできた車に僕は吹っ飛ばされ


しょーもない しょーもない と娘はがらんどうの室内で唱えている。いつも、
あんな感じですか、娘は。ええ、いつも、あんな感じですよ、娘さんは。僕と保
母の会話を尻目に、娘は室内の中心で砂遊びを始める。娘よなにがしょーもない
んだいと聞くよりも早く、娘は砂を襟元まで積み上げては崩す、そんなことを5
回繰り返した。最近は、これが流行ってるの、そう言うと娘は再び襟元まで砂を
積み上げ、再現不能な気分で崩す。5回繰り返す。そうこうしていると、園長だ
というおっさんに話があるからと奥の部屋に呼ばれ、保母に娘のことを託し、僕
は奥の部屋に移動する。園長の話はこうだ。うちではもう娘さんをお預かりでき
ませんな。どういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、まあ煙草で
もいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸ばすと、
実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐にしまって
しまう。それでまたどういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、ま
あ煙草でもいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸
ばすと、実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐に
しまってしまう。それでまたどういう意味ですと


今や保母の姿は見当たらず、娘はたくさんの園児と、砂を床一面に敷きつめてい
る。全面に敷き終えると園児達は、今はこういうのが流行っているからと、砂の
上を裸足で歩き始める。その程度のもののために僕たちは生きたり死んだりして
いるらしく、まだ起きていないもののことを、僕は知らない。水のように自由に
歩き回る園児達が一歩踏み出す度、きゅうと砂が鳴く。5歩踏み出せばきゅうき
ゅうきゅうきゅうきゅうと鳴く。僕も歩いてみようとするが、おじさんみたいな
人は、まずは襟元まで積み上げてからと園児達に窘められてしまう。彼らよりも
ずっと背の高い僕は、何度試みても砂を襟元まで積み上げられない。すると唐突
にお母さん方の眼を感じて僕は、口紅を塗り直さなければならないことに思い当
たる。しかし家の灰皿に溜まった吸殻には、すべて赤い口紅の跡が残されている
ことさえ僕は知らない!


妻の苦しみのふたつかみっつは、僕や娘のせいなのだろう。しょーもない、とは
そういえば妻の口癖だ。僕については、いえ、しょーもない主人ですが。僕の仕
事については、いえ、しょーもない仕事をしてまして。僕らの黒くて真四角の家
については、いえ、まったくしょーもない家でして。それはもはや僕たちの生活
に不可欠の冠詞のようですらある。娘の手を引き幼稚園の門を抜けて振り返ると
、室内では園長だというおっさんが僕みたいなやつと、再現不能な気分でやりと
りを繰り返しているのが見える。ああ、僕は永遠に痕跡として刻みつけられてし
まったのだなあ。そうひとりごつと、私たちの生きる理由なんてその程度のもの
なのよと娘に窘められる。この子はよく知っている。手をつないだ家路の途中、
曲がり角にさしかかる度、赤い口紅をさした人が車に吹っ飛ばされる光景を目の
当たりにする。そういえば僕も車に吹っ飛ばされたのだけど、それもやはり、再
現不能な痕跡なのだ。ひとつ前の角では、妻みたいな人が吹っ飛んでいた。とな
ると次の角では


既にして妻は家にいなくなり、メレンゲは恐ろしく泡で、机の上の灰皿には口紅
の跡がついた吸殻が山積みになっていて、洗面所では口紅が床に転がり、しかも
再現不能な気分で一直線が2本塗りたくられていて、それらは落下する黒い立方
体の中で、落下する黒い立方体よりも少し速い速度で速やかに落下を始めようと
している。それは私たちのせいなの、と娘は本当によく知っている。僕は電話の
前で待っている。どこからか分からないが、どこかから大事な電話が掛かってく
るはずだ。恐ろしく泡や、吸殻や、一直線の口紅や、娘に、順番に×がつけられ
ていく。いよいよ僕たちは真っ四角に落下を始めたらしい。すると電話が鳴り、
受話器の向こうの僕の痕跡は、僕や妻が車に吹っ飛ばされたことをゆっくりと告
げる。そんなことを5回繰り返す。そして静かに受話器を置くといよいよ僕にも
×が

文学極道

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