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作品 - 20070529_690_2095p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「 蟹。 」

  PULL.




朝起きると、
夫の蟹を食べる。
水のきれいな土地で生まれ育った夫の蟹は、
沢蟹に似た味がして、
なかなかの珍味である。
蟹は大抵、
夫が寝ている間に、
湧いて出る。
一度などはひどく寝坊をして、
夫の顔の右側面に蟹が、
びっしりと張り付いていたこともある。
あの朝はすべての蟹を食べるのに、
一時間近くも掛かり、
さすがのわたしも夫の蟹が少し嫌いになった。

蟹を食べ終えると、
夫は目覚める。
新婚の頃と変わらない、
いつもの朝のキスを交わし、
夫はキッチンで、
ふたりの朝食を作ってくれる。
夫の作るプレーンオムレツはおいしく、
蟹でもたれたわたしの腹を、
やさしく、
いたわってくれる。

夫を送り出すと、
わたしは家にひとりになる。
ひとりに、
なると、
誰もいないキッチンの隅やそこかしこから、
蟹が、
わさわさと、
湧いて覗いているような、
そんな気分になることもある。
そんな気分の時は、
少し化粧をして、
夫には見せない顔になって、
外に出掛ける。

蟹は外にもいる。
蟹を張り付かせたまま出歩く男も、
近頃は増えてきた。
蟹たちはわたしを見つけると、
ぶくぶくと泡を噴き、
わたしを、
誘う。
わたしは慎重に指を出し、
すれ違いざまに、
釣り上げる。

釣り上げた蟹は、
近くのホテルでじっくりと味わう。
街中でじかに味わうのも時にはいいが、
それなりに人目も気になるし、
何より、
外では時間が掛けられない。
やはり味わう時は、
じっくりと時間を掛けて味わいたい。

若い、
ファーストフードで育った蟹は、
夫のそれとは違い、
ひどく、
舌に残る。
そのあまりの後味の悪さに、
わたしはいつも後悔する。

前に、
遠い海の向こうから来た蟹を、
食べたことがある。
褐色の甲羅のその蟹は、
とても濃厚でどろりとしていて、
今まで食べたどの蟹よりも、
おいしかった。
あの味を思い出すたび、
わたしの指は悪戯になり、
また蟹を、
釣り上げる。

夫は蟹のことを知らない。
いや、
男たちは誰も、
蟹のことを知らない。

わたしたち女は、
女だけで集まって、
蟹について話すことがある。
そんな時、
わたしたちは、
わたしたちがどれだけ満たされていないのか、
ひどく、
確認し合うのである。






           了。

文学極道

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