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作品 - 20190909_971_11446p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


負の光輪。

  田中宏輔



一 影と影


ああ、むかしは、
民の満ちみちていたこの都、
    (哀歌一・一)

 荷馬車に乗った私たちが、市門を目にしたときには、もうそろそろ狼さえも夜目のきかない時間になろうとしているところだった。
 ところどころ縁が欠け、いたるところ、石灰塗りの白壁が剥がれ落ちた亜麻色の積み石、その見上げるほどに丈高い市壁の間隙を抜けて、私たちは、アンフィポリスの町に入った。
 板石を敷き並べた大通りを挾んで、まるで半開きの唇から覗かれる歯列のように、二条に列をなして、白塗りの建物が向かい合っている。
「神父さん、修道院まで送ってあげるよ」
「そうしてくれるかな」
 知りあって間もないふたりであったが、私と少年とは、あたかも以前から親しい間柄のように振る舞っていた。というよりは、むしろ少年の屈託のない笑顔が、恐れるものが何もない、とでもいった無蓋の微笑みが、ひととは、常に、ある一定の距離を保ち、決してこころの内の思いをさらけ出したりすることのない私を、その私の強い警戒心を、まるで風の前の籾殻のように、たちまちのうちに吹き飛ばしてしまったという方が真実に近いだろう。
「神父さん、おいら思うんだけど、どうしてこんなちっぽけな町に、あんなりっぱな修道院があるのかなあって」
 コンスタンティンは、右の掌に手綱の端をひと回り巻きつけて、左に座っている私の顔を見上げた。
「いまでは滅んでしまったけれど、テッサロニキも何百年も前は、カルキディキいちの都だったらしいね。きっと、この町も、ほかの町と同じように、以前はもっと大きな町だったんだろう。このアンフィポリスにある修道院が、いまでは町に不釣り合いなほどりっぱなものに見えるということは、この町が、昔はもっと大きなものであったということだろう」
「どうしてテッサロニキは滅んでしまったの」
「きみも、だれかに話をしてもらったことがあるだろう」
 少年は頷いた。
「おやじもおふくろも、それに、おいらの村の教会の神父さんも、みんな、神さまが人間に罰を与えたんだって言ってた」
「そうだよ、伝え聞くところによると、その昔、ひとびとが主の恩恵を忘れ、あまつさえ神への信仰を蔑ろにするようになったためについに主が、それらのひとびとの頭の上に、怒りの七つの鉢を傾けられたのだという。そのとき、世界じゅうの大都市は、かつて栄華を誇っていたソドムとゴモラさながら、完膚なきまでに打ち滅ぼされたのだという」
 少年の顔から好奇心の色が消えた。彼は前を向き、眉を寄せて、何かものを考えるような表情をしてみせた。
 敷石を踏み歩く蹄の音と、荷馬車の車輪が転がる音が、通りに大きく響いている。それは、蹄に打ちつけた蹄鉄と石が車輪に嵌めた鉄輪と石がぶつかる、硬くて乾いた不快な韻律であったが、なぜか、荷馬車の振動に心臓の鼓動が連動しているような錯覚に囚われた。長旅で疲れているのかもしれない。少年が、納得がいかないとでもいった顔を私に向けた。
「よく分からないや、いったいどうして神さまは、人間に罰を与えるなんて気になられたんだろう、ねえ、神父さん、罰を与えられたひとたちは、みんながみんな悪いことをしたひとたちなの、いいひとはひとりもいなかったの」
「いいひとがひとりもいなかったなんてことはなかっただろうね、ロトのようなひとがいたかもしれない、しかし、数百年前の神の怒りの鉢からは、だれひとりとして、逃れ出ることができなかったという話だよ」
「じゃあ、いいひとたちは、その悪いひとたちの巻き添えを食っちゃったってわけなの、そんなのおかしいよ、だって、そうでしょ、たとえば、家族んなかに泥棒がいたら、家族みんなに泥棒をした罰が下るなんて、そんなの絶対におかしいよ」
 私は、私の右の手を、膝の上の頭陀袋からどけて、少年の膝の上においた。
「だけど、コンスタンティン、もしも、家族の内のだれかが、その泥棒をしたものにちゃんと目をそそいでやっていたら、道を踏み外しかけたときに、ちゃんと手を差し延べてやっていたらどうだったろう。もしかしたら、彼は、泥棒になっていなかったかもしれないよ。だとしたら、ほかの家族にも責任があるんじゃないだろうか、罪とは言わずとも、そういったものがまったくなかったとは言えないんじゃないかな」
 ひと瞬き、ふたまばたきのあいだ、少年は、考えがまとまらないのか、それとも、適当な言葉が見つからないのか、まだ何か言い返したいことがあるのだけれども、それができないでいるというもどかしさを表情に出して私を見つめていたが、急に興味を失ったかのように顔を逸らせると、彼は通りの人影に目を向けた。
「女たちは、いったい何の話をしてるんだろう、朝っぱらから、椅子を玄関先に引き摺り出して、日が暮れても、ちっとも片づけようとはしないんだから」
 コンスタンティンは、私の顔を見ずに、馬の背にひと鞭くれて、そう言った。彼の言うとおり、頭巾を被った女たちが椅子に腰掛けて、片頬を寄せんばかりに喋り合っている。また、椅子のない門口でも、頭をくっつけんばかりに寄せ合って、じっと佇みながら話し込んでいる小さな影の固まりが、通りを挟んだ道の両側にいくつも見受けられた。どの影も、その頭には白い頭巾を廻らしている。彼女たちのなかには、ごく僅か、私たちの方を見やっても、すぐに顔を背向けるものもいたが、大抵のものは、会話を中断させたまま、私たちが通り過ぎて行くまで、片時も目を離そうとしなかった。目だけは、薄暗闇のなかでも見分けられる。影から分離してはっきりと見分けがつくのである。そして、また、私たちの乗った荷馬車が、彼女たちの目の前を通り過ぎたあとでも、私は、私の背に、執拗に纏わり追ってくる視線の束を、まるでひとを物色するような視線の塊をひしひしと感じ取っていた。目を逸らしたものも、目を外さなかったものも、どちらにせよ、どの頭巾もみな、まず一度は、私たちの方に目をくれないことには、話し続けることも、また、口を噤んで黙って見つめ続けることもなかったようである。
 しかし、それも当然のことといえばいえないこともない。アンフィポリスのように歴史のある小さな町では、都会にはない緊密な人間関係が形成される。そういった閉鎖的な空間では、隣人とは、何代か前の祖先にまで遡る付き合いがあったりするのである。そんなところでは、隣近所のものは、家族同様に付き合わなければ、お互いにすぐに溝ができてしまう。なかには、まるで敵同士のように反目し合っている家もあるが。そして、どちらかといえば、家族のような付き合いをしているところよりも、そういった反目し合っているところの方が、相手の家のことをよく知っているものである。憎しみが、そのひとに、相手の家族ひとりひとりが持っている服やサンダルの数までをも知るようにさせるのである。そんなところで、大きな音を立てながら、石畳の道をやって来る荷馬車に目をやらないものなどいるだろうか。それに、その荷馬車の上の奇妙な取り合わせに目を瞠らせないものなどいるだろうか。牧童と修道士、つば広の麦藁帽子を斜交いに被った牧童と、椀形の黒い丸帽子を頭頂に戴いた修道士、剃刀などあてる必要もない、優しく柔らかな頬辺の牧童と、鋏さえいれることのない伸ばし放題の髭面の修道士、半袖の白シャツから陽に灼け焦げた柔腕を覗かせた牧童と、手首のところまで袖のある黒衣を纏った修道士。そういった対照的な姿のふたりが、彼女たちの双の目に奇異なものとして映ったとしても、何ら不思議はない。しかも、この時間にである。本来ならば、修道院で主に祈りを捧げているはずの晩課のこの時間に、荷馬車を走らせている修道着姿の人間など、これまで彼女たちは、一度も目にしたことなどなかったであろう。
 頭巾のない影の固まりが、道を隔てた大通りを横切って、右から左に渡ってゆくのが目に入った。
「女たちばかりではないようだよ、見てごらん、コンスタンティン」
 私は、顎先を向けて、居酒屋の表口にすだく、いくつかの影に、少年の視線を促した。おそらくその店の主人なのだろう、柄の大きな影がひとつ、小さな脚立の上に立って、とば口に張り出した看板に、その房なす葡萄と絡まり縺れた蔦のシルエットに両の手を伸ばしているところだった。そばには、彼に話しかけるふたつの影があった。
 私たちの乗った荷馬車が、彼らの前を通り過ぎようとしたとき、蔦の巻きひげの先にランプの火が灯り、そこで振り向いた主人の目と私の目が合った。彼は私の姿を見て、少し驚いたような表情を顔に浮かべたが、すぐに目を逸らせると、脚立の踏み段を後ろ向きに、足元を確認しながら一段一段ゆっくりと下りていった。
 二、三瞬後、肩越しに振り返ると、その大きな影が、折り畳んだ小さな脚立を左手に捧げ持ち、右手を風に揺れる葦のように滑らかに揺れ動かしながら、背後からふたつの影の背を押すようにして、扉のなかに入っていく姿が見受けられた。
 街路に立ち並ぶガス燈に、次々と火が灯っていった。

