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作品 - 20060920_638_1556p

  • [優]  AYAKO - コントラ  (2006-09)  ~

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


AYAKO

  コントラ


アヤコの手を握って歩いていた。路面電車の駅からつづく暗い道で、7月。祭りのあとの、風のない夜。客のない喫茶店の室内灯と、黒い電線がはしる空。単線の踏切を渡ると原っぱのなかにタバコの自販機がぽつんと光を放っている。僕らは小さな橋をわたり、行き止まりの道にあるアパートにつく。戸口には古い蛍光灯が消えかけていて、錆びた自転車が置いたままになっている。窓から川が見える2階の、6畳の部屋。薄闇のなか、僕らは水槽の魚のように折り重なって眠る。窓の外で原付自転車が橋をわたり、ゆるい坂を登ってゆく。マンホールの蓋がくぼむ音。闇に伸びてゆくテールランプの帯。

オレンジ色のランプが入口にかかっている。半地下にあるアフリカ料理屋のテーブルで僕はアヤコと向きあっていた。派手な髪飾りに気づくと、いつも東南アジア系に間違われるから、と言いながらはにかんで笑う。薄暗い店内にいる僕らの肌には赤や黄色のセロファンが投影されている。それは立体壁画のモザイクのように過去や現在を透かして見せる。バクラランからコタキナバルへ、シンガポールからアロースターへ。アヤコは涼しげな顔で僕の話を聞いている。ときどき、「それはどうして?」と言って僕の目をみる。グラスの氷がぶつかり合う音。ドアのガラスのむこうではセミが鳴いている。

アヤコを見送る。私鉄線の駅前。小豆色の6両編成が小さな光源になって森の裏側へ隠れる。風のない夜。深夜の丸太町を4速で走った。90ccの消えいりそうなエンジン音が、穏やかな海のように凪いでいる。シャッターを下ろしたディスカウントストアの交差点を入ると街路樹が闇を包みこみ、灯りの消えたアパートや家並みがつづく。何年か前に、赤道近くの白く乾いた街で同じようにホンダを走らせたことがあった。くねくねした支道をどこまでも入ってゆくと、道は未舗装になり、電気もまだ来ない海岸の村にたどり着く。サロンをまいた老人は、高床の家の筵に僕を座らせて、酸っぱく味つけた焼魚を振舞ってくれた。

水をふくんだ空気。窓からみえるラグーンの向こうには緑に覆われた島が横たわっている。老人は言った。あの島は数年前に白人の大富豪に買い取られて、高級ホテルと自然保護区が整備されて立ち入り禁止になった。だから私たちはここから島を眺めるだけなのだ、と。硬質プラスティックに映るタバコの自販機の灯りを視界の隅にとらえる。橋をわたり右にターンしてアパートの前にバイクを止める。フルフェイスを脱ぐと、星々がきれいに見えた。鍵を抜いてポケットに入れ、アパートの階段を上る。

夢をみた。たちのぼる陽炎のむこうには緑の島がにじんでいて、僕は油の浮いた海を、岸を目指して泳いでいる。苦しくて息がきれる。老人は後ろから僕の肩をつかんで引きとめる。そのうちさざなみの合間にはいくつもの褐色の腕が浮かび上がる。港では短針が振り切れた白い時計塔の下で女たちが膝をついている。午後の太陽は島の中央基線の上に14時間以上もとどまりつづけていて、浜辺にはいくつもの干上がった魚が打ち上げられていた。

アヤコと向き合って路面電車に揺られていた。肩からブラジャーのストラップがのぞいているのをぼんやり見ていた。電車の広告が江ノ島の写真を載せている。「江ノ島って熱帯みたいな感覚がある」と僕はアヤコに話す。窓に指をあてながら「それはどうして?」と彼女が答える。祭りのあとの人いきれを載せた電車。乗客の背丈のうえで扇風機が風を送る。窓の外で飽和してゆく、水をふくんだ盆地の夏。古い家屋の軒先に風鈴が揺れている、僕らが歩いている道の、マンホールの底のように暗い夏。いつか深夜便のせまい窓から見た赤道直下の島々のように、そこには風がなくて、ただ白く光るタバコの自販機だけがかすかな音をたてていた。

文学極道

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