選出作品

作品 - 20200406_747_11799p

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・『在りし日の歌』 ― 各論

  アンダンテ


・・・・・・・・・・(五)月

・この詩の制作年次は未詳である。昭和八年五月、中也は牧野信一・坂口安吾の紹介で「紀元」の同人となった。「紀元」昭和九年一月号に、この詩「月」は発表された。

・・・太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
・・・次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
・・・・・・・・・・・・・・(「雪」『測量船』より)

・『測量船』が世に現れたのは、昭和五年十二月であった。この頃、三好達治は小林秀雄と共にボードレール『悪の華』を翻訳していた時期でもあった。

・・・灌木がその個性を砥いでゐる(「月」四行目)
・・・姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を諦めた!(「月」五行目)

・泥塑人を掘り出すような描写に、泥塑人は頷かない。<灌木がその個性を砥いでゐる>のだ。この殆ど描写の転回のみで成り立っている詩は、実は三好達治へのアイロニーではなかったのか、私にはそう思える。
・中也の未刊詩篇〜ノート翻訳詞の中に、(蛙聲が、どんなに鳴かうと)という一篇がある。そこには、灌木の個性さえも否定して、もっと<営々としたいとなみ>を模索する中也の姿がある。この詩の第一節を挙げておこう。

・・・蛙聲が、どんなに鳴かうと
・・・月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと
・・・僕はそれらを忘れたいものと思ってゐる
・・・もっと営々と、営々といとなみたいいとなみが、
・・・もっとどこかにあるといふやうな氣がしてゐる。

・(蛙聲が、どんなに鳴かうと)の制作年次は昭和八年五月〜八月と推定されている。ノート翻訳詩とされているが、誰の詩の翻訳か定かでない。私が思うに、ノートに書かれたこの翻訳詩は、実は中也のものではないか。詩の成立の時系列にこだわり過ぎると訳が分からなくなる。詩は処女作が後々の詩を越えて行くこともあり得るのだ。

・・・砂浜や山々を越えたむこうに、仕事の新生を、瑞々しい叡智を、独裁者達と悪魔どもの退城を、迷信の幕切を祝う為、地上の『降誕祭』
・・を称える為、いの一番に駆け付ける人々として!―― 何時の日、俺達は行くのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『地獄の一季』の中の詩「朝」より−アンダンテ訳−)

・・・Quand irons-nous,par dela les monts,saluer la naissance du travail nouveau,la sagesse nouvelle,la fuite des tyrans et des
・・demone s,la fin de la superstition,adorer―les premiers!―Noel sur la terre!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(Matin;Une Saison en Enfer)

・そのいとなみは、ラムボオが覗いた空の奥の、又その奥の遐い遐い処にあって、蛙聲が水面に走って暗雲に迫る転調の時を、中也は俟つしかなかった。


・**********
*註解
・紅殻色:べんがらいろ
・遐い遐い:とお〜ぃとお〜ぃ
・俟つ:まつ


・・・・・・・・・・・(六)青い瞳

・・・「六月四日(土曜)
・・岩野泡鳴 三富朽葉 高橋新吉 佐藤春夫 宮沢賢治」

・昭和二年の中也の日記の一節。三富朽葉については、福士幸次郎から富永太郎を経由して中也のもとに伝わり、線条の空となって中也の心に沁みいった事だろう。

・・・輝き出る星の表を
・・・赤い、赤い太陽が渡って行く。

・・・街の上の隅々に
・・・匂いと彩の巣食ひ初める
・・・黄昏

・・・黄色い灯火の冴えて、
・・・暗い影絵の揺れる時、
・・・徂き戻る、紅い幻
・・・しなやかな腕に囚われて
・・・銀の線条を織る夜。

・・・光を夢みて、其処此処に
・・・蹲るやうな
・・・泣き叫ぶやうな夜、
・・・物狂はしく打たれて
・・・穴へ誘うはれる歓楽……
・・・・・・・・・・『焔の絵』(「赤い舞踏」より)― 三富朽葉 ―