  影たちは黄昏の中を行く、
  靜かにすべるやうにして。

  影たちは集まり、影たちは誘ひ合ひ
    (C・V・レルベルグ『夕暮れの時が來ると』堀口大學訳)

 建物と建物のあいだ、路地の薄暗闇のなかから、影と影が姿を現わす。通りに自身の無数の影を曳きながら、あたかも誘蛾燈におびき寄せられた羽虫さながら、いくつもの影が、あのランプの下、酒神ディオニュソスの聖木の下に群がり集まってゆく。



二 修道院

 教会前の大広場を通り過ぎると、私たちは町外れの十字路に出た。
「これを真っ直ぐに行けば港に出られるよ。修道院はこっち、この十字路を左の方に曲がったところ」
 と言って、コンスタンティンが、手綱を左に引っ張ると、馬は方向を転じて、十字路を左に曲がった。
 しだいに道は狭くなってゆき、家並みは隙間を詰めて石垣を高く廻らせるようになっていった。それゆえ、道は、より窮屈に、より暗くなっていくように感じられた。もしかしたら、ここは、アンフィポリスでもっとも早く夜の懐に抱かれるところなのかもしれない。

  修道院の
  高き壁に沿ひて
  木の葉は
  風にわななく。
    (アルベール・サマン『小市夜景』堀口大學訳、著者改行)

