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作品 - 20050525_413_238p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


記号としての名前

  藍露

十年間同棲していた男には名前がなかった。

佐藤でも田中でも鈴木でも振り返るかと思えば、いくら呼んでも返事がない夜。最初は耳が遠いのか、聞き間違いが多いのか、それともふざけているのか、単に面倒くさいのかと考えました。わたし、は「渡辺幸子」です。三十年間、<わたなべ さちこ>として登録されていました。相手に繰り返し繰り返し、わ、た、な、べ、さ、ち、こ、と教えるのですが、自分で言えば言う程、他人事のようで、あいうえお遊びをしているみたい。用事がある時は無言で肩を叩くか「おーい」だけです。決して名前を読んではくれません。教えてもくれません。

喫茶店で会った日。急に真っすぐに見つめては、視線をクリームソーダのぶくぶくに沈めて、ストローで弄び、また沈める。溶けていくアイスクリームの中に二人の暮らしはありました。泡、そして泡、泡にまみれた手。濡れた髪。乾かないテーブル。ひっくり返ったグラス。混ざり合って、溶けて、混ざり合って。薄まった時間が床にだらりと零れ落ちました。風呂場の鏡は拭っても、またすぐに水蒸気で曇ります。顔がよく見えません。でたらめな文字を書いては、消して、きゅっきゅっきゅっ。

書類の束
空欄を埋める文字が紋白蝶になって
ひらひらと飛んでいく
たくさんの名が風にかき消された頃に
男は荷物を処分して出ていきました


   (そもそも持ち物はあったのだろうか)


あなたになまえはありますか。
わたしになまえはありますか。
あなた、はわたし、ですか。
わたし、はあなた、ですか。
区別する記号は小学校で習いました。
天気図を覚えるように
これは晴れマークね
これは曇りマークね
晴れ ときどき 
これは 予測不可能 だったわね


   (そもそも名札はあったのだろうか)


くっきり見えていた境界線はマンションに置いてきました。
取り替えられた鍵穴
張り替えられた壁紙
入れ替えられた住人


   (そもそも視えていたのだろうか)


十年間同棲していた女には名前がなかった。

文学極道

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