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作品 - 20070221_400_1861p

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母のカルテ

  一条

母が喉につっかえてしまい、仕方なく近所の医者にかかることにした。症状を説明すると「まずは あなたのお母さんを治療するのが礼儀というものだ」と、医者は言った。妻の意見を聞いてみたい、とわたしが嘆願すると、医者はひどく迷惑そうな顔をした。//// あなた、医者の意見より、奥さんの意見を信用するつもりなのか、じゃあ、なんで病院に来たんだい、奥さんの意見が信頼できないからじゃないのかい、いったい、あなたの奥さんの意見にどんな意味があると思ってるんだ、奥さんの意見に、そもそも耳を傾ける気など本当にあるのかい、あなたの奥さんは今頃、ボストンバッグに汚れた下着をいっぱい詰め込んで、失踪する準備をしているというのに ///// しかし、妻とは、あいにく連絡がとれず、その間も、母はずっとわたしの喉を揺らしていた。とても息が苦しく、堪らず悶えてしまうと、「母親は異物ではありませんよ」と、医者は、わたしを嗜めるように、そして喉をぐいと両手で押さえつけた。 //// ほら、私の言ったとおりじゃないか、今頃、あなたの奥さんは、ボストンバッグに汚い下着を詰め込むのに飽きて、それをそのままにして、あなたの家から出ていったよ //// もう、妻の話はよしてください。私は、母がつっかえたままの、喉から声をふりしぼった。//// ああ、あなた、やっと認めたのだね、もう、奥さんの話はよしますよ、だって、最初から、あなたの奥さんと、あなたの母親は他人なんだから ////「いいですか、あなたは少しも病気じゃないのです」と医者はわたしを睨みつけた。それでも、つっかえた母はわたしの喉をしつこく揺らし、わたしの声は震えた。医者は、ますます強圧的になり、頑丈なロープでわたしを治療台に縛りつけ、わたしの喉をメスで切開した。わたしは、いよいよ声を失った。 //// だけども、やっと、ぼくの喉から、出てきてくれたんだね、お母さん、ぼくです、あなたの息子です、覚えてくれていますか、ぼくは、お母さんの声を、忘れちゃいないよ、 //// 薄れていく意識の中で、母と医者の談笑が遠くに聞こえた。近頃の若い者ときたら礼儀というものを知らな過ぎる、先生の仰る通りですわ、おほほほほほ、とわたしの母は下品に笑い、そして血まみれの体をタオルで拭っている。せっかく、つっかえがなくなったわたしの喉なのに、医者は、それを縫合もせず、ただ、そこから息は、すーすーと漏れ、 //// ほら、馬鹿みたいでしょ、この子、ええ、正真正銘の馬鹿なんですよ、とにかく、産まれたばかりのころから、馬鹿な子でねえ、先生、私、本当に後悔しているのです、産まなきゃ良かったのよ、ええ、文句があるなら、何か言いなさいよ、けっ、けけけっけけけけけけけっけけけっけっけけけけけけっけけけ、けけ、けっけけっけけっけっけっけっけ、けけけけっけけけけっけけけけけっけけっけっけけけっけ、けけっけけけっけけけけっけけけけっけけけけ、けっけけっけけけけけけけけ、け、け、け、////  と、母はわたしを汚く罵り、医者は、わたしの、わたしの血まみれのカルテに異常なしと記した。

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