 聖アンフィソス修道院は、堅牢な石造りの大修道院であった。切り石積みの外壁は、まるで城壁のように高くそびえている。コンスタンティンは、その横手を廻って、私を聖堂の入り口まで送ってくれた。入り口の踏み段を、ふたつ、みっつ昇ったところで振り返ったときには、すでに、少年の後ろ姿はなかった。ただ、遠ざかりつつある荷馬車の音だけが、夜の闇のなかにあった。しかし、それもまた、すぐに私の潰れた耳には聴こえてこなくなった。
 壁面はまだ熱くて、手で触れると熱が直に伝わってくる。私は、木でできた、いかにも頑丈そうな入り口の扉を二度叩いた。しばらく待っていてもだれも出て来なかったので、もう一度扉を叩こうと叩き金に手を伸ばしかけたところで、おもむろに扉が内側に開いた。出て来た輔祭に名前と用件を告げると、彼は、快く私を聖堂のなかに入れてくれた。私は、胸の前で十字を切り、一礼してから聖堂内に足を踏み入れた。冷やりとした空気が漂っている。おそらく、あの分厚い外壁が、内部にまで太陽熱を浸透させないためだろう。私は、輔祭の後ろに付き従って行った。聖堂の大広間から外来者接待室の前を横切って、通廊に出ると、そこにいくつか並んだ巡礼者用居室のうち、一番手前の部屋に案内された。どの部屋もなかの様子は同じであろうが、そこには、窓辺に、木でできた小さなテーブルと、その傍らに、飾り気のまったくない粗末な寝台がひとつあるきりであった。しかし、修道士である私たちには、それだけで十分なのである。すでに窓の穿ちには夜の闇が嵌め込まれていた。
 輔祭は、手元の蝋燭を傾けて、テーブルの上に置かれた燭に火を注ぎ、それに火屋を被せると、私の来訪を修道院長に知らせるために部屋から出ていった。
 まずは、足の裏を休めようと、寝台の端に腰掛けて、サンダルの革紐を緩めていると、歳若い見習い僧が、足だらいを持って、部屋に入って来た。どうやら彼は、私の足を洗いに来たらしい。ここでは、それも修行のひとつなのかもしれない。サンダルを脱いで、私は裾をまくった。彼は、私の足下にかがんで、足を入れたたらいに水を注いでいった。冷たい水に浸されて、まるで墨が水に溶けるように足の痛みが水のなかに速やかに拡散していった。
「さぞ、お疲れになったでしょう。膨脛の筋肉がずいぶんと脹れています」
 彼は、脹脛から踝にかけて、ていねいに汚れを落としてくれる。
「踝のところに腫れものがありますね」
「虫にかまれたのだよ」
 私は自分の左足の外踝に目を落とした。そこは、親指の先ぐらいの大きさに膨らんでいたが、いまではもう、痛みはなかった。昼間、パンゲオン山のふもとで噛まれたばかりなのに、すでにその傷の痛みは、瘡蓋になりかけたときの痛痒感のようなものに変わっていた。
「右足の踝にも傷があるんですね」
 彼は手を止めて、そう言って顔を上げた。
「とても古い傷だ」
 古傷に触れられた煩わしさに、私は、私の顔の表にわざと苛立たしさを出して、普段になく乱暴に、言葉を短く切って、そう言い放った。彼は目を伏せて、自分のするべき仕事に戻った。一方、私は、私の振る舞いを恥じた。いや、恥じなければいけないと思ったのである。たとえ一瞬であっても、私がわざと顔に出して見せた怒りは、精神の完全な平静や静寂とかいったものとは遥かに遠いところにある、歪んだ、醜い感情に由来するものであるのだから。修道士として、まだまだ、私が未熟であるということだろう。悟りの境地に到達するためには、極めて長い道のりを要すると言われているが、私に、その道を極め尽くすことができるだろうか。
「あとで塗り薬を持ってまいりましょう」
 見習い僧は足だらいを退けて、私の濡れた足を布切れで拭うと、足下に揃えて置いてくれていたサンダルをとって、その革紐までも結んでくれた。私が礼を言うと、彼は、立ち上がりざま、自分の濡れた手を拭って、それが現在、自分のなすべきことであると答えた。私は、足だらいを持って部屋を出て行こうとする彼に声をかけて、たとえ僅かな時間でも引き止めて話をすることによって、さきほど私が彼に与えた印象を改めてみたいと思った。
「夜は涼しくて過ごしやすいね」
 彼は、足だらいと水袋を下に置いた。
「北風のせいですよ、夕方になると、このヘラスには、北から冷たい風が吹いて来るのです。九月に入ってからは、薄着などしていますと肌寒く感じられるほどです」
 彼は、そう言って、鼻をひと啜りした。
「風邪でも引いているのかな」
「いえ」
「しかし、声も嗄れ気味なんじゃないかな」
「いいえ、この声は元からなんですよ」
「そうかい、だけど、夜になってこんなに涼しいと、ちょっと油断しただけでも風邪を引いてしまうだろうね」
「ええ、本当に」
 覗き窓に人影がよぎると、扉が開かれた。
「師父」
 私は立ち上がり、ゲオルギオス・パパドプロス修道院長のところに駆け寄って、そのふくよかな両頬に接吻した。
「私の方からお伺いしましたのに」
「まあ、よいて、わしの方から来たぞ。ミハイール・グリゴーリェヴィチ神父よ、ふむ、すっかり修道士らしくなりおって」
「そう言っていただけて光栄です、師父」
「わしの方こそ、そう師父、師父と呼ばれては、耳がこそぼったいて、何しろ、おまえの師父は、いまでは、わしではないのだからな」
 見習い僧が修道院長に頭を下げて部屋から出て行った。
「それでは、どうお呼びすればよろしいのでしょう」
 ゲオルギオス修道院長は、私の問いかけに一瞬のあいだも躊躇なさることなく、即座に答えられた。常に迅速に決断なさる方であった。また、決断なさってから実行に移される際の手際のよさと、その行動力には、キエフの修道院にいた、だれもがかなわなかった。ときには、強引なこともなさったらしい。しかし、だからこそ、ヘラスに戻られて、ここで、こうして修道院長にもなられたのだろう。人望だけで選出されるものではないのである、修道院長という役職は。
「まあ、師父でよかろう、わしもおまえにそう呼ばれると、キエフでのことが思い出される。懐かしいものじゃ、過ぎし日のロシアも。おお、そうじゃ、それはそうと、輔祭のテオ・バシリコス神父から聞いたのじゃが、おまえがここに立ち寄ったのは、アトスに入山するためだとか」
「ええ、そうです。許可していただけますか、師父」
 アトス入山には、ヘラスの主教の許可が必要なのである。聖アンフィソス修道院の主聖堂には、アンフィポリスの主教座がある。つまり、師父は、聖アンフィソス修道院長であり、かつまた、マケドニアの主教のひとりでもあるということである。
「請願書には、キエフで印を押してもらっておるのじゃろう」
 私は首肯いた。師父は、さらに笑みの皺を増して私に微笑まれた。
「では、許可できない理由は何もないわけじゃな」
「ありがとうございます、師父」
 私は十字を切って、師父の足下にぬかずかんばかりにしてしゃがみ込むと、履きものの上から、その足に唇を軽く圧しつけた。埃に混じって細かな砂粒が舌先に感じられた。どんなときにも、接吻のあとには、舌を出す癖がある。下を向いていたので、師父には見えなかったであろう。キエフ時代は、よくこのことで叱られたものである。
「ところで、いつここを出発するつもりかね」
 師父は手をとって私を立たせられた。
「できましたら明日にでも、アトスに向かって出発したいと思っております」
「えらく急じゃな、まあ、しかし、一度口にした言葉は、二度と覆すことのなかったおまえのことじゃ、明日の朝には、おまえにそれを渡せるようにしておいてやろう」
 円柱形の側面にワニスを塗った蝋燭が、一ベルショークほども短くなるあいだ、キエフの修道院での思い出話や、私の旅の話など、話の種はなかなか尽きなかった。
「ところで、ヘラスでは、ここの他にどこか寺院にでも寄ってみたかね」
「ええ、パンゲオン山のふもとで、廃墟となった寺院に立ち寄りました」
 師父の顔から笑みが消えた。
「何か変わったことはなかったかね」
「はい、そこで私は、ひとりの侏儒に出会いました。ひとの背の半分ほどの大きさの小人に」
 師父が窓辺に背を向けて立った。机の上の蝋燭の光が遮られたために、部屋のなかがぐっと暗くなった。
「詳しく話してごらん」
 師父の影は微塵も動かなかった。
 まるで息をすることさえやめてしまったかのように・・・・・・



三 毒葡萄

  彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から出たもの、
  またゴモラの野から出たもの、
  そのぶどうは毒ぶどう、
  そのふさは苦い。
  そのぶどう酒はへびの毒のよう、
  まむしの恐ろしい毒のようである。
   (申命記三二・三二−三三)

 東西に並んだ二条の山脈、ピリン山脈とオグラゾデン山脈のふたつの山脈に挟まれた渓谷には、急峻な山々の峡谷からすべての細流を撚り合わせてストルーマ河が流れていた。その渓流はオグラゾデン山脈の南端麓で半円を描きつつふた股に分かれている。西の本流は、木賊色の水を湛えたブトコブー湖で尽き、そこで新生したストリモン河がなおも南に峰を連ねるピリン山脈の裾野を縦割りに流れている。一方、円弧の半ば辺りで背を向け、利鎌状に湾曲していく東の分流は、その中流で、ピリン山脈の切れ込みから流れてくる川と合わさり、また、ストリモン河から分岐した支流とも合わさって水嵩を増し、さらにその下流で、ストリモン河本流と合流していた。そして、それは、その最下流で、パンゲオン山の覆輪を廻りくる河骨と結ばれていた。 
 修道士ミハイール・グリゴーリェヴィチ・ソポクレートフは、この最後の結ぼれに立ち、しばらくのあいだ目を凝らして、パンゲオン山のふもとを見つめていた。緑布が敷かれた平原にあって、そこだけは白く染め抜かれたかのように、砂と石塊のほかには何もない乾燥し切った地面が、まるで癩病に冒されたものの身の皮にできた白い腫れもののように盛り上がり、ところどころ生きた生肉のような赤い土塊を覗かせている。その背後に聳える山々には、オリーブの樹木のごく僅かな緑がまばらにあったが、大方のところは、ふもとと同じように、石灰岩質の白い地肌を地の表に剥き出しにしていた。草は枯れに枯れ、岩の上、砂の上、道の上に、まるで蛇の抜け殻のように、枯れ萎んだ身をいくつもいくつもへばりつかせていた。夏枯れ知らずの灌木も、一木いち木が斑紋状に散らばって、僅かに枯れ残った緑の葉を、まるで湯に浸けられた鶏のように、羽毛という羽毛が抜け落ちた鶏の身さながら、枝の節々を奇妙に捩じ曲げ、天に向かって枯れ萎んだ腕を拡げていた。そこは、人家も何もない、まったく不毛な土地であった。しかし、だからこそ、彼の目を惹いたものがあった。神に呪われたもひとしいそんなところに、神を祈るひとびとの家があったのである。藍色の丸屋根、ギリシア十字架を戴いた鐘楼、彼の足が好奇心に動かされた。
 それは、数百サジェーニほど先の小高い丘の上にあった。

  いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、
  その石がきはくずれていた。
  (箴言二四・三一)

 彼は寺院の目の前まで来た。壁面の塗料は粗方剥がれ落ち、積み石本来の卵殻色の地肌が露出している。彼は鐘楼を見上げた。虚ろな窓に空が透けて見える。そこには鐘の姿がなかった。
 十字を切って教会堂に足を踏み入れると、彼は、翼廊の北出入り口に立って内部を見回した。それは、長軸の身廊に短軸の翼廊が直交した、いわゆるバシリカ式の教会堂であった。頭上の天蓋を廻る数多くの小窓、その小窓から射し込むいく筋もの陽の光、その陽の光の帯のなか、大理石模様にゆっくりと立ち昇る塵と埃、そして、その塵と埃の舞うなか、形を崩した吊り燭台が、床面の上に落ちたままの姿を晒していた。彼は思わず溜め息をもらした。彼は内陣に目を移した。祭壇は前倒しにされ、破れた背を見せている。説教壇や聖書台も、それらが本来あるべきところになければ、まともなときの姿など想像できないほどに壊されていた。後陣の背面には掲げてあったはずの聖像画がひとつもなかった。聖なる衝立ともども、どこか別の場所に持ち去られたのだろう、彼にはそうとしか考えられなかった。    
 彼は、床面の上に骸を曝した吊り燭台を、蜘蛛の巣に飾られた照明器具の残骸を、足で踏まないように注意深く廻って、内陣の階段に足を掛けた。にもかかわらず、足下の埃を舞い上がらせずに聖所内を歩くことは不可能であった。彼は床面に目を落とした。足跡がある。裸足の足跡がいくつもある。同じ大きさの裸足の足跡がいくつもある。埃を被って消えかけたものなら身廊のところにもあった。だが、ここにあるのは、足跡に足跡を重ねた真新しいものばかり。しかも、そのどれもがみな、子供のもののように小さかった。子供が遊び場にでもしているのだろうか。それにしても、裸足であるというのが、彼には解せなかった。
 音がした。翼廊の方だった。彼は内陣を駆け降りた。翼廊の南側、子供が出て行く。身体には、ほとんど何も着けていなかった。腰に小さな布切れのようなものを着けているだけだった。彼は声を掛けようとした。すると、言葉が口から出る前に、それが振り返った。彼は息を呑んで立ち止まった。それは小人だった。それは、侏儒と呼ばれる畸形だった。それは、まるで白痴のようにだらしなく口を開き、目をいっぱいに見開いて彼の顔を見つめ返した。彼は一歩前に進み出た。すると、それは信じられないほどの俊敏さをもって、丘の上を駆け登っていった。見る間に、その姿は林のなかに消えてゆく。  
 彼は追いかけるのをあきらめた。あまりのすばしっこさに、彼は、ただ呆気にとられて立ち尽くすことしかできなかったのである。
 緑、目の前に緑があった。匍匐性の植物なのか、草丈はせいぜい彼の腰の辺りまでしかなかった。しかし、よく見ると、それには、無数の丸い葉と螺旋に巻いた枝蔓があり、大小さまざまの葡萄がぶら下がっていた。房なりの黒い実。どの葡萄も、十分に成熟した真っ黒な実をつけている。彼は腰を屈めて、ひと房もいでみた。うっすらと蝋状の白い粉を吹いた葡萄の実。喉の渇きを癒すため、彼は、房からひと粒だけもぎとって口のなかに入れてみた。噛んだ途端に、強烈な苦味が口のなかに拡がった。吐き出した。彼はそれを吐き出した。苦い唾を何度も吐き出した。そのたびに唾が、乾いた地面に吸い込まれてゆく。彼は何度も唾を吐き出した。しかし、それでも苦味は、彼の口のなかにしつこく残った。
 と、突然、彼は足下に激しい痛みを感じて跳び退いた。咬みつかれたのである、蝗に似た、黒みがかった焦げ茶色の昆虫に。彼は慌てて、それを引き剥がした。肉が食い破られて、そこから外踝を伝わって血が流れ落ちてゆく。足首の上を、真っ赤な血が流れ落ちてゆく。彼は、自分の血の温かさを感じた。彼は敵を裏返してみた。まさに咬み食らう蝗、それには虎鋏のような歯があった。しかも、その顎のなかには、もうひとつ顎があって、それにもまた、先の鋭く尖った、牙のような歯があったのである。彼は気味が悪くなって、それを葡萄の茂みのなかに放り投げた。

