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作品 - 20051029_870_676p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


メランコリック・ブラウニー

  藍露

【某月某日】

知っている。

ぐつぐつと鍋がかきまぜられる午後。大きな体が鼻歌のリズムで得意げに揺れる。カリフォルニア出身のバーバラは具だくさんのスープを作るのが上手で、定番はクラムチャウダーである。そばかすだらけの老けた赤ら顔をしわくちゃにして、お気に入りの本でも読んでいなさいと棒立ちの一人娘を笑う。彼女の瞳にはいまだにブラウニーを急いで頬張る少女が映っているのだろう。五年前に結婚したメアリーはほとんど料理をしたことがない。せいぜい材料の買い出しを頼まれるぐらいだ。

かつて家族が囲んだ食卓は空席が目立つようになり、椅子はたった三つになってしまった。大学時代のパーティーで知り合った年上のジュードは、「ママの味」をおおげさに喜ぶ。食事はそれなりに美味しいのだけれども、いつしか均一な味になっているような気がしてならない。それとも私が味覚に鈍感なだけだろうか。夫は毎晩、満足そうに眠り、台所では洗い終わった鍋や食器が定位置におさまる。

暗い海水の下で引き上げられるのを待っている養殖貝。取り引きされるのは、柔らかで弾力のある身。大切に守られた中身だけが調理可能なのだ。ここは何重にも網が張り巡らされている。手足の出ない終身刑のクラムスクール。

知っている。同じ味のするスープが並べられる食卓で、舌に何も語らせてはいけないことを。秘密は個体によって静かに咀嚼するもの。

わたし、はまだ産まれてはいない。



【某月某日】

知っていた。

ダブルベットの右隣。寝息を立てる男は結婚前までは優しかった。いや、一見変化のない風景のように今も優しいと言えるだろう。心臓が弱い妻を労り、負担となる出産を無理強いはしない。仕事が終わるとすぐに帰宅して、家族との時間を大切にしてくれる。休日はショッピングモールでの買い物にも付き合い、軽快なおしゃべりでママのご機嫌も取ってくれる。これといった不満はない。なにひとつ不満はない。夜中に目覚めた時にいなくなっていることを除けば。あの扉から漏れる光の先にあるもの。早朝、初老の女がよそのひとに見えるのは台所の逆光のせいだ。

ダッドはもう家に帰ってこない。数年前に子供が生まれて、別の家庭の父親になったらしい。ママは「あの人は仕事が忙しいから」と自分に言い聞かせるように呟いた。年の離れた兄さんたちは就職して東部の都市に住んでいる。何度か転職したと聞いたが、連絡はめったにない。いつ帰宅してもいいように、常に大きな缶には等分に切り分けられたブラウニーが入っている。一番に食べて欲しい者はチャイムを鳴らすこともなく、古いオーブンは甘ったるいチョコレートの匂いがこびりついてしまった。

知っていた。可愛がられた一人娘は「ひとり」ではなかったことを。自慢の庭に咲き誇る花々に与えられたセカンドネームが呼ばれることはない。

わたし、はまだ孕んでもいない。



【某月某日】

思い出す。

万年筆のインクが切れていて、もう何年も買い替えていないこと。輪郭を執拗になぞっていただけで、いつまでも中心には辿り着けないのだ。中心、それはすでに最後の晩餐として調理されてしまったのかもしれない。記憶として記録される物語。表面にしか口をつけていないピーピングトムの沈黙。

ワッフルにパンケーキ、シチュー、野菜のキッシュ、ポークビーンズ、ミートローフ、マカロニチーズ、シーザーズサラダ、タコス、トルティーヤチップスにサルサソースと手作りディップ、ターキーの丸焼きにスタッフィング(詰め物)、クランベリー(こけ桃)ソース、パンプキンパイ......昼下がり三時半の憂鬱。ブラウニーのひとかけをローファットミルクで流しこむ。喉をつめたフォアグラの微笑が売買されている。

思い出す。家中に溢れるレシピの洪水に溺れて、一滴に値する得意料理すら持たないことを。
無知の人体模型 は 既知の空洞 を クローゼット に 閉じこめた。


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(m e m o)
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[brownie/名詞]
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1. <伝説>ブラウニー
   夜間ひそかに家事の手伝いをするという小妖精。
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2. (米)ナッツ入りチョコレートケーキ。
  一口大に切り分けて食べるアメリカの定番おやつ。
  (豪) ブドウパン
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目の開かない妹は地下水脈でABCの歌を習う
─表面張力と容器、そして無数の種子たちよ─
わたしたちは 次世代のデザートを求めて    
見果てぬ言葉を探し続けている

文学極道

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