彼
汗だくのアフリカで、裸になった友人から手紙が来た頃、僕の机の上では、数冊の本が同時に開かれたまま文字たちが飛び出している。友人の手紙が僕にこう言う「星に上がるのさ」と。彼が一緒に送ってきた人形はマヌケにも「Eureka!Eureka!」としか言わない。僕の祖父は、そう叫びながら家を焼いたんだよ、と彼が口にするまで、僕の部屋の扉は開かない。これはまじないなんだよ、ずっと昔からのまじないんだよ。
星へ上がる
星へ上がった人たちの瞳は青いから、とてもきをつけないといけない。僕がずっと昔に祖母に言われたことを信じていないから、青い瞳は、その人が死んだ後に、固まって青いものになるんだよ、と、静かに友人に語るけど、友人の瞳は黒いままで燃えているのさ。燃えたものは、白く冷えて土に上がる。上がってから、下がって、また黒くなるのさ。
まじない
まじないはいつも夜に、そして昼に、朝にはできるだけ控えて、そういう君はいつまでたってもそれをやめようとしない。まじないは、いつだって聞き分けがないから、耳をつけたまま走ったあの人のように、砂浜で首をかられるのさ、かられた首は笑ってアフリカに落ちる。落ちた首を君が拾って、またまじないをかけたら、それは星へ落ちるんだろう。君はそうやって何度も何度も夢を見た。
Eureka
名前を与えられなかった、
あなたや、わたしが、
くだけちったまま、
たまげる、
たまげるってのは、魂削るって書くんだよ、と、
知らない人が言付けて、
わたしは旋舞し、
あなたは戦舞し、
何度も何度も、
同じようにして、
見たままの、
開かれたもので、
同じように、
そしてや、また、から、
引き出された、
退きだされた、
靴や、
帽子を、投げ打って、
廻っては巡るままの、
呼吸の仕方や、
知らなかった、
場所に、
かえる、
そして蛙が、
帰らない内に、
私たちが
帰らない家に、
ことづけをして、
わたしたちや、
わたしは、
ゆっくりと、
渡っては、
渉り、
口笛を吹きながら、
屋根を葺いて、落ちた、
と、言われるままに、笑ったり、
下がったり、
転んだままで、
転ばないままの、
いしを、いしを、
渡して、
わたしや、
わたしたちの、
あおいままの、
ことばで、
いえへ帰るまでに、
孵らない、そして、
やっぱり返らない、
はだしで、見て
星へ上がらない、まじないを、
何度も、
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20080416_292_2703p
- ダーザイン :
ポチ大先生こんにちは。論説も詩も、鉈のように重くて鋭い。登山道のろくに無い日高山脈に分け入る登山家が藪をこいだり、寝床を確保したり、熊に備えるでかい鉈。山登りには二種類の人間がいて、一方は山岳会や観光業者に連れて行ってもらう行列登山。もう一方は厳冬期にも単独行をする人間だ。魂と命を削って登山をしているのは無論後者の方で(代一連の呪い)、はるか彼方へ、はるか彼方へ、我発見せり! と叫びうる凄絶な美を味わう特権的な瞬間のために、長い年月身体を酷使し、雪崩に飲まれ、或いは滑落して落命、膝や腰をぼろぼろにして、後に食っていくこともままならない人生となる極道者が、全ての沢すじを詰めようと、未だに登攀記録の無い巨大な岸壁の沢に取り付いてきたんだ。ポチさん、ザイルはつけているのか、僅か数株のブッシュに命を預けて(「星へ上がらない、まじないを、」)、登山家の鉈は己の生を叩き切る。繰り返し切断し、接続し、切断することによって生の連続性を確認する実に精神衛生上かんばしくない己に対する暴力的な振る舞いである。スタイリッシュな文体の奥底に過度の自虐がないか、ザイルと共に点検する必要があるかもしれない。大変な強度のある文体なのだが、通常こういう強度は精神衛生保安上長いこと保てない姿勢だからね。
が、みんな疲れてだれて来ている最近の文学極道に、ポチさんは強烈な鉈の一撃を入れてくれたと思う。常駐キボリ。 ('08/04/16 02:20:23)
- 右肩良久 :
痛切な哀感が伝わってくる詩でした。全体を読了して得た、その感覚は清冽です。
ただ、わかったか、といわれればわかりません。恥を承知でいくつかうかがいます。
冒頭と行間に置かれた四つの語句のうち、「彼」と「Eureka」は行頭から下がらず、「星へ上がる」と「まじない」は一文字下がりですが、これは意図的なものでしょうか?「星へ上がる」と「まじない」が「彼」というパートに含まれる、という構造と素直に考えていいのでしょうか、ということです。
また、現代詩ならばあたりまえのことかも知れませんが、読者にとってイメージしにくい部分がありました。「友人の瞳は黒いままで燃えているのさ」の部分で燃えているのは「瞳」だけでしょうか?「友人」全体なのでしょうか?
