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作品 - 20060516_959_1262p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


モモンガの帰郷のために

  りす

モモンガが森に帰る朝
謝るとは何を捨てることなのか
すまない。
わたしはモモンガにそう言ったのかもしれない
なぜ、謝る?
家内が君のことをずっとムササビと呼んで、
いいんだ、慣れてる


レガシーのサイドミラーに自分を映し
女生徒のように丹念に毛づくろいしている
長旅になるのだろう
モモンガは鏡が好きだ
モモンガは断言する
これが人間から学んだ唯一のことだ、と


餞別のつもりで
三日分のバナナチップスを渡そうとした
モモンガは現地調達で行くから心配するなと呟き
振り向きもせず毛並みを整える
長い距離を飛ぶのは久しぶりなんだ
そう言って薄い飛膜を朝陽に透かす
きれいだな、とわたしは言ったが
モモンガは相変わらず
きれい という言葉を理解しない
わたしは 現地 とはどこだろうと
気になったが尋ねなかった


たとえば、とモモンガは言う
例えば、あの人はムササビをなんて呼ぶと思う?
ムササビはムササビと呼ぶだろう
そこには モモンガ が抜け落ちている
まちがい、ではないんだ
ただ 抜け落ちているだけだ
あの人を責めてはいけない


コンクリートジャングル という言葉を
わたしは初めて理解した
電柱を飛び移るという行為を
わたしは想像したことがなかった
想像する前に実行する生き物もある

電柱を飛び移るとは
繁った枝に飛び移るような
曖昧な着地を許さない
モモンガはここ数ヶ月 猛練習をしていた
モモンガの目撃情報が
朝日新聞の夕刊にのったのはその頃だ
「大都会でたくましく生きるモモンガ君」
そんな見出しだった
「君」をつければ誰でも仲間になるのかい?
モモンガは皮肉も上手かった


飛ぶことよりも着地が難しいんだ、モモンガは言う
友人のANAのパイロットも同じことを言っていた
教訓のような 常識のような
モモンガの言葉は いつもそんな印象だ


妻がパジャマのまま庭に出てきて
あら、どっか行くの? と尋ねる
モモンガに言ったのか わたしに言ったのか
判然としないうちに
どっか行くなら、ついでに燃えないゴミ出してきて、と言う
妻が差し出す半透明ゴミ袋に わたしが手をかけると
いいよ、俺が持っていくから、とモモンガが奪いとる
すまない、わたしはまた謝る
いいんだ、慣れてる

モモンガはひょいと物干し竿に飛びのると
手足を伸ばし 飛膜をいっぱいに広げ
一番近い電柱に飛び移る
ムササビってお利口さんね、と妻が微笑む
そうだな、わたしは相槌を打つ
ゴミ袋をぶら下げて 
モモンガが電柱から電柱へと遠ざかる
せめて ゴミ袋ではなく バナナチップスを
持たせてあげたかった
いつも何か抜け落ちている
謝るとは何を捨てることなのか
すまない、モモンガ。

文学極道

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