#目次

最新情報


池田

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


(無題)

  池田

ある朝僕はじんじんする頭があまりにもじんじんするものだから、夢の中に置いてきた一握りのタオルを口に押し込みやんわり起きてきた。その時すぐには気付かなかったのだが、実はひざが腰になっていた。

ひざが腰にと言うと、大体3人に1人はこう言う。

「要するにそれって足が短くなったってこと?」

断じて違う。

ひざが腰になるということはそんなシンプルな問題ではない。 例えば人間は起き上がる時に腰に力を入れるものだが、僕の場合はひざに力を入れねばそもそも起き上がることすらできない。

分からないだろう。 こんな説明で分かるわけがないのだ。

ひざと腰が入れ替わったのだろうと勘違いする人も4人に1人はいる。 だがこれも違う。

要するにひざが腰になったのだ。 つまり、ひざは失われたのだ。 そして従来腰だったものも腰なのだ。 故に腰を2つ持ったという表現が最も感覚的には近い。

これは人々が考える以上にゆゆしき事態なのだ。

例えば、従来のひざの機能を取り戻すためには腰であるひざを使ってひざの機能を再現せねばならない。 これを僕は2年間特訓してようやく身に付けた。 つまり立ち上がることができるようになったのだ。

その間、妻の美智子には多大な迷惑をかけてしまったと思っている。 美智子の腰がひざになってしまえばいいと何度も思った。 そのたびに僕は自分の内に潜む悪魔を呪い、竹やぶに転がり込んだ。 竹やぶには見たこともないオットセイがおり、それが幻覚によるものだと気付いては家に戻り美智子に謝り続けた。

多い時で大さじ2杯分の塩を鼻から吸い込み、車椅子の背にもたれかかったままあの世について何時間も思索にふけったり、うがい薬を肛門から注入し、何度もうがいをした。

そんな姿を美智子に見せるのは初めてのことだったし、僕の中の雑木林に火を付けるきっかけにもなった。 山は火事になり、それから嵐が訪れ全てを洗い流し、7本足の奇妙な鳥が静寂を運ぶ。

気付けばひざが腰になってから4年の歳月が経っており、僕はセックスも出来るようになっていた。 セックスの際に使うのはひざの方の腰である。 その方が力を入れやすいことが分かったからだ。 セックスの相手はいつも飼い犬のモロだったことを除けば僕は概ね生活に満足していた。

ある朝、目が覚めると僕のひざから2本の足が生えていた。 腰からは足が生えるものなので、僕にはそれがとても自然なことのように思え、さほど気にも止めなかった。 だが、美智子は違った。

ある日美智子は、

「そんなひざ食べてしまえばいいんだわ。」

と言い、ナイフで僕のひざとひざから生えた足を両方とも切り取ろうとした。 もちろんそれは僕にとってかけがえのない腰であり足であり、そんなことをされてはたまらないから必死で抵抗した。

美智子なんかムカデになってしまえばいいんだ、と思った。

ニューヨークの全てが洪水で失われた時、僕の友人の松原がNHKスペシャルに出演することに決まった。

松原はその放送でニューヨークの洪水に触れ、その後に僕のひざについて見解を述べた。

その日から僕は一躍有名になり、文字通りひざ一本で食っていけるようになった。

時代が時代である。

Youtubeなどでも僕のひざの映像がたびたび流れることになり、しかし、映像だけ見ても僕のひざが腰であることは誰にも分からないので、インチキだのパンくずだのいろいろと言われた。

その内僕はひざが腰であることを証明する必要に迫られた。 妻は相変わらず僕のひざを切り取ろうと毎日ナイフでせまってくる。

そうだ!僕は思いついた。

平野部では雪が降っている。 何が怖いって何も怖くない。


ソファ脳

  池田

仕事から帰宅した私は、居間のソファの上に見慣れないものがこんもりと置いてあることに気付いた。

脳であった。

私はこれまでの人生においてそのようなものを目にした経験は一切なかったので、それが人間の脳であることをどうやって知ったのか未だに思い出せないし、今でも例えば鹿の脳を見せられたとして、果たしてそれが人間の脳であるか鹿の脳であるかを瞬時に判定できるかと言われれば、当然分かってたまるかなどと思うのだが、あの時、居間のソファに置いてあった脳は確実に人間の脳であったと、当時も今も確信できるのが不思議である。

