浮かんだ枝の合間から漏れる直射は薄く伸ばされて、透かし落とす清涼を一つ、頬へと裏
打ちしていった。根本に繁る小草が葉の裏、跳ね付いた泥をこびりつかせ、あえいで響い
た額が奥まで、ほんのり痛みを歩かせる。小草の名前を調べたいと、覚えていても忘れて
気付いて、少しだけ自分に、笑ってオーナーに挨拶をする。後は待機するだけだ。握る携
帯に湿って今日は、ゆっくり話せるかもしれない。指先に残る、合間の感触が映えていく
あたしなんかはそぎゃん心配いらんだろうし
ね、働きだしてこの部屋で意外と
大丈夫でも意外とね、ほんとう 驚かんかったんよ
髭の先まである欲求を、さ、集めて濾して、
出来たのがこの部屋。
あたしの部屋だよ 5時間42分かっきり、世界一不自由な浴槽に、屈んでみて、さ
自分の出した声で額、痛くしたり 生理の血、専用綿詰め込んで止めたり
まぁ全部、気合でなんとかなりよるし、ね ブっさいくなよがり顔笑わんようにつたい
気ぃつけたり練習したりで、さ、
私は私が、ね 好きで好きで堪らないんよ
だけん泣くのもニヤツクのも昔っから 風呂場しかそれしか無かったわけじゃん
ここなら誰も嘘ないだろうって、来てみて
やっぱり嘘なくて、ね、30万とか上出来だん
化粧で塗り固めたら立てるし、余裕なんよねヨユウ
小さいこと、隙間も圧迫もなく、両手にさ
持てるだけを抱えて軽いや
全部が軽すぎるから重いや
うん、つまり雄大とか あたしだけんね
頬が乾きを小さく抱える。瞼の上に残った直射が伸びきる薄さを、まだ置いている。指先
へと絡み付く声は透かされ途切れ、途切れに笑んで、巻き戻される感触に涼しい。話し溢
した、時間は確かだ。それだけが緩み濃密だ。タイルの壁で響き合う霞みが、綿の量を微
かに握る。繁り、戻り、濾された髭を、挟み、湿り、小草を張って、合間へ重ね、密やか
にやはり、持てるだけを持ち、浮かべた枝は、すぐにも朽ちる。浴槽に屈む丸まりは近い
額だけだん痛いのは、ね
たまに嘔吐はするけど、やっぱ ブっさいくに喘ぎまくってさ
ほら結局、葉に跳ねるのは、泥だけだん
いくら映えても小草の名前は 誰も目を凝らして見ないし、ね
嘘なく雄大さに甘えてたい
この部屋では、皆が、
みんな、とってもいい子、
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20080401_101_2682p
- 菊西夕座 :
髭と生理がどうしても結びつきません。キリ子さんというのは、髭を生やした女性なのでしょうか? 風呂場で笑顔の練習するよりも、それこそまずは、髭をキリましょう、といいたくなってしまいます。
>根本に繁る小草が葉の裏、跳ね付いた泥をこびりつかせ、あえいで響い
>た額が奥まで、ほんのり痛みを歩かせる。
ここなのですが、小草という外界の対象を語りながら、額という語り手の直接的な身体部分へと描写が移行するわけですが、その橋渡しとなっているのが「あえいで」という働き。しかし、この「あえいで」という働きはなにによって引き起こされたのでしょうか? 小草についた泥を見て、思わず「あえいで」しまわれたのでしょうか。それにしては少し、描写の流れに突飛な印象を受けました。草いきれに『むせる』、とかならわかるのですが。私などは、「生理」などを気にしている女性が、あえぐなんていうと、いやらしい行為を思い浮かべてしまうのですが、ここでは「根本に繁る小草」という描写から「あえ」ぐという行為が導きだされているので、尚更いやらしい臭いを嗅ぎつけてしまいます。この「根本」というのは、キリ子さんが専用綿を詰め込む場所を暗に示しているのではないか、そんな愚かな考えさえ抱いてしまいます。ですので、ここはもう少し、穏やかな表現をつかったほうがよろしいのではないでしょうか?
2、3、4連は回想あるいは自省の箇所だと思うのですが、それが五連目で再び一連目の現在の立ち位置に戻され、枝の合間と過去と現在の合間が重ねられ、浴槽の回想が呼び覚まされ、語り手の不自由に屈んだ格好と泥を忍ばせる目立たない小草のたたずまいが共鳴し合い、そこになにか地味だけれどもけなげに根を張って無名性を受け入れている自然なあり方を見いだし、自分らしくおおらかにに生きていこうと腹をくくるという内容だと思うのですが。
やはり気になるのが「雄大(さ)」という言葉。どうも「雄大(さ)」というイメージが、この詩の中心的な話題となっている窮屈そうな浴槽の情景や、枝の合間からやっと光のおこぼれをもらっているような湿っぽい小草のひっそりとした光景からはほど遠いような気がするのですが。これは、あえてそういった語り手の生きるせせこましい世界から対比的に導き出された言葉だと思うのですが、なにか強引に取り出してきたように見受けられます。ここに表されているなかば開き直りのようなこのさっぱりした態度は、「雄大」というよりも、『陶然』といった感じがしないでもないのですが。やっぱり、だいぶお風呂でのぼせちゃってるみたいですから。
しかし、30万というのがナニを意味するのかわかりませんが、これが実際に髭(男性的なものとします)と生理(女性的なもの)との葛藤を密かに描いているのだとすれば、非常に興味深いという以上に、畏敬の念のようなものすら覚えます。そして「雄」大という言葉も、重みがまたちがってきそうです。 ('08/04/01 02:25:20 *4)
- 平川綾真智 :
菊西さん、こんにちは。
ありがとうございます。
読めていて、わざととんちんかんにおっしゃっているのか、本気でおっしゃっているのかよく解りませんでしたが、髭を相手にキリ子さんは窮屈にも雄大に頑張っているんだと思います。
生理痛にも耐えて30万円一日で稼いで、ね。
読めていて、わざと髭の部分をおっしゃっているのか解りませんでしたが、少し視点のほつれがあったようですね。
勉強になります。
丁寧に読んでくださり嬉しいです。
ありがとうございます。 ('08/04/01 07:01:54)
- まーろっく :
これはソープランドで働いている女性を書いた詩なのでしょう。鹿児島弁?の骨太さも合ってたくましく生きている感じがします。一連目と五連目がキリ子さん視点からの描写であって、その他はキリ子さんの語りになっていますが、一読しただけではそうと気づかないため読むほうとしては混乱させられる。あふれ出てくるような饒舌な話体の生命感はいいのですが、一連目と五連目で勢いが削がれてしまっている感じがしました。それとやっぱりキリ子さんがいる状況がソープならソープとはっきり書くべきではないでしょうか。読むほうはわからないですよ。 ('08/04/02 01:50:18)