 私が話し終えても、しばらくのあいだ、師父の影は動かなかった。しばしの沈黙、その沈黙はカピトゥルムのそれのように、部屋のなかに陰欝な空気を満たしてゆく。堪え切れずに、私の方から口を開いた。
「師父、どうかなされましたか」
「あれは死ぬべきものじゃ、胎から出てすぐに死ぬべきものなのじゃ。ひとから生まれはするが、ひとではないものじゃ」
 影の声は、どこかこの世とは遠いところ、地の底をも越える深いところから響いてくるようであった。影が移動すると、部屋のなかが明るくなった。蝋燭の揺らめく光のなかに師父の姿が浮かび上がる。窓枠に背凭たれながら、師父は私に語りかけた。夜の闇に重なる声、師父の声に燭の光が揺らめき揺らめく。
「その昔、人類が科学文明に依存して生活していたことは知っておるな、それが主を蔑ろにする元凶となり、ひいては、主の怒りをかうことに、全能なる主の呪いを被ることになったことを。ひとびとがみな、主の呪いに撃たれ、世界じゅうの大都市が壊滅し滅びの穴となったことを。それはみな、科学文明が元凶となって引き起こしたことなのじゃ。そして、侏儒が生まれたのだ。呪いの裔たる畸形の侏儒が生まれたのだ。このヘラスに」
 師父の顔がひどく歪んでいた。キエフ時代にも、喋べっているうちに、だんだんと興奮なさってこられることはよくあったが、このように唾を飛ばして話されることなど以前にはなかった。
「どうして侏儒が死ぬべきものだとおっしゃるのですか、ひとはみな、いつかは死ぬべき定めにあるものだと」
「そんなことをおまえに教わろうとは思わなかったぞ、主が創造されたものがみな、はかない息にしかすぎないなどと」
 私の言葉が途中で遮られた。師父の激しい剣幕に、私の身が凍りついた。かって、神学校時代に私を叱りつけられたときのように、師父が私の顔を睨みつけられた。当時のように、私はただ押し黙って耳を傾けることしかできなかった。
「まあ、よい。どうやら、わしも説明不足のところがあったようじゃ。ちゃんと話してやらねばなるまい。そうじゃ、初めから話してやろう。およそ三百年ほども昔、主の怒りの鉢から呪いの酒が大都市の上に傾けられたとき、その飛沫が周辺の都市に、村里に、牧地に、ありとあらゆるところに降りかかったのじゃ。そして、降りかかったところはすべて、永遠なる不毛の地となってしまったのじゃ。ただし、そういった呪いの地のなかで、どういった理由でかは分からんのじゃが、パンゲオン山のふもとにだけ緑がよみがえったのじゃ。それを見た当時のひとびとは、呪いが解かれたのかと思って、たいそう喜んだという。じゃが、その緑こそが実は、神の大きな怒りの鉢、呪いの酒じゃった。その緑とは、おまえが目にした葡萄じゃ。それは、おまえも口にして味わったように、その実は渋味と苦味で食えたものではなかったのじゃが、それまで知られていたどの葡萄のものよりも口を潤す、こころを潤す酒となったのじゃ。当時はだれも、それが神の呪いの葡萄酒であるとは思いもよらなかったことじゃろう。牧するものも牧されるものも、人類という人類が滅びの穴の崖っぷちに立たされていたのじゃ、道端の雑草でさえ口にしたという当時のことじゃ、飢えた腹に、飢えた身体にその葡萄酒はさぞかし染み入ったことじゃろう。そして、主の呪いが、一年も経たないうちに女という女の身体のなかに実を結んだのじゃ。まだ清めの儀式さえも済ましておらぬ娘が、とっくの昔に胎を閉ざした老女が、その葡萄酒を口にした女という女がみな、畸形の侏儒をはらんだのじゃ、呪われた子を、忌むべきものを。小人である侏儒どもは何も悪さはせん。ただ、主なる神の忌み嫌われる格好をしておるだけじゃ。じゃが、ここヘラスは、古代において、異教の神々が根強く崇拝されていたところじゃ、ひとびとは、その侏儒を古代の神々に生け贄とすることにしたのじゃ。もともとが、いにしえの昔に、傴僂や小人といった畸形を、まるで犠牲獣のように、生きたまま皮を剥ぎ、骨を断ち、火に焼べて異教の神々への供物として捧げていた民じゃ。古代の神々が復活するのにそれほど多くの時間を必要としなかったろう。当時、教会を再建することに全力を傾けていた正教会には、そういった異教の神々の復活を阻止する余力がなかったのじゃ。ひとびとはその時代を黙示録時代と呼ぶが、われらは単に暗黒時代と呼んでおる、正確に言うと、黙示録時代はまだ続いておるというのがわれらの解釈なのじゃからな」
 一気に喋べられて疲れられたのだろう、肩で息をされている。
「そのような話は聞いたことがありません」
「そうじゃろうて、いまではここヘラスでさえ、ひとの口にのぼることなどめったにないことじゃ。というのも、それらの呪われた子らはみな、自分を産んだ母親もろとも滅びの穴に投げ込まれたのじゃから。放り投げられた石が、穴の底に達するまでに一日といち夜かかるという、あの滅びの穴に、あの暗黒の滅びの穴に。確かに、それは悲惨な出来事ではあった。じゃが、それは、どうしてもなされなければならなかったことなのじゃ」
「葡萄はどうなされたのですか」
「もちろんのこと、すべて焼き払われたのじゃ。それらの茎は最後の一本までも引き抜かれ、焼き払われ、それらの根は地から完全に絶ち滅ぼされたのじゃ。ところが、その毒葡萄の種は、火のなかをくぐり抜けたあともなお角ぐみ、しばらくして、またその呪われた実を結んだのじゃ。そして、ふたたび神に呪われた子らが地の表にはびこることになったのじゃ。じゃが、二度目のときの正教側の退治法は完璧じゃった。焼けて灰になったものも、焼け切らずに燃えさしとなったものも、それらの毒葡萄はみな枝蔓から茎から根っこから落ち葉にいたるまですべて甕のなかに封印し、塩の地に埋めていったのじゃ。以来、ヘラスには、その毒葡萄も、侏儒も姿を現わすことがなかったのじゃ。その記録はヘラスでも、この聖アンフィソス修道院にしか保管されてはおらん。三百年という歳月が、ひとびとの頭のなかから侏儒の姿を消し去ったのじゃ。まあ、わしらの努力もあったがな。じゃが、いまのおまえの話では、どうやらその呪われた毒葡萄がよみがえったようじゃな、あの忌むべきもの、呪われた子らとともに」
「しかし、お話によると、それらは、かつて私たち正教の神父たちの手によって完膚なきまでに絶ち滅ぼされたのではなかったのですか」
「ふむ、わしもそれをいま考えておるのじゃよ。当時の種が絶ち滅ぼされたのは確かなのじゃ。もしも、種が残っておったとすれば、その繁殖の仕方を文献から推測するに、三百年もあれば、たった一本の木からいま頃、ヘラスじゅう、野は神に呪われた毒葡萄だらけとなっておったはずじゃからな。しかるに、そういった事態にいたらなかった、ということは・・・・・・もしかしたら、だれかが記録を盗み読んで、封印を解き甕のなかの残渣をパンゲオン山の裏手で隠し育てていたのかもしれん。そんなことはありえんことじゃが・・・・・・」
 師父の語調が少し和らいだ。
「ところで、おまえが口にしたという毒葡萄のことじゃが」
 私は透かさず答えた。
「すぐに吐き出しました」
「嚥み下してはいないのじゃな」
「ええ、舌の上に残った苦味さえ飲み下すことはしませんでした。その苦味がなくなるまで何度も何度も唾を吐き出さなければならなかったのです」
 心配してくださったのであろう、私がそう返事すると、安心なされたのか、師父の語調がぐっと和らいで聞こえた。
「それと、踝の傷のことじゃが」
 私は裾をまくって、虫に咬まれたところが見えるようにした。
「大丈夫だと思います」
 師父は屈んで、傷痕を見てくださった。
「あとで薬を持って来させよう。塗っておきなさい。毒虫かもしれん。おまえの説明にあったその毒虫の特徴は、文献に載っていたものに酷似しておる」
「あの虫は毒虫だったのですか」
「その可能性は非常に高い。文献によると、大した毒じゃないらしいが、用心に越したことはなかろう」
 師父は、まだ何か言い足りなさそうな顔をしておられたが、突然、気を取り直したかのような顔を向けられると、キエフでの神学校時代のように、
「では、また明朝に。たとえどんなに疲れていようとも、就寝の祈祷を欠かせることなどなきように」
 と言われた。私もまた、当時、口癖になっていた言葉を口にした。
「よくこころえております、師父」
 師父が部屋から出て行かれた。
 火屋を被せた質の悪い蝋燭が、弱々しい光を瞬かせていた。



四 罅割れ

  なぜ、あのとき、自分が
  裏切りを働いていると気づかなかったのだろうか。
  (ル=グィン『魂の中のスターリン』小池美佐子訳、著者改行)