「星へ上がった」というこの詩の主題(と思われる)である重要なフレーズの後に、長い文の一部として一カ所だけ出てくる「土に上がる」という語での「上がる」は同じレベルの重要性を持っているのでしょうか?地上で死んで「星へ上がる」というのは容易に理解できるのですが、地上で死んで「土に上が」り、冷えて下がる、というのでは、友人の瞳が黒いままで燃えているのは地上ではなく、土の下ということになってイメージがまとまらないのです。それとも「土に上がる」というのは「地表に上がる」という意味ではないのでしょうか?わかりません。わからなくなることを意図しているのかも知れませんが。
「まじないは、いつだって聞き分けがないから、耳をつけたまま走ったあの人のように」というのは「まじないをしている時の君は、いつだって聞き分けがない」と解釈すればいいのでしょうか?それとも「まじないをする人というものは、とかくいつだって聞き分けがない」のでしょうか?それとも、文脈上「まじない」自体が「聞き分けがな」くて、「耳をつけたまま走ったあの人のように」首を狩られるのでしょうか?いや、首はあとからまじないをかけられるのだから、まじないがまじないをかけられる、というのではおかしいかな……。それとも、こういう読み方自体がこの詩を読む場合には既にナンセンスなのでしょうか?
散文的に読んでいくと、この他にも意味がとれない部分があります。現代詩にはそういうものがよくありますから(高い評価を得ているものにも)、この詩が特にわかりにくい、というのではないと思うのですが。作品の不備を指摘しているつもりではありません(むろん、作者の意図を言葉が正確に伝えきれていないという可能性もありますが、どうもそうは思えないのです)。純粋な疑問です。甘えているようですが教えて頂けると幸いです。 ('08/04/16 02:52:27 *1)
- ケムリ :
散漫に過ぎる。
俺がこの作品から得られた感慨は、「家」や「かえる」に代表される哀切さ、結局それかというもの。正直に言って、この作品に無造作に(あるいは作者の中では有機的結合を持ったテクスチャとして)配置されたガジェットの全てが、俺の中では繋がらなかった。もちろん、これは俺という読み手のリテラシーの欠如に由来する可能性も強いけれど、それでも乱雑なとっ散らかった、そんな作品を強引に情感で纏め上げた。そんな印象が拭えない。右肩さんが非常に謙虚かつ、緻密に読んでいるけれど、俺も全く同感で作者は振り返らないままに書いているのだろうということはわかる。もしくは、理解を求める気がない。悪く言えば、語彙やリズムの良さとスピード感と情感で、雑な作りを誤魔化そうとしている。そんな印象を強く受けます。イメージは突っ走っている、そしてそれを手なりで追いかける作者。多分、この作品を作者が望むベストの形で(もちろん、そんなもんはあらゆる作品においてそうだということは当然ですが)読めるのは作者だけでしょう。ぼくには、この作品の文章構造やガジェットの配置やそれぞれの寓意を読む力もなければ、その気もない。結局、情感で押し切って来たか、そういう感慨しか得られませんでした。どのイメージも結実しない、ブツ切りにされている、狙ってやってるのかやってないのかわからないけれど、とにかく面白くない、追っていけない。
俺は、山に登るより滑る降りる方が得意な人間で。十代の頃はよく滑ったし、カナダのブラッコム山の頂上までヘリで昇って滑り降りたりもしたもんですが。世の中には平均斜角46度、とかいうコースも存在するもので、そういう場所だと滑るというよりは「落ちる」という感じで降りていくことになるんですね。これ、最初は非常にスリリングで面白いんですが、飽きるんです。なにせ、落ちてるわけですから。味わいがない。この作品から得た感慨もそんな感じです。色んな面白いものがコースの途中から見えただろうに、俺に見えたのは急斜面だけだったよ。そんな感じ。別に異常なスピード感は入らないから、丹念に書いて欲しい。そんなことを思います。ダブルブラックダイヤモンドのコースは一回滑れば飽きるんですね、正直。だって、すべり落ちる技術なんて決して難しいものじゃないですから。度胸と慣れさえあれば、ガケ飛びも氷河下りもクレバス越えも決して難しくない。もちろん、そういうスピード感を面白いとするのもアリといえばアリだと思うんですが、この作品に関してはそれはいささか魅力を減じている。そう思えます。 ('08/04/16 21:49:23 *2)
