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作品 - 20060216_790_976p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Negara Katulistiwa  熱帯アジアの十字路にて

  コントラ

ベンクーレンのドミトリー、灰色の絨毯に夕方の日が差しこんで、ベランダに出ると、青く透きとおる北東の空に雲がちぎれている。埃を吸い込んだベッドの端には、誰かが忘れた国際フェリーの半券が落ちている。いましがた半裸で眠りつづけていたイギリス人は、少しまえに荷物をまとめて出ていった。誰もいない、翳ってゆく部屋。明け方、国境の水道を渡る列車のなかで出会った女の子は、別れ際に小さな紙片を僕に手渡した。煙草に火を点けて、いまその紙片を読んでいる。クレテック煙草の甘い煙はパチパチはじけながら、僕が数ヶ月前に引きはらった、寒い盆地のはずれにある下宿にまで記憶を参照していった。

椰子の木が植えられた空港からこの界隈まで、瀟洒な二階建てバスが結んでいる。街の通りのあちこちは工事中で、闇のなかベンガルの男たちがかざすオレンジ色のランプで、渋滞する車の列が誘導されてゆく。朝、目がさめると、5階の窓は開け放たれている。じわじわと湿度をあげる空気をつたって、建築資材がぶつかりあう音がビル街に響いている。ヤンゴン、クアラルンプール、スラバヤ。台北、コロンボ、シンガポール。安宿のベッドとシーリング・ファンが回る天井。小さな吹き抜けの空間で撹拌され気化してゆく意識。真昼には路線バスを十字路ごとに乗り換えて、近代的なショッピング・コンプレックスのエスカレーターを昇ってゆく。屋上のテーブルから街を見晴らすと、三角州の上にはうっすらと排気ガスの層がかぶさっている。1日3回以上冷たいシャワーを浴びて、そのたびにパウダーを全身に塗りたくった。ひんやりした熱帯夜の手のひらで、セブンイレブンで買ったシャーベットを飲み干すと、僕は屋台で遅い食事をとっている、スカーフを巻いた女たちのおしゃべりを聞いていた。

最終日、彼女はいくら待っても現れなかった。「検事」通りの出口の、30度を超える日なたで、通りの反対側、ナシゴレンを炒める屋台から甘い煙が流れている。Jam Karet. 歯の欠けたガム売りの男が話しかけてくる(この土地では時間はガムのように伸び縮みするものなのだ、と)。国際フェリーに乗って海峡を渡るとき、船尾に集まる潮の渦を眺めながら、僕は「旅」について、冷たい「構造」を発見するのかもしれない。国際ターミナルの免税品店を漂うコロンの匂いのなかで、あるいは、空港に向かう二階建てバスの窓から、高木樹が植えられた分離帯を眺めながら。バスがランプウェイを降りてゆくと、滑走路にはもう飛行機が到着していて、その光景を、フェンスの向こうの荒れ地から、僕はただ見まもっていた。


・追記
書いているときはほとんど視界になかった自分の脳天気さに絶望するのですが、この作品を構成している、実在する地域の一部(特にスマトラ島とスリランカ)は2004年暮れの大津波の被災地域です。書いてしまってから手遅れなのですが自戒のために。

文学極道

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