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作品 - 20060310_151_1039p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


パン屋昇天

  まーろっく

 評判のいいパン屋だったがその男はある朝、日めくりの白
い裏側に消えていたのだった。からっぽの調理服が仕事場に
立っているのを女房は見た。机のうえでまっ黒いパン生地が
イースト菌で膨らんでいた。
 そのパン生地こそ彼だった。三十年。パンに彼が練りこん
でいた密かな憎悪がとうとう消尽したのである。小心な男ら
しいやりかただった、じつに、母を父に殺された男らしいや
りかただ。
 きまじめに狂っていったので、女房にも町の住人にも気づ
かれはしなかった。赤い月が消え残っている朝だけひび割れ
た心から熱い笑いを吹き上げていたが、都会の朝焼けの音に
かき消されてしまいその声を聞いた者はいない。
 町は、三十年かけて人も建物も黒ずんでいったがあまりに
もわずかずつだったので自然に汚れたように見えた。ある日、
母親のまぶたの裏がまっ黒なのを見て幼児が怯えたが、その
幼児の舌もまた黒ずみはじめていたのである。
 女房は亭主の体温と同じ高さで発酵したパン生地をオーブ
ンに入れた。そうしてできた黒パンを早朝の白い光があふれ
ている店の棚に並べ終えた時、町の住人たちに撲殺されたの
である。買い物かごのかわりに棍棒を手にした人たちによっ
て。
 飛び散ったショーウインドウのかけらには、消えた男の朝
が美しく結晶していた。まぶしいほどの忘却のなかで起きた、
それが惨劇のすべてだった。

文学極道

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