 窓の掛け金に手をかけた。夜とも切り離されて、部屋のなかにひとり、私は蝋燭の揺らめく灯りを見つめた。
 ふくらんでは縮み、ちぢんでは膨らむ光の輪、部屋も息をしているかのようだ。
 私は、溜め息をつくと、寝台に腰掛け、傍らのテーブルに両拳を載せた。知らず知らずのうちに溜め息が次から次に出てくる。師父が部屋を出て行かれて、張り詰めていた気が急に抜けたためだろうか。師父は厳しいひとだった。信仰にだけではなく、普段の生活態度全般に渡って厳格な躾をなさるひとだった。ゲオルギオス・パパドプロス修道院長は、私がキエフの聖アントニオス修道院付属神学校の学生であったときの直接指導教師であった。つまり、学校においては、私の師父のような立場におられた方なのである。しかも、私は、神学校を出てからも師父の下で学びながら、師父の教えに導かれて、修道士としての修行を続けていたのである。六年前にヘラスに帰郷されるまで、ずっと私の面倒をみていただいた方なのである。その師父を前にして、私は緊張せざるをえなかった。師父に話しかけるときにはついつい上がり調子の声になってしまう。さっきもまた、私の声はうわずっていた。師父のふくよかな顔にあって、唯一目だけが険しい光を放っていた。その目に見つめられると私は、どんなに小さな嘘でさえ口にすることができなかったのである。しかし、それほど恐れていたひとであったのに、私は、師父を騙したことがある。私は、私の偽りの舌でもって、師父を裏切ったことがあるのだ。それは、父が亡くなったという知らせが、神学校にいた私のところに届いたときのことであった。私は、まだ神学校の学生で、三度目の行を始めるために、準備訓練をしていたときのことである。私はそれを口実に実家に帰ろうとしなかった。私の故郷ルブヌイはキエフからずいぶん遠かったし、帰る頃には葬儀も何もかもすっかり終っているだろうと思っていたのである。いや、いや、いや、自分自身に偽るのはやめよう。父、父、父、私は私の父を憎んでいたのだから。私は私を殴り、私の左耳を潰して、私の左手の指を潰した父をこころの底から憎んでいたのである。だれかと話しているときに、相手の言葉が聞き取れないということがあるたびに、ひしゃげた耳を鏡のなかに見るたびに、曲がったまま動かない二本の指が服の袖に引っ掛かるたびに、私は私の胸のなかに父への憎悪を、まるで酒樽の底の澱のように凝り固まらせていたのである。また、弟のことがあった。私が死なせた、弟のことが。そんな私が、どうして継母のもとに帰れただろうか。ところが、そのような事情を知っておられた師父は、頑なに凝り固まった私のこころを解こうとして苦心してくださったのである。そうして、私も、知らせを聞いた日の翌々日には帰ることにし、継母の待つルブヌイに向けてキエフを出発したのである。ところが、いったんは帰る決心をしたものの、臆病な私は、最終的にはルブヌイには行かず、帰路の途中に立ち寄った村の農家で野良仕事を手伝いながら半月ほど過ごしたあと、キエフに戻ったのである。師父には故郷に帰って、父の顔を、死に化粧をした父の真っ白な顔を見てきたと話した。そのとき私は、いったいどんな顔をして師父の前に立ったのだろう。師父に嘘をつきながら、どんな表情を見せていたのだろうか。師父のあの刺すような視線を受けて、私は、しっかりとその目を見つめ返すことができただろうか。ただ、私が覚えていることは、あのとき、師父の視線が、その視線の矢の痛みが、私の目を通して私の身体を、頭の天辺から足の爪先まで、貫いていったということだけである。それは、私にとって長い時間だった。もしかしたら、師父は、見つめられてすぐに目を逸らした私を見られたかもしれない。いや、それだけではないだろう。おそらく、私の偽りの舌が、欺きの口のなかに震えるのをさえ目にされたに違いない。きっと、師父は、私の言葉のなかに嘘があるのを知っておられたのであろう。なぜ、私を問い詰められなかったのかは分からないが、それだけに、私にとって、師父は不可解な、恐ろしい存在であった。あのとき私は若かった。気の弱さがそのまま顔の表に出る歳頃だったのだ。きっと師父は知っておられたに違いない。
 昔のことを思い出すのはつらい。私は蝋燭の灯りを見つめた。いまにも灯芯が燃え尽きかけようとしている。火屋のガラス筒の上方にある罅割れが、部屋の隅に大きな影を映し出している。蝋燭が息をするたびに、影もその輪郭を頻繁に拡げたり縮めたりしながら激しく息をしていた。ああ、しかし、いまとなっては、父のことも、弟のことも、継母のことも・・・・・・

  ・・・・今ではすべてが空しいのだ。
  わたしはランプの灯影に眠らう、
  机の上にのせた拳に額をのせて、
  それ以外には聲を聞かぬ人だけが聽く
  不斷の私語にゆられながら。
    (フランシス・ジャム『去年のものが・・・・・・』堀口大學訳)