- ポチ :
ダーザインさんへ
結局、書くようにしか読めないし、読むようにしか書けない。読むことは書くことだし、書くことは読むこと。僕の作品は多くの人たちに「意味がわからない」と指摘される。つまり、作者の閉じた世界だと、だったら、僕は他者の作品を読むことで、僕がどういう風に詩を書いているかを提示しようと思って、感想をつけ始めたんですよ。僕はこんな風に貴方達の作品を読むけど、書くときもこのぐらいは(決して読書量が多いという意味での読んでいるではなくて)読んで書いています、と。
右肩さんへ
もちろん、作者である僕がもっとも自分の書いたものに対して良き理解者であるとは限らないし、良き読み手であるとは限らないという前提で、ぼんやりと僕がどんな風に書いたかといえば、僕は、とても、Aをすぐに非Aに翻して同列に並べる事を好んだりします。人からしたら多くの場合、対立関係にあるものでも、僕からしたら対立関係としてではなく、あるという風に見えるんですよ。例えば、星へあがる、や、土にあがる、と言うのは、星や土(大地)は死の物語の中で多く語れらます。「お星様になった」や「土へ帰る」というような、そこには、死後の世界―これはフロイトが言うような喪の作業と同じでこの世に生きるもののために行われるのですが―同時に、デリダが語ったように、「私が愛しい存在を失う、しかし、私はフロイトが呼ぶ正常な喪の作業をやりとおおせない、そして、死者は私にずっと棲みついたままになる、ただし見知らぬ他者として、・・・・私は死んだ他者を内在化しおおせない、しかし、その他者を自分の内部に保持している、それは私にうるさくつきまとうものとなる、つまり生ける死者となりうる、というわけです。」。実際の死体の扱われ方つまりは「埋葬」や「葬儀」という儀礼に少しばかり多分、私が私の内面を重ね合わせたのかもしれません。葬儀所で炎を見る他者を見たら、他者の瞳の中には炎がうつっていて、まるで燃えているかのようにあったり。それは、また、まなざし、として、常に誰かが死んだ後でも僕らに付きまとうかもしれません。
まじない、は、いつも不思議ですよね。緊張をほぐすために、米と書いて舐めるとか、そこに実際に米なんてないですけど、米と指で書いて(もしくはそこに米と書いて「ある」として)ぺろりと舐めるわけなんですけど、それは、一体何を舐めているんでしょうか。舐められたものは、残るんですよね。舐めた、として。
ケムリさんへ
どうコメントすればいいかあまりよい言葉が浮かびませんが、追いついてこなくてもいいですよ―これは、諦めとか否定出はなくてー。貴方が、貴方の好きなように読まれればいいと思うのです。ただ、その場合、読むほど魅力がないのなら、それは私の詩がそこまで魅力あるものではない、ということでしょうから、私は「わかりました」と答えるしかないのです。ただ、僕は、作者でありながら、僕自身は僕が望む良き作品の読者ではないんですね。僕自身が僕自身のすべてを読み通せないように、また、読み込むことができないように、私は作者でありながらも、自らの作品の良き読者ではないんですよ。 ('08/04/16 22:25:06)
- ベイトマン :
ヽ( ・◇・)ノわーいわーい、お誕生日ですー ('08/04/16 23:53:11)
- 雨の実 :
祖父や祖母といったくだりがまったく箸にも棒にも掛からないのは、昔語りを持ってきても湛えるための器が見えないから。
他にも挙げれば、青という色の、意義素を離れたところでの憑依も、深みに見えて足を入れてみると底が浅かったりする。
それらは、私がそういう目をしているということに起因しているでしょう。
重さ、鋭さ。佇まいはあるけれど、ヘッセの名文などには遠く及ばない、意義素の(言い過ぎだけれど)幼稚な乱用に見えます。私にはそう見えてしかたがない。 ('08/04/21 00:19:21)
- コントラ :
誰も指摘していないようだから、書くけれども、これはいかいか氏の作品じゃないのだろうか、と疑ってしまうほど共通するセンスがある気がする。たとえば、2006年受賞作のsong writer..とつきあわせてみると。民族学や、神話論理への興味、魔術的なものや現実的な世界観の対比。最終連が冗長だけど、最初の3連は抜群にうまいと思いますよ。 ('08/04/21 03:34:34)