・<私はいま此處にゐる、黄色い灯影に。(「青い瞳」1夏の朝)>。この句に見られる<黄色い灯影>は、明らかに朽葉の<黄色い灯火の冴えて、/暗い影絵の揺れる時、/徂き戻る、紅い幻>を踏まえている。しかし、朽葉と中也とでは決定的な違いがあった。それは、象徴を目的とする者と象徴を手段とする者との違い。空間を同じく象徴的に暗示するにしても、その空間に対する構え方が違っているのだ。
・朽葉の暗示した徴は、朽葉の感性の反応である意識のゆらぎであり、それが紅い幻という象となって空間の其処此処を<徂き戻る>。空間は無限即ち分割され得ない個体性という前提のもとにあり、朽葉の感性即ち個性は、縦んば幻という象であれ、保存されたものとしてある。象徴が目的となる由縁だ。
・中也の<青い瞳>は、「臨終」の<〓馬の瞳のひかり>と同様に空のうちがわ空の奥の消滅の信号として、象徴的に有限な空間を暗示している。空間が消滅することによって物の関係性が保存されない空のうちがわにあって、<黄色い灯影>は、中也という感性即ち個性が剥がされた他者として徴され、虚無の隙間に溶けていくものの客観的な象として暗示されている。無論、この象は自然主義者達が唱える客観的描写によるものではない。空のうちがわ空の奥には、客観的描写という目的に耐える物はないのだ。物の個体性が保存されない空間にあっては、「あれ」とか「これ」とか言う自己同一性はない。<私はいま此處にゐる、黄色い灯影に。(「青い瞳」1夏の朝)>。中也が空のうちがわで此處と暗示する時、「ここ」とは虚無の隙間であるしかない。


・・・Elle est retrouvee.
・・・Quoi?-L’Eternite.
・・・C’ st la mer allee
・・・Avec le soleil.
・・・・・・・ (L’Eternite-A.Rimbaud-)

・中也は、ラムボオの「永遠」の最初の節を次の様に訳している。

・・・また見付かつた。
・・・何がだ? 永遠。
・・・去ってしまつた海のことさあ
・・・太陽もろとも去つてしまった。

・おおむね小林秀雄訳に頼った訳なのだが、この第一節については、大抵の訳者が永遠繰り返す日没を念頭に置いた訳し方をする中、中也の独自性見られる。そして、そのことが、何も中也自身に引き付けすぎた訳でないことは、第五節の前二句

・・・La pas d’esperance,
・・・Nul orietur
・・・・・・・(L’Eternite-A.Rimbaud-)

・・・絶望の闇がつづくのだ、
・・・陽はもう昇るまい。
・・・・・・・(「永遠」より−アンダンテ訳−)

・そして、ラムボオ『言葉の錬金術』で次の様に言って「永遠」引用していることからしても明らかである。

・・・Enfin,δ bonheur, δ raison,j’ecartai du ciel lazur,qui est du noir,et je vecus,etincelle d’or de la humiere nature.
・・・・・・・・・(Une Saison en Enfer;Delires II)

・・・到頭やった、おお何たる幸せ、おお何たる智力、俺は暗闇に貼り付く、蒼空を引っ外してやった、そして俺はいた、素の炎が金色に煮
・・え滾る最中に。
・・・・・・・・・(「錯乱」II 言葉の錬金術より『地獄の一季』−アンダンテ訳−)

・火花に辷り込んで歩哨に立つ魂は、中也の<黄色い灯影>と透かし重なる。


・**********
*註解
・三富朽葉(みとみきゅうよう):明治二十二年八月十四日、長崎県にて生まれる。大正六年八月二日午後、銚子君が浜にて遊泳中、溺死する。
・「赤い舞踏」:明治四十三年三月、『自然と印象』第十集に、「赤い舞踏」の総題のもとに発表された四篇の中の一つ。他の三篇は「経験」「黒掴」「午後の発熱」。
『自然と印象』は、明治四十二年五月、人見東明・加藤介春・福田夕咲・今井白楊・三富朽葉の五人によって結社された「自由詩社」から発行されたパンフレットである。後に、福士黄色雨(幸次郎)・山村暮鳥・佐藤楚白、斉藤青羽の四人が加わった。明治四十三年六月十五日、第十一集をもって終刊となった。
・徴:しるし
・徂き戻る:ゆきもどる
・縦んば:よしんば
・去って:いって
・最中に:さなかに