- こはる :
これは大間のマグロかもしれないと思う。
そういう時代に巡り合わせてしまった訳でもあって、そのように読んでしまうんです。
弱い読み方、読み手と思います。
その土地に生えて一年で枯れる草も、摘まれて捨てられるだけでなく何処かへ種を落としているかもしれない。
女三界に家なしという言葉を思い出してしましました。
そんなのかんけいねえ、と言いたくなる気持ち。
何かが通った ―痕。 ('08/04/03 02:22:21 *1)
- 雨の実 :
総体として、マーロックさんがおっしゃっているような生命感は得られます。しかし冒頭部分がきつい。まるで、文章が肩凝りしているようです。
情景描写から入る作品は私は好きだし、そういうのは平川さんの得意なところだと思っていましたが、この作品のまどろっこしさは感心しません。
また、瞬時にミクロに寄っていくバランスも大分ぎこちなく感じさせます。
ミクロに寄って、帰ってくる、指の感触につなげる。確かにこれをうまく書けたら、ゾワっとしそうなくらいのアイデアですが、バランスが悪くて読みづらいです。
冒頭として、主体の生命感にすんなり馴染ませるような文体を選んでほしかった。凝る方向を間違っているような気がします。 ('08/04/05 18:01:12)
- 殿岡秀秋 :
平川綾真智様
「キリ子さん」を読みました。
「この部屋では、皆が、
みんな、とってもいい子、」
と語るキリ子さんに共鳴しているのはわかります。
でも、キリ子さんを描いている「私」の立ち位置が見えにくいのが気になりました。 ('08/04/06 07:50:40)
- みつとみ :
美しさのある細部の描写の部分と。方言で語られる風俗店か何かで働く女の生理感のある部分と。一つひとつはおもしろいのだが、全体を通してみると、今ひとつかみ合っていないような感覚になるのが惜しい。描写の部分と語りの部分を人目(一瞬)で分かるように、たとえば語りの部分全体を一字が二字くらい字下げしてみるとか。語りの部分の連の一行目だけ起こしのカッコ「(」でくくるとか、何かしらの工夫を試みてみる必要があるかもしれない。 ('08/04/06 21:14:20)
- ポチ :
過剰な演出―それをさとられて見透かされて読まれるという恐怖にこの作者はあまりにも無自覚だ、いや知ってしまったら、もう恥ずかしくて二度と書けなくなるかもしれない、書くためには必要なことだとしても、それは否定的な言葉で皮肉という賛辞を最大限に受ける事に(それは作者には伝えられないとしても)なっていることを。
何らかの理由で、素朴な人間―方言を用いるまさにここに、最悪最大の文学の悪い習慣としての他者を覆いつくして作られた他者がある。作者は無自覚なのだろうその悪意そのものに―と、風俗、水商売を連想させるような都市での過酷な女性という性を売りにすることによって、強調される素朴な人間―なんということだろう、この作者は未だにあの忌まわしき古典的な俗悪な傲慢さを知らぬ間に物語っている―これはたくまさしさや、そういう肯定的に語れるものなのだろうか。
作者の倫理そして読み手の倫理として、この作品で対置される素朴な人間に付属されるいや、象徴される「方言」というあり方、これは、もっとも批判されるべき書き方ではないのだろうか。 ('08/04/07 14:43:13)
- 草野大悟 :
ソープの部屋であることは分かるが
ソープの裏を知らない者が
少しばかりの知識で
キリ子さんを書いてしまったがために
頭の中だけの言葉遊びになってしまっている。 ('08/04/07 22:40:50)
- 平川綾真智 :
こんにちは。
まーろっくさん、ありがとうございます。
一連目と五連目がキリ子さん視点からの描写であって、その他はキリ子さんの語りになっていますが、一読しただけではそうと気づかないため読むほうとしては混乱させられる。
なるほどですね。
キリ子さん視点からの描写ということが届いていて良かったです。語りと内側との絡まりが面白いかな、と思ったのですが、上手く作用しなかったようです。
あふれ出てくるような饒舌な話体の生命感はいいのですが、一連目と五連目で勢いが削がれてしまっている感じがしました。
これは、少し意図的でもありました。生命感もありながら、自分でないような空虚で詰まったらよいな、と思って勢いでいきたくないな、とずっと絞められていたことを覚えています。ただ、上手く流れていないのはよくないことかもしれないですね。
それとやっぱりキリ子さんがいる状況がソープならソープとはっきり書くべきではないでしょうか。
キリ子さんはどんな状況にいるのでしょうね。書かない方が、もし潜ってくださる方がいたらどこまでも行けるかな、と思い敢えてはっきりと書かない方を選んでみました。
多く、作用していない、上手く流れない部分があったんだな、と作品を、より切り離して読むことが出来ました。勉強になりました。
丁寧に読んでいただきありがとうございます。
こはるさん、ありがとうございます。
これは大間のマグロかもしれないと思う。
新鮮なだけではなく、一仕事したので江戸前的で食べやすかったのかもしれませんね(私は九州なので野暮ったい味付けかもしれませんが)。
お誉めいただきありがとうございます。
その土地に生えて一年で枯れる草も、摘まれて捨てられるだけでなく何処かへ種を落としているかもしれない。
この言葉とても面白いですね。
なんらかの作用を読み手に与えられたようで、手ごたえが嬉しかったです。
投稿の大切さを再認識させられました。
女三界に家なしという言葉を思い出してしましました。
この言葉、なるほどな、と思い、波及の勉強になりました。
お誉めいただきありがとうございます。
雨の実さん、ありがとうございます。
思えば、雨の実さんには多く作品を読んでいただいていましたね。
別の名前で書いて発表した作品なども。
しかし冒頭部分がきつい。まるで、文章が肩凝りしているようです。
情景描写から入る作品は私は好きだし、そういうのは平川さんの得意なところだと思っていましたが、この作品のまどろっこしさは感心しません。
また、瞬時にミクロに寄っていくバランスも大分ぎこちなく感じさせます。
普段とは違う風味で良い方向性で書けたと思っていただけに、そういう風に読めるんだな、と視点を確かにいただけました。これからに活かしていけると思います。ありがとうございます。
指先がかなり掴んでしまい、その先の場所へと運べなかったようですね。
凝る方向を間違っているような気がします。