脳といえば人体を構成する臓物の中では最も高度に発達した部位であるはずだ。私のような半端者に自らの貴重な臓物をプレゼントしてくるような奇特な輩がいるわけがない。これはきっとこの脳の持ち主(脳主)ではなく、他の誰かによる私への贈り物なのだろうと私は一瞬で考えをめぐらせた。

脳のような奇怪な物質でも、贈り物であればなんとなく可愛らしく見えてくるものだから不思議である。と、急に私は嬉しくなって小躍りした。普段贈り物などあまり手にする機会もなければ、ましてやそれが貴重な人間の部位なのであるから嬉しくなるのは当然であろう。

しかし同時に私はこれは贈り物ではないのかもしれないという考えも抑えられなくなっていた。

まず私はこういった贈り物を受け取るような立場の人間ではないし、何よりも奇怪なことにこの贈り物は差出人が不明なのである。通常、贈り物というのは送り状や包み紙などと共に渡されるものであり、それ故に差出人が判明するのだが、この脳はとえいば剥き出しの状態、つまりあるがままの破廉恥な姿でスポンと私の家のソファに投げ出されているわけであり、これが贈り物であろうはずはないのだ。

さらに、脳を摘出されているということはこの脳主は既に死亡している可能性もある。いや、間違いなく死んでいるはずだ。なぜならば脳というのはいわば人体の中枢であり、コマンダーである。コマンダーがいない部隊は早々に死滅する運命にあるはずなのはどんな戦争においても真実である。

もし仮に第3者が私にこの贈り物をしたとすれば、その第3者はこの脳主を何らかの方法で死亡させ、脳を摘出し、私の家のソファにそっと置いたのだとも考えられる。その場合、その第3者は殺人罪に問われるのでありこれはおおごとである。なんと私はいつのまにやらこんなおおごとに巻き込まれているかもしれないのだ。ワラッチャウネ。いや、待てよ、そもそもこの脳主を死亡させたのはその第3者とは限らない。自然死かもしれないし、贈り主とは別の第4者かもしれないのだ。多人数で死亡させたのであれば第226者などが存在する可能性だってある。私は愚かなことに脳主の死因を考えながら眠ってしまった。

明くる朝、目覚めた私はこの脳主の死因を考えることをスッパリとやめてしまう。手がかりが乏しすぎるので考えてもしょうがないのである。手を切りたいのである。

であるならば、私はこの贈り物を素直に受け取って使うべきなのかもしれない。さて、それでは脳とは何に使うものなのか。それを考え始めた途端、自然に笑いが込み上げてきて、喉の奥の方から驚くほど大きな音がした。「パックルポーン!!!」

その音に驚いた妻が寝室から駆けつけてきてソファを見て「ぎゃっ」と驚き、私に枕を投げつけ、台所にある包丁で自分の喉を切ったかと思えば、そこら中を駆け回り己の血液をあちらこちらに飛び散らせ、私が「落ち着いてよ、もう」などと言えば包丁を持った手を私目がけて突き出してくるので、大声を出して恫喝すれば今度は近所を駆けずり回ってそこらじゅうの人をリビングに招き、通報などというものをされ、私はあえなく御用となって、刑務所に入所した初日にいきなり大男達に体中の穴という穴全てにペニスを入れられて、俗に地獄の苦しみといわれるものを味わった挙句、あっという間に10数年の歳月が経ち、釈放となり公園のベンチに座っているところを浮浪児達に拾われぐちゃぐちゃになった枝豆と日本酒を片手に今日も地獄音頭をひけらかすのであった。

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.