・・・・・・・・・・・(七)三歳の記憶

・未来が希望もなく記憶もない過去だったとしたら、私たちが回想する過去とは、一体何なのか。「三歳の記憶」が<隣家は空に 舞ひ去ってゐた!>で終止していた事に、私は繰り合わせの効かないジレンマに陥った。
・時は泡影のごとく、空蝉は皆てこねて在った。<知れざる炎、空にゆき!>。私は、中也の人知れず在る孤独な魂に胸を打たれた。

・・・……私の世界は
・・・そこに住みつくためにあるのではない
・・・そこから出ていくためにあるだけなのだ
・・・おおこれら
・・・「詩作の陳腐な古物」たち

・・・構えは要らない
・・・言葉をねじ伏せて進むつもりなら
・・・言葉が私をみちびくだろう
・・・・・・・(『場面』の中の「夜の樹間」より ―渋沢孝輔―)

・この渋沢孝輔の最初の詩集のエピローグにある数行を、中也は<ああ>の二音で導く。表意する者は、先ず、我慢の祭の火中に身を曝し、その炎を被かねばならぬ。この数行の表意は、言葉で行為されてはならぬのだ。

・・・掾側に陽があたつてて、
・・・樹肥が五彩に眠る時、
・・・柿の木いっぽんある中庭は、
・・・土は枇杷いろ 蠅が唸く。
・・・・・・・(「三歳の記憶」)

・今にも臠殺されてゆく空の兆しを暗示するかのように、この一節は置かれてある。そして、私にはこの一節がラムボウの次の一節を喚起するものに思えてならない。

・・・Puisque de vous seules,
・・・Braises de satin,
・・・Le Devoir s’exhale
・・・Sans qu’on dise:enfin
・・・・・・・ (L’Eternite-A.Rimbaud-)

・・・お前たちしかいない、
・・・サテンの燠火よ、
・・・燃えながら瞳を凝らして
・・・ただ黙々と…衰え果つ。
・・・・・・・(「永遠」より−アンダンテ訳−)

・中也は、昭和十二年十月刊行『ランボオ詩集』(野田書房)の八月二十一日附の「後記」で、次の様に述べている。

・・・繻子の色した深紅の燠よ、
・・・それそのおまへと燃えてゐれあ
・・・義務はすむといふものだ

・・・つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲
・・劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

・枇杷いろに発熱した土、その上を蠅が揺蕩う。―― 油一滴、屁もひらず ――そんな呪文を唸らせ蠅は、虚空の闇へ誘われ発つのか。

・・・あゝあ、ほんとに怖かつた
・・・なんだか不思議に怖かつた。
・・・それでわたしはひとしきり
・・・ひと泣き泣いて やつたんだ。

・・・あゝ、怖かつた怖かつた
・・・――部屋の中は ひつそりしてゐて、
・・・隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
・・・隣家は空に 舞ひ去つてゐた!

・彎はれた瞳は動いた。1934年の日記には、こうある。

・・・「僕は泣きながら忍耐する。そして僕の求めてゐるのは、感性の甚だしい開花だ。」

・それは、葉が悉く散って狂い咲きするように、不気味な、それでいて自然な開花であるに違いない。


 **********
*註解
・知れざる炎、空にゆき!:『山羊の歌』の中の詩「悲しき朝」にある詩句。
・隣家:となり
・被かねば:かずかねば
・樹肥:き やに
・中庭:に わ
・唸く:なく
・臠殺;れんさつ
・義務:つとめ
・彎はれ:ひきまかなはれ


・・・・・・・・・・・(八)六月の雨

・虚無からの目差しが、尚以て抒情であった。そうとしか言い様のない、極めて中也的抒情がここにはある。「近頃最も感心した佳品」(昭和十一年七月『燈火言』「四季」)と、この詩を三好達治は評価している。それにしても、三好達治の謂ば正調とも言うべき抒情詩『少年』と転がして見ると、その瞳の光差は大きくずれていた。ふたりの目差しの出立つ所が違っていたのだ。

