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作品 - 20060731_797_1451p

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こらこら、行くな

  ヒダリテ

 夏の夜も白々と明け始めた午前四時半、遅々として進まぬ書き仕事に嫌気がさした私は、何か楽しげな事はないかと、半ばやけになりつつ、ぐるぐるとさまざまな思考を巡らしていたところ、ふと、
「お、妻と、遊ぼう。」
 と思い至ったのである。
 そして、いまだ眠る妻のいる寝室のドアを勢いよく開けると、ベッドの上ですやすやと眠る妻に向かって比較的大声で、こう言ってやったのである。
「遊ぼう!」

 ぐるりと腰にヒモを結びつけた妻と、そのヒモの先を握る私とで、リビングの床に黙って、ただ座る。
「何ですの、これ?」
 と妻は言う。
「こらこら行くな遊びだ。」
 と私は答える。
「……行くな遊び? ……なんですの、それ?」
 と言いながら、腰を上げ、キッチンの方へ妻は向かおうとする。スルスルとヒモが伸びていき、私の手の中から逃れようとする。すかさず私はその先をしっかりと握り、少しこちらへ引き戻しながら、言う。
「こらこら、行くな。」

 う、と、小さくうなって妻は再び私の傍らへ引き戻され、座り込む。ぺたり。
 困った、みたいな顔をして私の顔を見る妻は無言で、しかし、確かに何かを言おうとしてためらっているらしいのが分かる。
「どうだい?」
 と言う私に、妻は何も言わない。
「こらこら行くな遊びだよ。妻。」
 と私はもう一度言ってきかせる。
「眠いのよ、あたし。」
 妻はそう言って立ち上がり寝室のドアノブに手をかける。すかさず、私はヒモを引っ張り、もう一度、言う。
「こらこら、行くな。」

 う、と、また小さくうなって、引き戻され、力なく、ぺたり、と、私の傍らに座り込んだ妻は、ひとつ大きなため息をつくと、無言で私の目を見つめる。
「どうだい?」
 と、また私は言う。……妻の、目。
 数秒間の沈黙のあと、妻は、小さな声、しかしきっぱりとした口調で、言う。
「おもしろくないわ。」
 そのまま妻は私が買ってきてしまったちいちゃな靴を見つめている。
 ちいちゃな靴。妻は言った。
「子供、……欲しかったの?」

 私は思う。生まれるはずだった命に、名付けられるはずだった名前がある、と。
 デパートの子供服売り場で、ちいちゃな、ちいちゃな靴を手に取りながら私は、「大人が殺さなきゃならないほどに、子供が溢れてるってわけでもないだろうに……」と、思った。
 市民プールから帰る子供たちがたくさん乗ったバスの車内で、思いがけず涙していた私を、ひとりの少年がじっと見つめていた。私は、ただただ聞いていた。きゃらきゃらと甲高く響く笑い声。その、にぎやかな車内、そこにも、たくさんの名前は行き交っていた。
 まさお、ゆき、とおる、かおる、ひでき、あいこ、めぐみ、さとし……。
 私は思う。たくさんの生まれるはずだった命に、たくさんの名付けられるはずだった名前がある、と。そのことを忘れちゃいけない。たくさん、たくさんの名付けられなかった名前が、あるのだ、と。

 私と妻は、リビングの冷たい床の上、そのままじっと何も言わず、いつまでも、ちいちゃな靴を眺めていた。
 すっかり朝陽も昇り、人々の朝がゆっくりと回転しはじめた。
「子供、欲しかったの?」
 と、また妻は言った。
 う、と、私は思わず、涙しそうになったが、それを堪え、
「しょうがないさ。誰のせいでもないのだし。」
 と、少し大げさに明るく振る舞ってみせると、妻はちょっと笑った。
「ちょっと早いけど、朝ご飯にしましょうか。」
 そう言いながら、キッチンへ向かおうとする妻の腰から伸びたヒモを、もう一度だけ、ぐっと引き寄せながら、私は言う。
「こらこら、行くな。」

 そして。
 う、と、妻はまた、ちょっとよろけて、ぺたり、と、今度は私の膝の上。妻の首、妻の肩、じっくりと、今、妻の体温。
 もう少し、このままが良い。

文学極道

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