どの方向から読んでなのかがまだ消化できていないので、考えてみますね。
別の部位の膨らみがもたらす立ち止まりと、違う視点を勉強させていただきました。
他の作品からの印象も含めての評、ありがとうございます。
殿岡秀秋さん、ありがとうございます。
殿岡さんから評をいただくのは初めてですね。嬉しいです。
「この部屋では、皆が、
みんな、とってもいい子、」
と語るキリ子さんに共鳴しているのはわかります。
でも、キリ子さんを描いている「私」の立ち位置が見えにくいのが気になりました。
とのこと。
私は何処にいるんでしょうね。
ひょっとしたら何処にもいないのかもしれませんね。
キリ子さんはきっとキリ子さんではないでしょうし、キリ子さんである時をこの文章から感じていただければ良いな、と思いました。
でも、気にさせてしまったのは良くないことかもしれませんね。
たとえ私を用いなくてもやはり「私」の立ち位置のついて回る強固さを勉強させていただきました。
読んでいただき、ありがとうございます。
みつとみさん、ありがとうございます。
ひょっとしたら、みつとみさんから評をいただくの初めてかもしれません。
一つひとつはおもしろいのだが、全体を通してみると、今ひとつかみ合っていないような感覚になるのが惜しい。
とのこと。
いくら映えても小草の名前は 誰も目を凝らして見ないし、ね
ここで全てをかみ合わせることができたかな、と思っていたのですが、もう少し考えてみることが必要なのかもしれませんね。
描写の部分と語りの部分を人目(一瞬)で分かるように、たとえば語りの部分全体を一字が二字くらい字下げしてみるとか。語りの部分の連の一行目だけ起こしのカッコ「(」でくくるとか、何かしらの工夫を試みてみる必要があるかもしれない。
これは、語りの部分と視点が混ざったら面白いな、と思い敢えてそうしてみたのですが、うまくいっていないみたいですね。
一瞬というものを少し考えてみようと思います。
届かなかった部分と、一瞬の大切さが分かり、勉強になりました。
細部の描写に美しさを感じていただいたとのこと、嬉しかったです。ありがとうございます。
ポチさん、ありがとうございます。
ポチさんの評クールでスタイリッシュで気になっていたので少し嬉しかったです(罵倒だったので、とても嬉しいとは言えないですが)。
作者は意外と色々自覚していてやっているかもしれません。
恥ずかしくて書けなくなるくらいなら発起人なのに投稿しません。
風俗、水商売を連想させるような都市での過酷な女性という性を売りにすることによって、強調される素朴な人間―なんということだろう、この作者は未だにあの忌まわしき古典的な俗悪な傲慢さを知らぬ間に物語っている―これはたくまさしさや、そういう肯定的に語れるものなのだろうか。
うーん。そうですね。
私の場合は、中学卒業して高校退学になってふらふらしていた頃、皆お金がなくて年齢誤魔化して夜働いたり、利用されるのを知っていて怖がりながらも痛いのはこんなもんじゃないよって言い聞かせながら歩いていて、そのまま寄り道しながら時間を経ていたので、まだ保険証もなくそこで働く以外方法はない人は友人にも多くいて、古典的でもないかもしれないな、と思ったりもしています。
でも、そう読まれてしまうこともあるんですね。
批判はどうぞどんどんしてください。
作者の倫理はともかくとして、読み手の倫理とかはあまり考えて欲しくないですね。
狭めてどうするんだとか思いますし、読み手に倫理があるなら面白くなくなる気がします。
多くの面で、投稿してよかったな、と感じさせられました。
はっきり言ってくださり、ありがとうございました。 ('08/04/07 23:38:44)
- 平川綾真智 :
草野大悟さん、こんにちは。
ソープの部屋であることは分かるが
ソープの裏を知らない者が
少しばかりの知識で
キリ子さんを書いてしまったがために
頭の中だけの言葉遊びになってしまっている。
なるほどですね。
私は、裏に一番詳しいかもしれないですよ。
ただ、そう読ませてしまったのは良くないことですね。
多くの方が方言に目がいってしまっている中、草野さんは作品の中の人間を読んでくださったように思えます。
これは読み手へのそれぞれの反応を確かめる上でとても勉強になりました。
ズバッとした評、ありがとうございました。 ('08/04/08 00:10:56)
- 黒沢 :
平川さん
何度も評を頂いてきたので、何かお返しをしたいと思ってコメントします。
結局この詩で謳われているのは、大らかな(平川さんなりの)生命礼賛だと感じたのですが、キリ子という架空の水商売の女性を使って、表象する必然が本当にあったのか、そこへの疑いを消し切れませんでした。
恐らく、女の佇まいそのものや、生理(月に一度のあれ、ではなく)のウットオシサから反作用的に、ある種のかけがえなさ、のようなものが立ち匂ってくる、ありがちかも知れませんが、その辺が狙いなのかなと、憶測しました。が、もしそうならば、平川さん自身の一人称視点から、表記の揺らぎをうまく使いながら、真正面に書いてしまってもよかったのではないかと、思います(とても難しい”試み”になるでしょうが)。
或いは、どうしても水商売の女性を、ここに持ち込むなら、最小限のリアリズムを透徹させるために、別種のプロット(や、考え抜かれた目線)を含ませる必要があったのではないか。が、そうなると、結果的に、平川さんの初期の狙い=衝動から外れていくように思いますので、やぱり、ここは思い切って、ずばり一人称視点ではと、ごく個人的な感想ですが。 ('08/04/08 00:11:15 *1)
- シンジロウ :
こんばんは 平川さん
まあ、全体的によく分からない。あまりにも表現がキリ子さんの言葉で語られているから。
でもまあ、誰かに言い訳するように話しているキリ子さんの気持ちは、ある意味で諦め、開き直りのような感じがする。
草にかかる泥ってのは、自分を買っていく男どものアレですか?あえぐのも回数重ねると顎が痛くなるものなのですか^^
ある人はローションを一日中付けてるから、体が痒くなると言ってました。 ('08/04/08 03:36:48)
- 香瀬 :
こんばんは、綾さん。
タイトルと第1聯と方言で読む気をなくしたのですが、総括で面白かったです。
個人的な話で恐縮なのですが、私も九州方言(博多弁)を話すもので、割とリアリティをもって音声が脳内再生されました。たしか平川さんは熊本でしたよね。違いが興味深かったです。
と、閑話休題。