・・・・・・・少年
・・・夕ぐれ
・・・とある精舎の門から
・・・美しい少年が帰ってくる

・・・暮れやすい一日は
・・・てまりをなげ
・・・空高くてまりをなげ
・・・なほも遊びながら帰ってくる

・・・閑静な街の
・・・人も樹も色をしづめて
・・・空は夢のやうに流れてゐる
・・・・・・・(三好達治『蟹工船』より)

・・・またひとしきり 午前の雨が
・・・菖蒲のいろの みどりいろ
・・・眼うるめる 面長き女
・・・たちあらはれて 消えゆてゆく

・・・たちあらはれて 消えゆけば
・・・うれひに沈み しとしとと
・・・畠の上に 落ちてゐる
・・・はてしもしれず 落ちてゐる

・・・・・・・・・・お太鼓叩いて 笛吹いて
・・・・・・・・・・あどけない子が 日曜日
・・・・・・・・・・畳の上で 遊びます

・・・・・・・・・・お太鼓叩いて 笛吹いて
・・・・・・・・・・遊んでゐれば 雨が降る
・・・・・・・・・・櫺子の外に 雨が降る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(「六月の雨」)

・中也はラムボオの十四行詩『母音』を、昭和四年頃訳していた。そして、その最終節の部分を、何の躊躇もなく、中也は次の様に訳す。

・・・O、至上な喇叭の異様にも突裂く叫び、
・・・人の世と天使の世界を貫く沈黙。
・・・――その目紫の光を放つ、物の終末!
・・・・・・・・・・(『母音』−中原中也訳―)

・・・O,supreme Clairon plein des strideurs estranges,
・・・Silences traverses des Mondes et des Anges:
・・・--O l’Omega,rayon violet de Ses Yeux!
・・・・・・・・・・(Voyelles -A.Rimbaud-)

・・・オー、恐ろしくも甲高く鳴り満つ 至上の喇叭よ、
・・・天空と 天使たちを突き抜ける 沈黙よ。
・・・― おお オメガ、終末の双眸より来る 紫の光、あり!
・・・・・・・・・・(『母音』−アンダンテ訳―)

・六月の雨の<みどりいろ>は、このオメガからの目差しなくして誕生し得なかった色象ではなかったか。


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*註解
・眼:まなこ
・面長き女:面長きひと
・畠:はたけ
・櫺子:れんじ


・・・・・・・・・・・(九)雨の日

・・・雨の中にはとほく聞け、
・・・やさしいやさしい唇を。
・・・・・・・・・・(「雨の日」

・ちぎれたひとひらの中に宇宙波濡れ通って在る。例えば、次の二人の詩人の七行詩を約めて、この二行に中也の抒情はある。そして、我が一条氏の詩に繋がっていく。

・・・種子の魔術のための幼年
・・・ひとつの爆発をゆめみるために幼年のひたいに崇高な薔薇いろの果実をえがく
・・・パイプの突起で急に寂しがる影をもたぬ雀を注意ぶかく見まもる
・・・井戸のような瞳孔の頭の幼い葡萄樹はついに悦ぶ
・・・金魚は死を拒絶した
・・・雨のふる太陽
・・・かれの頚環の晴天
・・・・・・・(「аmphibiа 」― 瀧口修造 ―)

・・・南風は柔い女神をもたらした。
・・・青銅をぬらした、噴水をぬらした、
・・・ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
・・・潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
・・・静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
・・・この静かな柔い女神の行列が
・・・私の舌をぬらした。
・・・・・・・(「風」―西脇順三郎―)

・・・完全球体の炸裂する
・・・朝宵に
・・・丈高の夏草がしだれる雨樋を
・・・流転する魂の模型は
・・・悪質な仮構に断続的に注がれ
・・・そこに佇む書割の
・・・祠に
・・・群生する蝉の仄かな喚きが
・・・人の狂いと交響する
・・・故に私は
・・・彼らの羽ばたきを借り
・・・日曜の死さえも祝祭しながら
・・・瞬目の中で
・・・虚無の螺旋を窒息する
・・・・・・・(「安息」― 一条 ―


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*註解
・約めて:つづめて
・「аmphibiа」:瀧口修造(1979年 76歳没)『瀧口修造の詩的実験1927〜1937』の中の七行詩
・「風」:西脇順三郎(1982 88歳没)「Ambarvalia」の中の七行詩