(一)天草本平家物語
『天草本平家物語』(1592年・文禄元)では、平家の由來が聞きたいという右馬之允(うまのじよう)の問いかけに喜一檢校の坊は≪まづ平家物語の書き始めには、奢りを極め、人をも人と思はぬやうなる者はやがて亡びたといふ證跡(しやうぜき)に、大唐(たいとう)・日本において驕りを極めた人々の果てた樣態(やうだい)をかつ申してから、さて六波羅の入道前の太政(だんじやう)大臣〔マヽ〕清盛公と申した人の行儀の不法なことを載せたものでござる。≫こう答える。
抄者ハビアン(Fucan Fabian、恵俊・1565年(永禄8年)- 1621年(元和7年1月)の生きざまは、そのまま小説になるほどだ。『イソップ(伊曽保)物語』翻訳(1593年・文禄2)。『仏法』(1597年・慶長2)を編集したのち徹底して仏教批判の立場を取る。林羅山と論争し(1606年・慶長11年)当時支持されつつあった地球球体説と地動説を主張した。修道女と駆け落ち(1608年・慶長13年)して棄教し、『破提宇子』(1620年・元和6)を出版キリスト教を批判して日本イエズス会から即座に禁書とされ「地獄のペスト」と評された。((*ハビアン – Wikipedia 参照))
いくら≪日本のことばとイストリヤ(歴史)を習ひ知らんと欲する人のために≫((*原書扉紙))
書かれたとしても、『平家物語』を教材として『天草本』を起こした者が、その象徴である
・祇園精舎の鐘のこゑ
・諸行無常のひびきあり
・沙羅双樹の花の色
・盛者必衰のことわりをあらはす
このくだりを飛ばすとは……。≪祇園精舎の鐘の声≫の表現自体は『平家物語』のオリジナルではない。当時、観想念仏を呼び起こす決まり文言として祇園精舎が流布していた。問題なのは聖地が見つからない。祇園精舎の位置がどこなのか定まらず、そこにあったという無常堂の存否も定かでない。祇園精舎の手引きともいえる『祇園図経』は、本当に史実に基づいた記録なのかも怪しいのだ。アンコールワットが聖地だと誤解する事態がおき、参拝する茶番も発生した。
・おごれる者もひさしからず
・ただ春の夜の夢のごとし
・たけき者もつひにはほろびぬ
・ひとへに風のまへのちりに同じ
軍記と仏教説話とのフュージョン。あたりまえの事だが、『平家物語』は平家(側)の人々によって語られた物語ではない。語るにも語りうる平家の人々はほぼ全滅していてこの世にいないのだ。この長大な物語の資料は畢竟源氏(側)の人々によるものが大きい。『平家物語』成立を伝える資料として『徒然草』第二百二十六段がある。その中に慈円の名が出てくる。慈円はこの長大な物語を統括するプロデューサーの役割を担っていたのではないか。『平家物語』の有名な冒頭のくだりは慈円の手になるという夢想を呼び起こすのだ。
******* 註解 *******
*出典:『天草本平家物語』(岩波書店 1927.6.28)新村出 序並閲、龜井高孝 飜字
*誤記・誤植と思はるゝものは原形そのまゝを載せて左側に小さくマヽ(原のまゝの意)を配す。
*「祇園精舎のうしろには よもよも知られぬ杉立てり昔より山の根なれば生いたるか杉神のしるしと見せんとて」:『梁塵秘抄255』
*「かの須達長者の祇薗精舎造りけんもかくやありけんと見ゆるを」:『栄花物語』
*「娑羅双樹の涅槃の夕までのかたを書き現させ給へり」:『栄花物語』
*「鐘の音のここかしこに聞ゆるも、ぎをんしゃうじゃの無常院の夕暮の心地す」:『高倉院升遐記』
*「釈迦如来、生者必滅のことはりをしめさんと、沙羅双樹の下にしてかりに滅を唱給ひしかば」:『保元物語』
選出作品
作品 - 20201110_562_12217p
- [優] 平家物語 - アンダンテ (2020-11)
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