はらたき
からべ湾の入り江に太陽が射した。春の風が匂い立つように肌にふれてき
て透明な足をうごかすようにして風のまわりを風が音もなくつつんでゆくの
であった。なまあたたかい風をやりすごして、少し冷えた磯の岩場に足をは
こぶ。磯の岩は干潮のときには地肌を露わにする。悦子は、磯を泳ぐむすう
の魚にやわらかな眼差しをむける。ごんずいの群れは、悦子が差し出した手
には目もくれず、きらめきながら岩肌の海藻にわけいってゆくのだった。そ
のたびに海藻が、こぼれるように打ち震えては、したたるような艶を張り出
している。ふと、赤い小さな海老が岩から、ゆれるようにして磯の中央まで
泳ぎ出てきて、悦子の心をとらえる。悦子はのびあがるようにして海老の独
壇場を見守る。海老は、わずかにゆれるようにして悦子の鼻先を見つめるま
まに、ふたたび暗がりに消えてゆくのであった。
からべ湾の朝は早い。悦子がこうしている間にも、幾人もの大人の女が、
浜を通りすぎてゆく。「はらたき」というこの地にしか生息しない奇妙な二
枚貝を掘り起こすことを、女たちは毎朝の日課としているのだ。うつくしい
流線形の形状をゆびでなぞったら、指に血がにじむ。そう言われるほど、鋭
くそれでいて凄絶なほどにうつくしい貝であった。悦子の白く細長い指が、
はじめて「はらたき」に触れたとき、血はにじまなかった。悦子は、そのこ
ろまだ幼く、血がにじまなかったことを悔しがりひとしきり泣いた。なぜか
わからないが、止めどもなく涙が溢れ出てくるのであった。貝にふれて、血
が流れる。その残酷なまでに不思議な感触を早熟な悦子は、感受していたの
かもしれない。実際の貝は、からべ湾の荒波にもまれて、その大抵が、すり
へってやわらかな形状になっている。だから、ふれても血がにじむことなど
なかったのだ。それとなく、そのことを悟った、幼いころの悦子は、まだ生
まれたばかりの、無垢な美しさを保った、「はらたき」にふれてみたいと思
ったのだった。
今、眼前では大人の女たちがそのささくれだった手で、「はらたき」のい
くつかを洗いながら籠に入れている。実際「はらたき」は、水深二・三メー
トルの浅い砂地に生息していて、その気になれば容易に手に入る貝なのだ。
しかしながら、当時幼かった悦子は、それはとてつもなく深いように感じら
れたし、貝殻のほとんどは、浜辺に打ち上げられた、砕けたものしか、手に
とったことはなかったのである。昔を想起して、悦子は苦笑する。いましも、
磯のごんずいが切り返して悦子のほうへと泳いでいるときであった。
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選出作品
作品 - 20050924_110_550p
- [優] ハラタキ - 望月 悠 (2005-09)
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ハラタキ
望月 悠