形式的に、情景描写=長方形散文・独白(会話相手がいるかもしれないが、べつにどっちだって構わないんやないかな、この場合)=聯分け改行、と使い分けてらっしゃるが、効果的でないように思います。むしろ「方言」のアザトサが鼻につく。その意味でここで用いられている方言が、書かれている内容を読み手に届けるのを阻害する。
うーん。生命礼賛的なテーマを読み取ることも可能でしょうが、どうなんでしょう? 結局書き手が何を言いたいのか、あるいは何故書いたのか、も分かんなかった。残念。
あ、あと、独白での「カタカナ」の使い方が、嫌。です。
香瀬 ('08/04/11 22:08:26)
- ミドリ :
おはようございます、平川さん
今まで平川さんがどんな作品を書かれてきたのか。ぼくはあまり存知あげないんですが。
ぼくの知る限りで言うと、これまで、創作プロセスの中に、通してこられたある種の「フィルター」を外されて、割と作品に作者である平川さんの気持ちを、ストレート(ある意味では歪ですが)織り込んで書かれた作品。と言った感じがします。
話者と作者である平川さんとが、近いところにある作品。それだけに読みやすくはなっている。
ただ、ぼくがこの作品を読んでいてどうもと、首を傾げたくなるのはメタファーの使い方ですね。
メタファーというのは類推の力によって、世界を呼び込んでくる言葉の”魔法”のことですが。これが他者のイマジネーションとうまく触れ合ってこない。
冒頭の導入の仕方も、狙い目としてはよくわかるんですが、決して成功はしていない。
>髭の先まである欲求を
>世界一不自由な浴槽
>頬が乾き小さく抱える
等々の比喩や、この作品世界の主題を連想させる言葉の群。挙げていけばキリがないくらい、疑問を感じてしまう。
喩える。ということは、文学作品でなくとも、通常コミュニケーションのツールとして大きな役割を果たす。それがうまく機能していない。
作品に登場するのは「キリ子」さんという女の子です。ある種、矛盾を抱えながら働いている。言ってしまえば、どこにでもある”風景”です。そこに「場所」という箱があって、そこでは。
>この部屋では、皆が、
>みんなとっても、いい子、
つまり此処に彼女なりの居場所があるわけです。
>ここなら誰も嘘はないだろうって、来てみて、
と、上記のフレーズに、彼女が居る場所との繋がり一端が示されている。しかしどうなんでしょう。ぼくにはこの作品のモチーフ、主題の扱い方。そしてそれを補っていくメタファーや作品の構造。そのどれをとっても、十分に尽くされてない。そんな印象を持ちます。次回作に期待、と言ったところでしょうか。 ('08/04/14 05:31:32 *1)
- ポチ :
読み手の倫理ではなくて、批評理論(ポストコロニアル批評や他者論、言説論がある今という地点で)、無自覚に書いてしまうことは、あまりにも稚拙だということだよ。この詩を批判するのは、たった一点のみにおいて、それは、あまりにも、この構図のあり方自体、背後にはあの忌まわしい二項対立が潜んでいるということを覚らせてしまうからだよ。(作者が無自覚にそれを書き込んだとしても)。現代で詩作する人の多くに言いたいことは、「注意して書くこと」。あなたにはいつも、「注意」が足りない。 ('08/04/14 18:01:57)
- ケムリ :
オーケイ、俺の土俵だ。
よーするに属性付けられた、特定の意味をもたらす他者像が問題だ、と。それはいささか暴力的である、と。よーするに、バトラー辺りの論ですかね。正しいセクシャリティと間違ったセクシャリティの問題。二項対立に裏打ちされた特定の意味、属性。方言ってのもそうですよね、正しい言葉に対置されて初めて価値が出る。マイノリティとマジョリティ、疎外論に裏打ちされた詩。その通りです。うん。たしかにそのとおりだと思う。
でも、それってしゃあないんじゃね?と思う昨今。
例えば、他者という一つの語彙にしてもそうなんだけれど、それは他者そのものではなく、切り取られた属性や事実の断片、それも他者から認識された形に従うものですよね。ということは、どんな書き方をしてもそれって暴力です。それが多少権威的な形の上に成立したからってなんだって言うんでしょうか?そんなことに注意したら何も書けやしない。別に、我々はカントの意思を現在的に捉えることを詩作としているわけではないですしね。こんな論は、一言で切り返せるんでよ「だからどうした」とね。差別心に、疎外に、二項対立に裏打ちされている、ああそうかもね、だからどうした?そう言われた時、俺は敢えてその上で書くこと自体にも意義はあるような気がするものです。だって、多くの人に共有されているものなんだから。かくある、ということは、善悪をこえてかくあるということにしか過ぎない。それに対して、かくあれの言葉は弱弱しいものです。かくあれかし、と言う倫理に対して忠実である必要は、多くの人にとって「無い」。
それで、俺はこの作品キライじゃないです。専用綿、なんて言葉使わないで「カイメン」でいいじゃないっすか。あれ取れなくなってパニックになる女の子多いですよね、懐かしい。俺も働いてましたし。初めて平川さんの作品が好きだな、と思いましたよ。ただ、比喩の使い方が甘い。表現を凝り過ぎて、結果的に原質(もしそういうものがあるとして、ですが)から遠ざかっている。練り過ぎな気がしますね、この作品実際はもっと身に迫った生々しいものだったんじゃないですか?比喩やメタファに凝りまくって、葉や泥といったものを駆使してますが、これら全部ムダだと思います。モチーフに対して誠実な描写をガッチリと重ねる方が、はるかにこの作品は映えた気がする。詩である、ということはそれほど大事ではないし、表現は作品のためにありその逆ではない。むしろ、この作品だと凝った表現や詩であることがモチーフを塗りつぶした、そんな気がします。 ('08/04/16 22:19:49)
- ゴミ :
一連と五連目の無駄な描写がホントに無駄だな。
方言を使うことで、飾り気がなくなっているのに
それを無駄に微細な描写をして
あなたが作り上げようとする人格がどんどん疑惑的になっていきました。
このギャップは、失敗だと思います。
この詩が一人語りでもなければ
人間性を問う必要はないのかもしれませんが、
詩に対して固執し過ぎた頭を少しほぐして欲しいと思いました。 ('08/04/16 22:41:40)
- ポチ :
もちろん、貴方が言うようなことも正しいのですよ。私はいささか、「過剰」に読んでしまったきらいはありますね。(これもひとつの暴力、いやもっと低俗な言葉でいえば、単なる「いちゃもん」ということですが)これこそ、スピヴァックが非難したことでもあるのですが。ただ、貴方はもしかしたら、この場において、貴方が批評理論から学んだ高度なことを意識し、理解し実践できる人などいないという諦めがあるのかもしれませんが、私はそうは思わないのですね。