 ルブヌイの夏は過ごしやすい。灼熱を孕んだ陽光も、日陰にさえ入ってしまえば、どうということもない。吹き出た汗も風のひと吹きで静まってしまう。何といってもルブヌイは、中央ロシア高地とカルパチア山脈に挟まれた平野にあるために、地をなめるようにして吹き荒ぶ北風が冷たい空気を運んでくるのである。夜ともなれば、気温が信じられないぐらいにぐっと下がる。場合によっては、夏の季節に、ペチカに柏の薪を詰め、木炭に火を点けることにもなるのである。
「ミーシャとヴァーニャはまだ帰らないのかい」
 アンナ・パーヴラヴナ・ソポクレートヴァは、声のする方を振り返った。納戸の薄暗がり、床よりも天井に近い、ペチカと内壁のあいだに渡された一枚の寝板の上から、姑が陰気な顔を覗かせている。
「まだですよ、夜飼いに出てるんですからね、そんなに早く帰ってくるわけがないでしょ」    
 老女は、そう言われても、まだ不安気な顔でアンナを見下ろした。
「そうかい、でも、この夏はえらい冷え込み方で、牧には草なんかちっとも生えてないっていうじゃないかい。何かあったんじゃ」
 アンナは、自分と同じ名前を持った姑の言葉を、こともなげに遮った。
「だから、遅くなるんですよ。まだ、日が暮れてそんなにならないでしょう、心配することなんかありませんよ。それに、あの子たちだって、もう一二と八つなんですからね」
 年寄りのアンナは、まだ何か言い足りなさそうにして、歳若いアンナを見下ろしていたが、彼女が睨み返しているのに気がついて、納戸の奥に慌てて身を滑らせた。かつては姑に頭の上がらなかったアンナも、姑がその連れ合いを亡くしてしまってからは、ずいぶんと強気になっていた。その逆に、すっかり弱気になっていた姑の方は、ともすれば言いたいことの半分すらも嫁のアンナに口出しすることができなくなっていた。いまも、年老いたアンナは、納戸の薄暗がりのなかで、声を上げることすらできずに、悔しさに涙を流していたのである。アンナは立ち上がってペチカに火を点け、部屋の中央にルチーナを持ってきた。松明の火とペチカの火が弾けた音を立てながら燃えている。アンナはテーブルのところに戻って、やりかけの刺繍を取り上げた。アンナは、夫のルパーシカの縫い取りを終えた。彼女は、それを松明の灯に照らしてみた。覆輪に施した青い薔薇が美しかった。それに使った縒り糸は、これまでに彼女が作ってきたもののなかでもっとも出来のいいものであった。アンナはそれを青く染めた。染め上がりは、また、彼女の予想以上に素晴らしいものであった。アンナは、モルフォ蝶のような光沢を持ったその刺繍の上に指を這わした。働きもののアンナの荒れた指先が固くなって久しい。その指の腹が青い花の上を滑る。現実には存在しない青い薔薇に、現実の塊のようなアンナの節くれだった指が触れる。アンナは、陶酔したような表情で、何度も何度も繰り返し親指の腹で縫い取りの上を撫でていた。
 ルチーナが大きな音を立てて燃え弾けた。青い薔薇に見蕩れていたアンナは、それをテーブルの上に置き、三つの小さな四角い窓がある方に目をやった。夜の闇のほかには何もなかった。彼女は振り向いて、ペチカの横に目をやった。イヴァーンとミハイールがいない。まだ帰らないのである。こんなに遅くなることはなかった。寝床では、ペチカの影が微かに震えている。アンナは、ふたりが帰ってきたら、思いっきりお仕置きしてやろうと思った。それにしても遅かった。姑の言うことには何でも反発して、さっきもあんなことを言っていたアンナではあったが、いまでは自分も心配になっていた。夫もまだ帰らない。沈黙と静寂のなか、松明の燃え弾ける音が、アンナにはしだいに耳障りになってきた。アンナはルチーナの灯を睨みつけた。睨みつけられた松明は、苛立つアンナの気持ちにはお構いなしに、バチバチと燃え弾けている。
 声がする。彼女は玄関のところに走り寄っていった。
 イズバの外では、グリゴーリィ・セルゲーエヴィチ・ソポクレートフが妻の実弟のヴァシーリィ・パーヴロヴイチ・アクショーノフに肩をかしてもらいながら一歩一歩戸口の階段を上っていくところであった。
「ほれ、義兄さん、足下に気いつけて」
 玄関まで僅か六段の階段である。
「分かってるってさ」
 口ではそんなことを言っていても、しこたま呑んで酔っ払っているグリゴーリィは最上段の蹴込みにつまずいた。
「いててててっ」
「ほれ、言わんこっちゃなかろう」
「いてえ、いてい」
 グリゴーリィは、義弟の肩に掴まりながら、空いた方の手で向脛をズボンの上からさすった。張り上げる声を聞きつけて、家のなかからアンナが出てきた。
「あんた、また酔ってからに」
「うるさい」
 グリゴーリィは、自分を抱きかかえようとするアンナの腕を振り払った。アンナは拡げた両の腕を下げないで、そのまま腰のところに持っていくと、さらに額に皺を寄せて、
「なんで寄り合いのたんびに酔っ払って帰ってくんだい、いいかげんにおしよ」
 と、喚くように言葉を夫にぶつけた。グリゴーリィは、いままで支えてくれていた義弟の肩から腕を振り解くと、
「寄り合いは男だけのもんだ、女が口出しなんかするなあ」
 と、怒鳴ると、身体の平衡を保てなくなって、玄関口の横の壁に寄りかかった。ヴァシーリィは両手を拡げたまま、グリゴーリィが倒れたりしないだろうかと心配しながら、義兄の側にまだ立っている。アンナはそれを見て、夫に近寄ると長身の彼を横から抱きかかえて実弟に礼をいった。
「いつもすまないねえ、おまえ」
「いいんだよ、姉さん。そいじゃ」
 別れを告げて手を振る実弟を見送ると、アンナは夫と家のなかに入っていった。部屋のなかに入ると、アンナはまず、赤い隅と呼ばれる聖像画が置かれた神棚に頭を下げ、次いで納戸のある方を見上げた。姑は眠っているのか、顔を覗かせない。
「あんた、ヴァーニャとミーシャがまだ帰って来ないんだよ」
 テーブルに両肘を載せ、それに額を圧しつけて俯せになっていたグリゴーリィが、頭を揺らしながらゆっくりと顔を上げた。そして、ひと瞬き、ふた瞬きほどのあいだ、アンナが口にした言葉の意味を考えていたが、急に吐き気でも催したのか、顔をしかめ、涙を溜めた目でアンナを見つめた。
「どうしたんだあ、とっくに帰って寝ちまってる時間じゃないのか」
 アンナは立ったまま、夫を見下ろしながら言った。
「あたしゃ、何だか心配だよ。ミーシャは、あんたに似てあのとおりぼやっとしてるしねえ、それに、ヴァーニャはまだ小さいしね」
「おまえが心配なのはヴァーニャだけだろ」
 アンナは夫の顔を上から睨みつけた。グリゴーリィは妻の顔から目を逸らすと、部屋の隅にある神棚に向かってこくりと頭を下げて囁くような小さな声でつぶやいた。
「神さま、ふたりとも何ごともなく無事でありますように、あなたはかならず見ておられます。あなたは、あなたの小さな子羊をつねに見守ってくださってます、神さま」
 何事かがあると、こうして神棚に置かれた聖像画に向かって祈るのが、ロシア正教徒の、つまり、ほとんどすべてのロシア人の習慣のひとつとなっているのである。アンナがさきほど部屋に入る際にしたように、正教徒たるロシア人たちは、赤い隅に頭を下げることなしには、部屋のなかに入って来ることさえなかったのである。
「捜しに行こうさ、風にあたれば、あんたの酔いもすぐに醒めちまうよ」
 ふたりは子供たちを捜しに出かけることにした。
 外は暗闇、星はなく、刈り鎌のように抉り欠けた月が、その鋭い刃先を雲に突き刺している。家々の窓、数多くの四角い目から零れ出る灯明の欠片、そのほつほつとした光だけが、夜の道に浮かんでいた。そのうち、月が姿を隠した。夜の天幕を繕ったものがいるのかもしれない。ふたりは蝋燭燈をかざしながら、その頼りない貧弱な明かりを導き手に歩くほかなかった。
 子供はいなかった。どこにもいなかった。草のある牧にも、水のある川辺にも。ふたりはいたるところ捜して歩いた。郷の中央を流れるその川は、大人でさえ渡り切れないほど、岸から岸までずいぶんとある大きな川であった。グリゴーリィとアンナのふたりは、何時間も捜し回った。風呂場として使われている小屋のなかも、橋の袂やその橋脚の陰となったところまで、ふたりは、隈なく捜し回った。また、グリゴーリィは、昔、自分が子供だった頃によく遊んだところを思い出しては、アンナの手をひいて捜し回った。ざりがに捕りをした沼や、隠れ場にしていた廃屋など、思いつくところはすべて捜した。それでも見つからなかった。
「きっと、もう帰ってるわよ」
「そうにちげえねえ」
 もうすっかりグリゴーリィの酔いは醒めていた。ふたりは歩き疲れた足を引き摺り引き摺って帰路を急いだ。しかし、蝋燭の替えなどはとっくになくなっていた。ふたりは真っ暗闇のなかを歩かなければならなかったのである。それでも何とか帰ることはできた。
 先の方に小さな明かりが見えてきた。
「あれは、おれんちのへんだろ」
 ふたりとも、急に足が軽くなったように感じた。
「きっと戻ってるわね」
「ああ、きっと戻っちまってるさあ。だけど、うんと叱ってやらねえとな」
 ふたりは玄関の階段を駆け上がった。
「おふくろ、ミーシャとヴァーニャはっ」
 ペチカの前で、祖母に抱かれるようにして、ミハイールが、毛布にくるまり、膝をかかえて震えていた。しかし、その震えは、寒さばかりのせいではなかった。部屋のなかは、暑いくらいに暖まっていたのである。イヴァーンの姿がなかった。
「ヴァーニャはどこだ、どこにいる」
 その声を聞くと、ミハイールは身体をひくつかせて泣き始めた。グリゴーリィの後ろから妻のアンナが顔を出した。
「ヴァーニャはどこなの」
 祖母は孫を庇って、その枯れ皺んだ細い腕でミハイールを抱きながら言った。
「おぼれたんじゃと、牛に水をやっているときに溺れたんじゃと。あれは子牛じゃったが、力はすごいもんじゃろ。急に暴れだした子牛に振り回されて、ふたりは川に落っこっちまったんじゃと」
「そいじゃあ、ヴァーニャは溺れちまったってことけえ」
「そんなっ」
 と、アンナはすっとんきょうな声を上げると、夫を押し退けて、ミハイールのところに駆け寄った。
「ヴァーニャはっ、ヴァニューシカはどうしたんだいっ」
 アンナは、震えるミハイールの肩から毛布を剥ぎ取って、その小さな肩を前後に激しく揺さぶった。
「さがしたよ、さがしたよ、さがしても見つからなかったんだよう、ずっとずっとさがしたんだよう」
 子供は泣きじゃくりながら訴えた。
「あんたっ、ヴァニューシカはどうしちまったんだろ」
 アンナは振り返って夫の顔を見た。
「おまえはいつ戻ってきたんだっ」
 姑は、嫁の手を、その食い込んだ指を、血の滲んだ孫の肩から外してやると、口を開けば震えながら、ただ歯をがちがち鳴らしているばかりのミハイールの代わって答えてやった。
「ついさっきじゃよ、納屋の戸が開く音がしてね、それで納屋を見に行ったら、この子が馬房の前で干し藁にくるまって震えておったんじゃ。わけを訊くとな、この子が・・・・・・」
 グリゴーリィの耳には、それ以上母親の声は聞こえなかった。
「おまえが溺れさせちまったんじゃな」
 そう言うと、グリゴーリィは、玄関口に立てかけてあった杖を右の手にした。それは、母親が歩行の際に使う、樫の木でできた杖であった。彼は、それを振り上げるとミハイールの頭の上に打ち下ろした。年老いたアンナが腰にすがりついて止めても、杖で撲つのをやめなかった。ミハイールは泣き叫んだ。それを聞くと、なおいっそうグリゴーリィは杖を激しく打ち下ろした。歳若いアンナは夫の形相を見て、ただ呆然として立ち尽くすことしかできなかった。懲らしめの杖は、何度も何度も打ち下ろされた。杖が折れたときには、ミハイールは気を失っていた。子供の顔は血塗れだった。肩で息をしている夫の手から、妻のアンナが樫の棒を恐る恐る取り上げた。姑はミハイールの横に坐り込み、両手で顔を覆って絞りだすような声で泣いている。
 ミハイールの顔は血塗れだった。奇妙に折れ曲がった小さな指のあいだから潰れた左耳が覗いていた。

