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  • [佳]  日記 - 田中恭平  (2020-06)

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日記

  田中恭平

 
 水を飲んで、けして一杯じゃない。血がうすくなる位、水を飲んで、頭痛がしても水を飲んで、水自体になるくらい水を飲んで、欲望を忘却しようとする、あたらしい依存の形、に、なってしまわないように、気を引き締めながら、水としてマインドフルネス瞑想をして、雑念に塵(ちり)のレッテルを貼り、きらきら光る、これは理解できない、何か物を観ている。苦渋にぎゅっと握った左手。いま解放し、楽にしてやる。左手の小指にもたましいは宿る。歯のいっぽんいっぽんにたましいは宿っている。だから口内はボロボロ。鏡でのぞくときナルシスト。すとん、すとん、と野菜を切って、そのままにして原付に乗って森の入口を目指す。コーラス、何番?水だけ持ってきた。分け入っても分け入っても青い山。種田山頭火。生活に、労働に、つかれきって、水をゴクゴク飲む。地下水の軟水だ。口の中に広がり、思考が自然脱臼される。肩が抜けたようにこころはまだトイレ消臭剤の匂いがこびりついているから、それは捨てる。脱ぎ捨てる。爽やかな風。アメリカでは風は福音の比喩。なのに相も変わらず得るものはなく、こころの内戦は止まらないから、また水を飲み、座する。木々のこすれる音が聞こえる。鳥の啼く音が聞こえる。黙って水晶を採取する。それで何かをするわけではない。家というポケットに入れる為にまずは、汚らしい、汗臭い作業ズボンのポケットに入れる。時が経ち、じぶんは森のポケットのなかにいるのだと考える。跡地にゆく。いつか父がそこにひめしゃらを植えて、それは誰かに抜かれ盗まれてしまった。父が哀しくもなく、もう笑い話に昇華されている話をなんども聞いた。わたしは昇華できないでいる。その話を聞くとただ哀しい。その跡地に向かう。孤独に一軒家で一人暮らししていると、さびしいから、唯一の繋がりであるような、父との、その跡地で座し直す。でもほんとうはさびしいということがどういうことなのか、最近、わからなくなりそうになっている。それが怖い。座すると必ず顕在化する。労働は障がい者雇用で行っている。朝の八時から、午後三時まで。やっぱり馬鹿にされているんだな、とおもいつつ、できることしかしない。できることしかできない。小雨の予感、家へ帰ろう。自分語りにいきがったり、少しだけする弾き語り。すべては無にかえる物語。原付は爽快。している間に何かを忘れたり、失ったりするから、今度は歩いてこよう。中原中也も歩いてから書いたというではないか。そんな話もやっと思い出し、しんじつなのかはわからない。カチャリと鍵を開けて、手を殺菌消毒する。コロナで、もう一生分は手を洗った。ころり、ころな、ころさないで。自然と一になり、パソコンを立ち上げれば無限となるのか。ほんとうか、それは。頭痛したまま、又水を飲む。五時を報せる鐘は、夜への出発の鐘だ。いこう、れっとごー。夜の階層の最上階まで。わたしは水として、架空の青年、リーを癒す。諦めることは明るめて認めること。たぶんそうなんだろうな、と思いつつ、清潔なシーツに横になり、いつもの天井を見つめる。わたしの刃はボロボロだ。研がなくては草を刈ることはできない。にっちもさっちもいかないとき、人は本当に活きている。ニュースは見ない。テレビを疎ましく思うのは病気の性。野菜をもう一度切り、肉がないことに気づく。カチャリと玄関を開け、ふらふらと業務スーパーへ向かう。抱えているのはおさなごころ。業務スーパーの光りは強烈過ぎる。から、その店先で座って、小学生がするように、水を飲む。なんだか月の香りがするよ。