どんな書き方をしても確かに「暴力」と言えてしまうでしょう。ただ、だからといって、「注意」しないことを認めることとは別ではないですか。たしかに、「どんな書き方をしても暴力」でしょう。しかし、「注意」することはしなければならない、と私は思うのです。もちろん、作者がすべて自分の作品をチェックすることができるほど作者は完璧な何かも見通す存在ではないのは当然のことです。だからこそ「注意」をと思います。
それは同時に、読み手の私たちにも関係してくるでしょう。例えばこの作品を、過剰なまでの消費社会、資本主義社会の文脈で読むこともできるでしょうし、ジェンダー論者が読めば、ジェンダー化されるでしょう。すると、僕らはいかにしてこのテクストを読むことができるでしょうか。多様な解釈があり、人それぞれ好きなように読めばいいのですが、ただ、そうなると、テクストそれ自体を例えば貴方が言われた、「差別、疎外、二項対立」などに覆いつかされたテクストの女性の声を「修復」できるかのでしょうか。
これはとても難しい問題です。私もどうすればいいのかわからないのですが。やはり、「注意」するしかないと思うのですね。私は「過剰、過度」に「読まなくていいこと」まで勝手に読んでしまうことがあるので、そこは注意する点だと思っています。 ('08/04/16 22:45:42)
- ケムリ :
バトラーは最終的に絶望してましたし、俺は「反解釈」の立場を明確に取るんですが。もっと言えば、俺は現実など無い、テクストがあるのみだ、という立場を取ります。俺は結構宗教現象学の立場にも影響を受けてまして、最終的、倫理的、善悪、の価値判断は常にエポケーして作品を見ることにしているんですが、この作品の成り立ちにそういう形式―構造―対立―疎外、があることは当然ながら理解します。しかし、それを「良し悪し」の土俵に持ち込むことをあんまり善しとしないんですね。もっと言えば、俺はどれほどおっかない思想に裏打ちされていようとも、どれほどの差別心に彩られていようと、いい作品はいい作品として存在する、と思ってるので。
まぁ、バルトの語彙を借りると「鈍い意味」ですか。この作品に利用されている疎外に裏打ちされたガジェット、セックスワーカーや方言というもの。それらが、権威的な形成のされ方で一つの意味を生む。そういうことが問題であるという意識はわかる。しかし、そういう意味が生まれることそのものも、それはかくあるという世界のなりたち、もっと言えば形式なわけで。それを無自覚に利用すること自体は、ぼくら批評論に足突っ込んでる人間としちゃ責められるべきですが、一人の創作者が責を負うべき事由でもないかと。ただ、ぼくらは明確にこう思えばいいんじゃないですか、「ああ、対立の上にある詩だ、面白くない」と。実際、批評理論の授業の題材としてこの作品が出てきたら、ぼくはそうやって解釈します。A+を取るために。しかし、この場においては、それは俺にとって最優先ではないんですよね。もちろん、色んな読みがあっていいし、そういう批判自体は有益だと思いますが。批評理論について倫理は極めて重要なイシューですが、作品批評に関しては時に邪魔者である、作品は倫理から独立した空間であり、それは適用されない。最近、表現規制が流行る時代に、俺はこっち側の考え方を採用している、ということです。差別者にしか書けない詩があるかもしれない。
「方言を使う」。「セックスワーカーに語らせる」ということから出発する詩的空間の成り立ちには、確かにそういう対立構造が土台として存在する。しかし、それは作品の最終的価値決定には影響を及ぼさない、ただ「かくある」ということだけを理解する。俺は、そんな感じで批評してます。というのも、批評理論というのは突き詰めれば突き詰めるほど、最後の一線、要するに価値判断のライン、善し悪しのラインから遠ざかることになるというのが俺の考えだからです。語るための語彙が決定付ける語彙になってはならない、だからこそ俺はその部分をエポケーするんですね。そうじゃないと、「これに沿って書けばいい」のような、発話する主体と批評理論の逆転現象が起きてしまいます。
ところで「魂削る」って、一般的な用法じゃないですよね。普通は「魂消る」です。いや、もちろん「魂削る」という用法は―極めて限られた範囲で―用いられる筈ですが。俺の記憶が確かなら禅宗かなんかですよね。これはただのお喋りですが。 ('08/04/16 22:52:57 *6)
- ベイトマン :
ヽ(・◇・)ノめくら、つんぼ、おし、びっこ、かたわ ('08/04/17 00:32:16)
- ポチ :
それに対して、いくつかの解答があるけれども、僕らの悪い癖として、あまりにも多くの引用を用いることで語ってしまうことがどれだけ危険であるかを自覚した上で、あえて、僕は、サイードに回帰するよ。もちろん、「反解釈」という立場、ソンダクなどもそういうことを言ってたみたいだが、僕は読んでないが、解釈がある種のゲーム(競い合い)となりうる危険性を指摘している学者は多いね。
多くの批判やスタンスがあるなかで、やっぱり、サイードが晩年の作品で言ったように、「しかし、テクストの読者が、すばやく表面的な読みから巨大な権力構造についての全般的で具体的でさえある言説へただちに移動してしまったら、もしくは健全な贖いという(文学はよりより人間を作ると信じている人たちにとっては)ぼんやりとだが治癒能力のある構造へと直ちに移動してしまったら、あらゆる人文学の基盤を放棄することになる。その基盤とは根本的には、わたしの言う意味での文献学だ。言語が歴史のなかの人間によって使われるときのことばやレトリックを、詳細に辛抱強く吟味することであり、終生それに注意を払い続けることだ。」というようなことを僕は漠然と信用している。たしかに、「善悪」の問題はとても複雑で難しい。イギリスで出された「悪魔の歌」があのセンセーショナルな話題を沸き起こしたことも記憶に新しい。今なら、まさに、「靖国」という映画がそのようなものだろうね。
いつも疑問なのは、例えば、たしかに作品の最終的価値決定には結びつかないなら、「面白ければなんでも良い」という事態を引き起こしかねないのであり、それはまさに、ある種の特権的なものを非常にそこに纏わせる。はたしてそれがまた、このような言い方は適切ではないかもしれないが「良い」のだろうかと思う。
