路線図に無い鉄道を跨線橋で渡り、誰かの暗い夢に通じてい
る湿った複雑な路地を抜けると、そこがカン・チャン・リルダ
だ。胡弓弾きの女の歌や奇術師が吹き上げる炎に泡立っては消
えてゆく町さ。
羊皮紙とともに朽ち果てた国や、逃げ水のなかで燃え尽きた
村から、何かが欠けちまった人間が廃れた街道づたいにここへ
やってくる。歪んだベッドに横たわる青い目の、褐色の肌をし
た女の寝息のなかにだけある町さ。
首都のターミナルの、F番ホームから列車に乗せられて、カン
・チャン・リルダの駅でお前さんたちは吐き出される。みな一
様に妻と三人の子供を持ち、みな一様に痩せた性器をぶらさげ
て。流浪者や女衒や乞食の数千の手がお前さんたちを触る。老
いることができないここの住人たちがお前さんたちの頭髪に混
じりはじめた白髪を欲しがって。
カン・チャン・リルダだ。忘れるな。標識につかまって立っ
ている片足の少年がいたら、傷口を触ってほどこしをするなら
わしだ。もしその子が立ったまま死んでいたら、ほおずき色の
かざぐるまを買って、供えてやることだ。影だけが残っていた
ら、コートをかけてやることだ。
見事なキャタピラの跡がついている影を飾った未亡人の店で
飲んだあと、お前さんたちは夜の底にいくつも開いている娼窟
へ降りていく。そこにはどんなかたちの夜もあるが、みな等し
くどこか欠けている。腕や大腿や乳房や、あるいは顎と唇を欠
いた女を抱きながら、癒えた傷の、飴のように艶やかな断面に
やつれ果てた自分の顔を映すのだ。
お前さんたちの肩に、いまや川原の石のように積み重なった
生活の記憶をもしその断面に取り落としてしまったとしても、
憂うことではないかもしれない。夜もすがら影を失ってカン・
チャン・リルダをさまよい歩く男たちの恍惚の表情を見るがい
い。
何もかも見失って誰かの夢に迷い込みたくなったら、首都の
ターミナルのF番ホームをたずね歩いてみるといい。
カン・チャン・リルダだ。忘れるな。俺が影を失くしてから
十年が経つ。
- コントラ :
線路の奥にある異郷。それは記憶のなかだけの場所かもしれない。「忘れるな」という言葉を辛うじて手渡した老人のその言葉をいま反芻しているのは現代に生きる誰かなのだろうか。これはたんに虚構でもあるし、戦争とか動乱とか、現実の社会や歴史の絵巻ともオーバーラップする気がする。どちらかといえばぶっきらぼうな口調で社会の影の部分とか、何かを奪われた存在に光をあててゆく、、そのあたりががまーろっく氏の路線かな、とも考えますが、対照的に、カン・チャン・リルダっていうのは、どこか桃源郷っぽい響きに僕は感じます。
ところどころもう少し滑らかに出来ると思う。
>やってくる。歪んだベッドに横たわる青い目の、褐色の肌をし
>た女の寝息のなかにだけある町さ。
この語尾の「さ」は非常にダサいです。僕の美学からいうと。細かいとこですがね。
全体的に時間と空間のふくらみが作品に導入されていて、ところどころの描写も精緻で佳作だと感じました。
>カン・チャン・リルダだ。忘れるな。標識につかまって立っ
>ている片足の少年がいたら、傷口を触ってほどこしをするなら
>わしだ。もしその子が立ったまま死んでいたら、ほおずき色の
>かざぐるまを買って、供えてやることだ。影だけが残っていた
>ら、コートをかけてやることだ。
('06/03/30 00:09:59)
- まーろっく :
>コントラ様
カン・チャン・リルダにはモデルがあって、それは埼玉の西川口の風俗街です。ここは駅の西口は風俗で東はオートレース場へ一直線に通りが続く。人間の欲が寄り集まってくるようなところです。風俗のほうは中国、韓国、ロシア、フィリピンなどなど人種民族もいろいろです。日本の円が世界中から呼び寄せている。それは逞しいとも見えるけれど、お金のためにからだを売るというのは心のどこかが欠けていないとできないんじゃないか。あるいは故国での貧困というのもあるでしょう。ところが円の国である日本の男も決して幸せそうでない。くたびれ果てている。
そいう目で見てみると極東アジアのどんづまりで虐げられた人間がキズを舐めあっているような光景が見えてきて、それがカン・チャン・リルダというわけです。おそろしくネガティブなシルクロードの終点ではないかと。
片足の少年とか、キャタピラの跡がある影とか、太腿や乳房を失った娼婦というのは虐げられた人間の痛みの表象です。そういうのと同種の痛みを失われた十年の社会の悲惨さを通して日本人も感じるようになってきたんではないか
、という思いをカン・チャン・リルダから帰れなくなった男の目線で書いてみました。
ご指摘のとおり文がまだこなれていないところもあると思います。話体というのは文にすると結構むずかしいですね。 ('06/03/30 23:47:53)
- ダーザイン :
カン・チャン・リルダって、インドかなんかに実在する場所かと思ったら西川口ですか。この詩、とても面白かったですよ。まーろっくさんは散文詩の体裁を採ったほうが方が才能を開花させるのに向いているのかもしれませんね。
糞みたいなポエムが上にあるのは嫌なので、こういうのは、ちゃんとレス上げしましょうよ。
風俗とか縁交は、もろに貧困とか精神疾病とか言う事情がある人が多いようだね。買う側もそうだ。日本が現況どういう国なのか、そういうことを語ろうとするマーロックさんの視点は良いと思う。どしどし書いて下さい。 ('06/03/31 00:19:47)
- 恭葉 :
序盤はちょっと入り辛さがあったのですが、すぐに、特に
>カン・チャン・リルダだ。忘れるな。
が来てからは旨みのある文章がリズムよく流れ出して気持ちよく読めました。 ('06/03/31 05:04:03)
- 松島右京 :
さらっとした端正流麗な文章もいいのでしょうが、
作品にはその作品が作者に望む文章や言い回しや表現があると思います。
そういう視点に立つと、このどこかごつごつとした力強い文章等が、
作品を支えるだけでなく、それらそのものが作品の大切な構成要素になっていて、
いわゆる、こなれるということと、洗練するというか鍛えるということとは、違うのかなとも思いました。 ('06/03/31 20:29:13)
- まーろっく :
>ダーザイン様
僕はどうも比喩の射程が短い。あるイメージから遠くにある別のイメージに飛躍することができない。ロングのストレートが打てないのでショートのジャブ
に頼るしかないようなもので、短い飛躍を積み重ねて遠くへ行くしかない。そういう場合に、語数を費やしてもよく、論理性を借りることもできる散文形式
は具合がいいと感じます。逆に散文詩を書くことで、行分け詩のイメージの飛躍感とか空行の重みというのも見えてくるような気がします。
>恭葉様
その部分で語り手の存在がはっきりするからでしょうか。カン・チャン・リルダに踏み迷って帰ってこれなくなった男の視点で語られていることがだんだん
はっきりしてくるという仕掛けになっています。
>松島右京様
ストーリーを語るのが目的ではなく、叙述に奇怪さや矛盾を孕みながら叙述そのものがスリリングにイメージを展開していくような作品、ということを心がけて書いてみました。奇怪さや矛盾がゴツゴツと引っかかる、その抵抗感というのも詩の表現の一法ではないかと思います。 ('06/04/02 11:25:03)