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作品 - 20070515_367_2066p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ヘヴンリーブルー

  浅井康浩

ずっと遠いむかしの、あのなつかしい序曲のひびきを聴けば、たよりないころのわたくし
にもどってしまいそうで、いまはおもいだせない名の、それがどうしようもなくめぐらせ
てしまう、わたくしのからだをひろがってゆくやさしさを歌えば、ひとはまた、さらさら
とこぼれおちてくる静けさをともなって、すぅ、といきを吸ったっきり、どこまでもうし
なってゆくことのやまない・・・



魚たちの表面に沿ってゆけば、やがて、ほどけるようにすいこまれてゆく
すこしずつこぼれてゆく酸素を、さらわれてしまう悲しみとして、いだきながら、ほとり
へと、ながれついてしまうそのときまで、しておくべきことをわすれてしまわないために
わたしのからだのすみずみへと、芽吹くほどのはやさで、やさしさを、しみこませるよう
にそっと、めぐらせてゆき、ひれを衰弱させてゆく。



やむことのない雨が水面にうちつけては、はじけて、雨の外側をおおっていた水の膜がは
がされてゆく。そうして、内側の水滴が均質にひろがった水面下へと降ってくるのだが、
しだいにその丸さも、まわりの海水へと拡散をはじめてゆき、そのわずかに沈潜してゆく
水のたゆたいが、わたくしの皮膚感覚のなかへと、ゆるやかにしみこもうとすることを知
るときがくる、そしたら、あとはにじみはじめるだけであとかたもなく溶けさってしまう
そのような不定形なひろがりの、その濃度のほんのすこしうすかった場所に沿って。



ねぇ、この閉ざされたガーデンで、水の記憶はどこまでもたゆたっていたのかもしれない
そっと、くるみこんでいたうるおいを、うちよせていたその場所が岸辺とも知らずに、く
りかえし、手渡そうとしていたのかもしれない



あめつぶにとけこんで、すいめんにしずんでゆくものたちをながめていれば、すこしずつ
消えたようにしてこぼれてゆく花粉は、砂のかたちをとりはじめて、みずうみの底はゆっ
くりと揺らいでゆく。いつの日にかこの湖畔で、あなたは産卵するのだと、人はいうけれ
ど、そうでなくても、ここにいることが、なんとなく好きだったから、みずうみが消えて
しまう日だって、わたくしはなつかしんでしまうこともできた。そのために、いずれくる
孵化という日が、かかえきれないほどのくるしさをともなってしまうのだとしても、「い
け」や「ぬま」へと、その姿をかえたっていいよ、みずうみ。



たしかに還流は、わたしたちをつつみこんで、わたしたちのすすむべき進路をどこまでも
見えなくしてしまっているのかもしれない。たしかに、潮流にながされてしまうこと/そ
うでないことは、いまこの夜のなかを泳ぐものたちにとって、ひきかえすことのない変化
へとみちびいてゆくことになるのかもしれない。けれどもわたしたちは、知ることのない
ままに、知っていたとしてもこの夜の潮の流れのままにひれを濡らしてゆく。そこにはも
う、水脈との交流がはじまっているのだし、流れに沿ってゆくことだけに賭けることしか
できないわたしたちの過程もそこにしかないのだから。



つつましく消えてしまうものたちのなかで、すこしずつときはなたれてゆく自然の水系
うっすらとほどけてゆく時間は、さやさやと響くうすあおい音楽とともに、みずうみの
底へと遍在してゆく。



そして、水中に乙女座、獅子座の浮かぶ夜、軌跡の消え去る音さえ聞こえなくなったあな
たに、恩寵のようにソネットは降るのだろう、やさしそうにゆるやかにあなたのひれをす
りつぶすように。



湖畔にて、悼むことをやめない小鳥であることも、あまいかおりの眠りにほどけて。
それでも、小鳥のくちばしをつつみこむように、しずかに水はあふれはじめる

文学極道

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