例えばこの詩は、「キリ子」という「他者」に語らしている他伝的な自伝であり、あくまでも三人称ではなく一人称。ここがとても大きなポイントになると実は思っていたりする。もしも、別の形での他伝的な自伝、「そうであった私」を「彼」や「彼女」という三人称で語るなら、つまりは、今の私と「そうであった私=彼や彼女」と言う差異を強調するならば、私は一つのテクストの戦略性として評価する。たぶん、平川さんは私とは違う意味で「天然」なんだろうとな私は思うけれども、せめてでも発起人であるからには、注意ぐらいしたほうがいいんじゃないか、と思う。 ('08/04/18 00:07:41)
- ケムリ :
「靖国」がそのようなものかは別として。(政治観の問題は別物にしないと会話が出来ない)
俺が言ってることは極めてシンプルです。無限拡大出来るテクストは、引用の形で形式を保持する努力をしても批評の材料には使えないということ。例えば、日本語―非日本語、正しい語―間違った語、外来語―在来語、セックスワーカー―非セックスワーカー、ブルーカラー―ホワイトカラー。世界は二項対立に満ちているし、その全てが文脈次第では差別的で政治的な力を帯びるんです。だから、二項対立を敢えて発見してそれを「注意深くなれ」なんていうのはどうかと思いません?労働者の詩も書けない。信仰者の詩も書けない。(あるいは、共同体次第では非―信仰者の詩も書けない)てきとうに、攻撃のための対立をピックアップした言説の構造は、あなた自体が切実な被差別者である場合を除き、批評に使えますかね?もちろん、現在進行形で差別を受けていて切実に打破すべき構造がそこにある、とあなた自身が言うのなら話は変わる、この場合セックスワーカー(ないしは方言)の現実と言う文脈、あるいはこの作品が生み出す対立構造の普遍性とその切実さをアピールできるなら別ですが。それ以外の文脈では、この場では言説の自由が先行します。当然です、ここは詩の投稿場ですから。
俺はそれより、労働者であることを強調する文脈やクィアであることを強調する、演ずる文脈の方にはるかに説得力を感じるということです。そして、そういう文脈は双方のエリアから常に発信されているし、それどころかそのディファレンスを抜きにしては創作は殆ど成り立たない。違いますか?そういう話です。 ('08/04/21 04:33:11 *1)
- ポチ :
ははは。たぶん、貴方とはまったく違うんだろう。それは、批評観にしろ、創作に関しても、恐らくまったくもって違うんでしょう。そういう以外にしか、もう言えない気がするね。これ以上、何か理知的に語って、対話していくこと、コンセンサスを見出すことに私も意味があるとは思わない。例えば、少し前に、暴力を問題にしてこのサイトのあり方―そこには発起人としての貴方も当然含まれているだろうし、その他の人も含まれた上で―を批判されていた方がおられたけど、私は彼らの立場でもなければ、批判されていた貴方(簡単に、あえて貴方と言ってしまう)とも立場が違うので、私はまた、突然消えて、また遊びに来たりもするかもしれないが、やっぱり貴方とはかなり多くのところで違うんだろう。
まぁ、貴方が言う意味での説得力は私は感じなかったわけだし、そもそも、この作品が「創作」行為と呼べるものかどうか(そういう名前を冠してもよいのか)という疑問すらある人間だからね。本音を言えば、この程度なら、別に貴方が書かなくても世の中にごまんとあるでしょう、と、本音は切り捨てているからね。そういう意識が根底にあるものだから、単なる対立構造へ引っ張り出して、つまりは、他の読み手に対する挑発的な煽りの叩き台としてしか使うことができない。 ('08/04/21 09:41:54)
- 平川綾真智 :
遅くなりました。
黒沢さん、ありがとうございます。
結局この詩で謳われているのは、大らかな(平川さんなりの)生命礼賛だと感じたのですが、キリ子という架空の水商売の女性を使って、表象する必然が本当にあったのか、そこへの疑いを消し切れませんでした。
恐らく、女の佇まいそのものや、生理(月に一度のあれ、ではなく)のウットオシサから反作用的に、ある種のかけがえなさ、のようなものが立ち匂ってくる、ありがちかも知れませんが、その辺が狙いなのかなと、憶測しました。が、もしそうならば、平川さん自身の一人称視点から、表記の揺らぎをうまく使いながら、真正面に書いてしまってもよかったのではないかと、思います(とても難しい”試み”になるでしょうが)。
或いは、どうしても水商売の女性を、ここに持ち込むなら、最小限のリアリズムを透徹させるために、別種のプロット(や、考え抜かれた目線)を含ませる必要があったのではないか。が、そうなると、結果的に、平川さんの初期の狙い=衝動から外れていくように思いますので、やぱり、ここは思い切って、ずばり一人称視点ではと、ごく個人的な感想ですが。
多くを租借してくださり、その上でのお言葉ためになります。
キリ子さん、はとても多くのことが起こって書かなければならない、書いておかなければならない中核がありました。
キリ子という架空の水商売の女性を使って、
ということを疑わせるのはまだまだこれから勉強していかなければな、と再確認させられるものがありました。
別種のプロット(や、考え抜かれた目線)を含ませる必要があったのではないか。
ということを感じさせるのはやはり良くないかもですね。
平川さん自身の一人称視点から、表記の揺らぎをうまく使いながら、真正面に書いてしまってもよかったのではないかと、思います(とても難しい”試み”になるでしょうが)。
おそらく、この試みは今までもこれからもやっていくと思いますので、是非これからもよろしくお願いいたします。
結局この詩で謳われているのは、大らかな(平川さんなりの)生命礼賛だと感じたのですが、
このことを感じてくださったということは私にとって大きなことなのかもしれません。
恐らく、女の佇まいそのものや、生理(月に一度のあれ、ではなく)のウットオシサから反作用的に、ある種のかけがえなさ、のようなものが立ち匂ってくる、
こう分かりやすく伝えてくださるとありがたいです。
自分の描けた点、そうでない点、思わぬ方向に働いて良く踏んだ点、多くのものを得ることが出来ました。
届かなかった点、疑わせてしまった点、多くを黒沢さんの目を通し、租借出来た気がします。
丁寧な評、ありがとうございます。
シンジロウさん、ありがとうございます。
まあ、全体的によく分からない。あまりにも表現がキリ子さんの言葉で語られているから。
