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作品 - 20060908_443_1538p

  • [優]  creep - ケムリ  (2006-09)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


creep

  ケムリ

 夜の底の海辺に倉庫たちが立ち尽くしていて、廃棄された連なりを静かに受け止めている。夏の終わりの透明な枯葉をゆらしながら、いばらに苦い潮風が渡っていく。倉庫のなかでは羊の毛刈りが行われていて、羊の脂の匂いと潮風が混じりあった苦さで口のなかを満たす。むっとする夏の空気と、汚れた海の臭気が僕の髪にまとわりついて、離れない。 彼らは、揃いの薄汚れたポロを着て、かつてぎらついていた強さを思わせる黒い腕を振り回しながら、深い色合いの水を湛えた瞳で羊たちを刈り込んでいく。
「羊を、一匹ください」
ぼくは言う、羊なんか一匹もいないよ、と彼はいう。
「もう、刈り取ってしまったんだ。あとは、刈り取るものしかいない」
脂に汚れた指先に、両切りの煙草がくゆる。羊たちの鳴き声を僕は待つ。でも、羊はただの一匹も嘶かない。ただ、無骨な手に身をまかせ、刈り取られていく。脂の匂いが立ち込めている、誰も換気をしようとはしない。礼を言って、ぼくは歩き去った。誰も振り返らなかった。

 街灯に羽虫が群がる道で、女の子が石英を売っていた。沿道の木々は傷むほどにざわつき、風はぬるく、鼻腔の奥に苦味を残していく。微かに深紫、紫蘇の匂い。
「羊が欲しいんでしょ」
彼女は言う、ぼくは「欲しい」と言う。長い旅には、いつも暖かさが求められると。
 彼女は、茣蓙の上にいくつもの石英を広げて、その一つの縁を紙やすりでなぞっている。そういえば、月が見えない。こんなに晴れ渡っているのに。それがなんだかぼくの居心地を悪くさせている。
「ひとつ、あげるよ」
彼女は、ぼくに石英を手渡す。微かに、掌の温かさが残っている。
「でも、どこを探してもやわらかい草なんてないよ」
その通りだった。とても、その通りだった。少し嬉しくて、ぼくは財布を丸ごと彼女に渡そうとしたのに、列車はもう走り出している。森の奥で、誰かが振りかえったような音がして、月が卵割を始めた。姿さえ見せず、静かに。生まれるのはいつも秘め事のあとだけで。そんなことはいつだって、誰だってわかってるよ。列車はもう、走り出していると。

 向かいの座席には、色んな人たちが等間隔で座っている。申し合わせたように、一人分のスペースを間に取りながら。ぼくは彼らをみな、知っているけれど。彼らはみな、ぼく以外の誰も知らない。だから、ぼくらは誰も口を開かない。
車掌が切符を確認しに来ると、すぐに彼らは逃げるように窓から飛び降りていって、ぼくは一人になった。車掌は「連れは一人だけだね」と尋ねる。ぼくはそうだと言う。
「予約席のお客様が、呼んでるんだがね」
前の車両には、昔の友人が座っていた。セッションをしないか、と彼はもちかける。でも、ぼくのギターは3弦も1弦も切れたままで、しかも酷くさび付いているし、真っ赤な塗装もところどころ剥げてしまっている。
 彼は、ぼくの手をとって、「そういうことじゃないんだ」と言う。わかってるよ、そんなことは。地球の裏側で、新しい命が生まれていることも、きっともうじきたくさんの母親が刺し殺されることも。月が卵割を始める、等割の広がりが世界を微かに甘く色づける。
「やわらかい草のある大陸の話をしよう」
ぼくは首を振る。そんなことは、きっと最初からわかっていた。

 幾つかの駅をやり過ごして、石英をポケットに入れたまま、ぼくは今にも崩れそうな駅舎に降りたった。どれだけ近づいても駅名は読み取れず、靴がいつの間にか打ちっぱなしのアスファルトにくっついている、そんな駅に。
 駅のドアは堅く閉ざされていて、ぼくはベンチに座ったまま、誰もいない売店から新聞を一つくすねて、それを枕に眠った。石英は微かに暖かく、羊の脂の匂いがする。ぼくの髪からも、あの子の首筋からも、どこからも羊の匂いがする。
 石英は、気付いたら羊になって、ぼくの上に丸まったまま小さな寝息を立てている。若く柔らかい子羊の呼吸が、ぼくの前髪をほんの少しゆらす。ぼくはいたたまれなくて、泣いた。綺麗な水も、柔らかい草も、もうどこにもないんだよ。ごめんよ、ぼくはいつだって靴紐の結び方がいい加減だった。ぼくの顔に残った涙の塩気を、彼女は優しく舐め取る。そんなことは、きっとわかってたんだ、誰にだって。耳を澄ませば潮の引いていく音さえ聞こえそうだった。

 卵割が終わろうとしている。全ての母親が刺し殺された大地に、ぼくらはいつまでも立ち続けるだろう。そしてまた、卵割の中に新しい痛みが重なっていく。世界に蜜の甘さが降り注いで、目を閉じることさえ赦されていく。
 そして、ぼくはあなたの血がしみこんだ大地に、羊を放とう。月に向かって槍を投げた、幼い子どもたちの先頭にたって、彼らの嘲笑を浴びながら、朝焼けの中の鳥が描く軌道で、高らく。目を閉じた、光の残渣が幾何学模様を描いてのしかかってくる。月が弾けとんだ、全ての細胞たちは道しるべに分かたれて。

文学極道

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