でもまあ、誰かに言い訳するように話しているキリ子さんの気持ちは、ある意味で諦め、開き直りのような感じがする。
なるほどですね。感覚的にそう悪くはない印象はあるので、もう一歩だったのでしょうか。
開き直りのような感じがしていて、良かったかもしれません。残念だったかもしれません。
シンジロウさんには伝わって欲しかったかもしれません。
もう少しの橋渡しが必要なのかもしれませんね。
私は、シンジロウさんの意見というものをとても貴重なものだと思っています。
現代詩をどうして書いているのか読んでいるのか訳がわからない方なので、この方を惹きつける作品は凄い威力なのかもしれないな、とか喉もとで考えが固まりそうで緩やかでくすぐったいです。
もう一歩の惹きつける力を、ある地点からは足していく必要があるのかもしれないということを感じられて、勉強になりました。
シンジロウさん、ありがとうございます。
香瀬さん、ありがとうございます。
タイトルと第1聯と方言で読む気をなくしたのですが、総括で面白かったです。
素直に小躍りしてはいけないということですね。しかし、面白いとの言葉、嬉しかったです。
形式的に、情景描写=長方形散文・独白(会話相手がいるかもしれないが、べつにどっちだって構わないんやないかな、この場合)=聯分け改行、と使い分けてらっしゃるが、効果的でないように思います。むしろ「方言」のアザトサが鼻につく。その意味でここで用いられている方言が、書かれている内容を読み手に届けるのを阻害する。
うーん。生命礼賛的なテーマを読み取ることも可能でしょうが、どうなんでしょう? 結局書き手が何を言いたいのか、あるいは何故書いたのか、も分かんなかった。残念。
あ、あと、独白での「カタカナ」の使い方が、嫌。です。
勉強になります。
視点を変えると各部位が中心や淵やそこからの波動を邪魔しているのかもしれませんね。
何故書いたのか
は、解った方が良いのかな。この作品の場合は、解らなくてもよかったのかもしれません。
引っかかった詳細を挙げてくださりありがたいです。
どんな方にどんな風味が効いていくのかが少しわかり、勉強になりました。これは活かしていかないとですね。一蘭のように。
ざっくりながらも細かな評、ありがとうございます。
ミドリさん、ありがとうございます。
ぼくの知る限りで言うと、これまで、創作プロセスの中に、通してこられたある種の「フィルター」を外されて、割と作品に作者である平川さんの気持ちを、ストレート(ある意味では歪ですが)織り込んで書かれた作品。と言った感じがします。
話者と作者である平川さんとが、近いところにある作品。それだけに読みやすくはなっている。
この印象は面白いな、と思いました。遠くと思われている方の評が多く感じていたので、近くストレートと受け取る視点はありがたいかもしれません。
ただ、ぼくがこの作品を読んでいてどうもと、首を傾げたくなるのはメタファーの使い方ですね。
メタファーというのは類推の力によって、世界を呼び込んでくる言葉の”魔法”のことですが。これが他者のイマジネーションとうまく触れ合ってこない。
冒頭の導入の仕方も、狙い目としてはよくわかるんですが、決して成功はしていない。
挙げていけばキリがないくらい、疑問を感じてしまう。
喩える。ということは、文学作品でなくとも、通常コミュニケーションのツールとして大きな役割を果たす。それがうまく機能していない。
作品に登場するのは「キリ子」さんという女の子です。ある種、矛盾を抱えながら働いている。言ってしまえば、どこにでもある”風景”です。そこに「場所」という箱があって、
つまり此処に彼女なりの居場所があるわけです。
しかしどうなんでしょう。ぼくにはこの作品のモチーフ、主題の扱い方。そしてそれを補っていくメタファーや作品の構造。そのどれをとっても、十分に尽くされてない。そんな印象を持ちます。次回作に期待、と言ったところでしょうか。
多くのことを行きついていない印象に受け取らせてしまったようですね。
是非とも期待されていてください。
喩えるということに関してすれ違ってしまったかもしれませんが、中核の魅力は受け取っていただけたようで良かったです。
指摘
どこにでもある”風景”です。そこに「場所」という箱があって、
居場所がある
にニンマリとしたり、その他の部位に向上心をとかく撫で起こされたりと、多く勉強させていただきました。
中核が想起させるものと作者との距離、そこへと向かう読み手からの距離という視点とフィルターの明示をある一点からは掴めた気がします。
過去作まで含めての評、ありがとうございます。
ポチさん、ありがとうございます。
それだけ読み込んでいただけたということだと思います。
なんだかんだで誉められた気もしています。
注意、ですね。
これから頑張っていこうと思います。
ポチさんの評はとても勉強になりますし、例え煽りの叩き台にされても、良いのかな、と思いはします。
仔細な論述も書くだけのエネルギー、尊敬します。
ただ、ポチさんは話さなくても良いことまで話し過ぎかもしれないですね。
脱線しすぎる癖が見えるので、論述はもう少し飲まれても良いかもしれません。
損だと思いますよ。
熱心な方なのに。
ポチさん、ありがとうございました。
ケムリさん、ありがとうございます。
それで、俺はこの作品キライじゃないです。専用綿、なんて言葉使わないで「カイメン」でいいじゃないっすか。
キライじゃないとのこと、ある方向性からのひと匙が足りなかったのかもしれませんね。その方向性からはもう一歩というところでしょうか。
「カイメン」は敢えて使いませんでした。別の方向性に取られたらここでは全く意味がないですし、別の方向性に取られて然るべき、強すぎる言葉だと思います。
ただ、比喩の使い方が甘い。表現を凝り過ぎて、結果的に原質(もしそういうものがあるとして、ですが)から遠ざかっている。
練り過ぎな気がしますね、この作品実際はもっと身に迫った生々しいものだったんじゃないですか?比喩やメタファに凝りまくって、葉や泥といったものを駆使してますが、これら全部ムダだと思います。モチーフに対して誠実な描写をガッチリと重ねる方が、はるかにこの作品は映えた気がする。
ここは読み手と書き手との差が出る部位、好みの部分なのかもしれません。
そして、中核からの引き出したかったことと読み手側の要求との差が出やすい部分なのかもしれませんね。
個人的に過日、ベタで近すぎるという意見も頂いたりもしたので、中核への距離感をもっと着実にしていくことかな、と今は思っています。
誠実な描写は敢えて避けたのですが、そちらも映えたかもしれませんね。
詩である、ということはそれほど大事ではないし、表現は作品のためにありその逆ではない。
これに対しては色んな考えがありますよね。自分の考えが作品から臭ってしまったのはよくなかったかもしれないですね。
むしろ、この作品だと凝った表現や詩であることがモチーフを塗りつぶした、そんな気がします。
色々な意見、ためになります。
初めて平川さんの作品が好きだな、と思いましたよ。
ありがとうございます。これからも一歩一歩、長い時間かけて頑張っていこうと思います。
視点の違いというよりも考え方、思想の違い、向い方の違いを挙げていただき勉強になりました。
現場を知っている方からの内容への意見も、貴重で嬉しかったです。
体調にお気をつけて。
非常に熱量のある評、ありがとうございます。
ゴミさん、ありがとうございます。
微細な描写をして
あなたが作り上げようとする人格がどんどん疑惑的になっていきました。
このギャップは、失敗だと思います。
人格を作り上げようと感じさせたことも良くないことかもしれないですね。
罵倒の中にもきちんとした向い合い、尊敬します。
ある視点からの描写での届かなかった部分がはっきり受け取れて勉強になりました。
厳しく解りやすい評、ありがとうございます。
ベイトマンさん、ありがとうございます。
なんだか、ありがとうございました。 ('08/04/23 22:20:52 *1)
- 黒沢 :
平川さん
どうしても、いい漏れがある気がして、ずっと気になっていました。あえて甘っちょろいことを書きますが、平川さんの言葉には、物神崇拝を思わせる独特の物質感と力があり、叙述の底には素直さが垣間見える気がして、私は好きだと思っています。うーん、こういうの、わざわざ(私ごときが)言うまでもないことだとは思うのですが。
これからも応援しています。 ('08/04/23 23:13:56)
- シンジロウ :
こんばんは 平川さん
僕には伝わってほしかったなんて、そんな台詞言われちゃうと愛おしくなっちゃうのでもうチョット詳しく感想でも書きます。まあ、僕も男ですんで、女心は最後までは分からないですよ。
表現の失敗の部分、方言を使うべきかどうか、風俗嬢である必要があるかどうかとかは皆さんがご指摘されてあるので、わざわざ繰り返し言う必要もないと思ったんですが、まあ、僕の感じた所をもうちっと詳しく書きますと・・・
まあ、「母性と大地」それを感じさせたかったのかもしれませんが、それなら色々な現実的な部分、携帯電話とか待機とかあえぐ練習だとか方言とか、そういうのはかなり余計です。それが現実だとしても。
まあ、あれですね。ソープ嬢のプロフィールに「淫乱」とか書いてあっても。その実、全然淫乱じゃないですね。てか、淫乱って言葉自体、単細胞な男視点のガキ臭い言葉だなって、俺は個人的に思ってますけど。
ソープ嬢サン達は行為が仕事ですから。まあ、演じてるんですね。でもHは精神的なもんなんで、精神が開かれてないと体も本当は開かれないんですけどね。男を客として扱ってしまった時点で、女の側には自分の精神の上に既に壁が出来てしまうと思いますけどね。そうなると女としてのHはできないでしょうね。
でも、あまそれを乗越えた母性と人間愛でもってシテくれる人ってのは、本当のサービスを理解している人でしょうね。あるいは天性のサービス業向きの人。そういう境地にいる人はそうは居ないでしょうけど。たぶん。
その辺り、書きたかったのかな〜って、まあチョットは感じてたりもするんですが、表現に余計な雑音が多いとちょっとな〜って。まあ、そんな感じです。
言葉が足りない、まぎらわしいってのは、普通に伝わらないって事です。それ以上、それ以下でもない。詩に置いては、そこが日常の言葉の使い方とはチョッとベクトルと色彩が違いますが、それは取り合えずアヤフヤにしとけばいいってものじゃあないです。
まあ、トンチンカンかもしれませんが。
俺にとって現代詩とは、って「現代詩」って言葉自体、現代の詩だからなのねとしか思ってません。理屈こねられても、そんなん知らんがな・・・です。
いつの間にか喫茶店の「ホット」がカフェの「ブレンド」になった様に。詩に現代がくっ付いたのねって感じで。
カフェで「ホット」って注文すると、きゃわいいバイトの女の子に「ブレンドですね」って言い返されるんですが、いやいや知らんがなって。「でも、君は本当のブレンドの意味知ってるの?」って、優しく色々教えてあげたくなったりシチャウンですが。
良いじゃん、要はホットのこのカフェのブレンドコーヒーが飲みたいのって感じで、「現代詩」って言われても、「ああ現代の詩ね」ってそんな感じしかありません。ごめんなさい。 ('08/04/24 00:45:47)
- 平川綾真智 :
遅れました。
黒沢さん、ありがとうございます。
好きだとの言葉を頂きながらも、多くを壊しながら進んで行けたらな、と思います。
ありがとうございました。
シンジロウさん、ありがとうございます。
まあ、あれですね。ソープ嬢のプロフィールに「淫乱」とか書いてあっても。その実、全然淫乱じゃないですね。てか、淫乱って言葉自体、単細胞な男視点のガキ臭い言葉だなって、俺は個人的に思ってますけど。
ソープ嬢サン達は行為が仕事ですから。まあ、演じてるんですね。でもHは精神的なもんなんで、精神が開かれてないと体も本当は開かれないんですけどね。男を客として扱ってしまった時点で、女の側には自分の精神の上に既に壁が出来てしまうと思いますけどね。そうなると女としてのHはできないでしょうね。
こことても解りやすく、ありがたかったです。
曲げたくない部分は曲げずに、きちんと耳を傾けて、創作していけたらと思います。
言葉が足りない、まぎらわしいってのは、普通に伝わらないって事です。それ以上、それ以下でもない。詩に置いては、そこが日常の言葉の使い方とはチョッとベクトルと色彩が違いますが、それは取り合えずアヤフヤにしとけばいいってものじゃあないです。
取り合えずアヤフヤにしたつもりはありませんが、そう読まれるのは良くないですね。
色々と課題を頂けた気がします。
ありがとうございます。
現代詩、そうですよね。
現代の詩ですね。
チョコがショコラに芸名を変えたみたいですが、そう深く考える必要もないのかもしれませんね。
妙に印象的な言葉を頂けて嬉しいです。
深く考えてしまっている楽しさも、まあ、あるということで。
本当に変わった視点ですね。
混沌とした中でとても素直で逆に新鮮です。
多くの視点をいただけ、勉強になりました。
ありがとうございました。 ('08/05/15 00:06:16)