 鳥の声。指先が触れる。潰れた耳。鳥のさえずる声。指と人差し指の腹でつまむ。潰れた左耳。鳥のさえずる声が聞こえる。耳輪の瘤の膨らみが、耳たぶに繋っている。外耳道は、肉が盛り上がって塞がっている。鳥のさえずる声が微かに聞こえる。私は目が覚めた。
 私は、目の前に、曲がったまま真直ぐに伸ばせなくなった左手の指をもってきた。撲たれたときに頭を庇った薬指と小指である。
 私は起き上がって、部屋のなかを見回した。何もかも、紫色に染まっている。かわたれ時か、そういえば、あのとき私が、気を失ってから初めて目が覚めたのも、このぐらいの時間だったろうか。ルブヌイの修道院に担ぎ込まれた私が、そこの施療院の寝台の上で初めて目を覚ましたときと同じように、壁も、掛け布も、テーブルも、そして、私のこの歪んだ指も、何もかもが濃い紫色に染まっていたのである。あのあとしばらくのあいだ、私は、だれとも口をきくことができなかった。だれが部屋のなかに入って来ても、掛け布を頭からすっぽりと被って、決して顔を見せないようにしていたのである。親が会いに来ても、私は、掛け布の下から頭を出すことなく、ただ震えてばかりいたのである。そして、いつのまにか親は、施療院に現われなくなった。修道院が使いを送っても、私の親は、私を連れ戻しに来なかった。そして、二度と私の前に現われることがなかったのである。修道院側は困っただろうが、私の方はそれを聞いて嬉しかった。こころから喜んだ。二度と家に帰りたくなかった。絶対に戻りたくなかったのである。そして、その頑なな思いを遂げるためには、私は、僧侶になるほかなかったのである。すなわち、父が、私の頭の上に振り下ろした懲らしめの杖は、私をして修道士にならしめたのである。何ということだろう・・・・・・

  そして もし悲しむこころの泉が封印されるなら、
  それをやぶらぬがよい!
  おまえが家に帰れば おまえの泉は
  涙と悔恨にあふれていようから。
  世のきびしいあらしから
  墓のかげに隠れ家を求めよ。
   (パーシー・ビッシュ・シェリー『アドネース』上田和夫訳)

 昔のことを思い出すのはやめよう。つらいだけなのだから。
 祈りの準備をするために、私は、寝台の脇に置いておいた頭陀袋のなかからヴェルヴィツアと祈祷書を取り出した。ヴェルヴィツア、これは、キエフの修道院にいたとき、師父に贈られた数珠で、紐に編んで作られたものである。起きるのが遅かったために、暁課には間にあわなかったが、その分、朝課と一時課にまたがって、こころから勤めを果たすことにした。
 私は祈祷書のページを繰っていった。



五 分時鐘

  明らかな意味と、
  隠されているといわれる意味と。
  (パスカル『パンセ』第十章、前田陽一・由木康訳、著者改行)

 鐘が鳴っている。短く切って、また、鳴らされる。なっては止み、やんでは鳴る鐘の音、分時鐘、何ごとかあったのかもしれない。死を報ずる鐘、弔鐘だろうか。耳に慣れない異郷の鐘だと、打ち方が違って、それが何を意味するのか分からないものである。しかし、何か、ただならぬことが起きたということだけは分かる。修道院のなかの廊下を小走りに駆けてゆく修道士たちの足音が聞こえるのである。私は一時課を終えたばかりであった。それまで床に膝をつけて神を祈っていた私は、立ち上がり、振り返ると、扉の覗き窓から外の廊下の様子を見た。ただならぬ空気が漂っている。何か霊感といったものに衝かれたかのように私の足が勝手に動いてゆく。出合い頭に、きのう私をこの部屋に案内してくれた輔祭の胸に軽くぶつかった。
「何かあったのですか」
 彼は一瞬のあいだ、躊躇するように目を逸らして考えるような顔をしてみせたが、
「とにかく来れば分かりますよ」
 と言って、私の手をとって急がせた。
 私たちは修道院を出ると、鐘の音がする方に向かって走り出した。大通りに出ると、町のものも鐘の音に導かれて家々から、路地路地から出て来た。みな、教会前の大広場に集まっていくようだ。駆けてゆくものもいれば、喋べりながら歩いてゆくものもいる。
 広場のひとだかり、その上には二体の骸がぶら下がっていた。私たちは、ひと波のあいだを擦り抜けて前に進み出た。それらの死体は侏儒であった。私は、横にいる輔祭の顔を見た。彼は、まるで急に馬鹿になったかのように、ただぽかんと口を開けて、風に揺れる小人たちをじっと見上げているばかりであった。
 私は彼に声をかけた。
「これらは・・・・」
 彼は、初めて私の存在に気がついたかのように、目を瞠って私の顔を見つめた。
「これらは町のものたちにサテュロスとか、パーンの裔とかと呼ばれています」
「しかし、きのうの修道院長の話では、ここ何百年間のあいだに現われることなどなかったということでしたが」
「噂はありました。羊飼いや山羊飼いたちのあいだで、また、木こりや行商人たちのあいだで、何度も見かけたという話があるのです。まあ、教会側としては、やっと調査に乗り出したところでしたが、ゲオルギオス主教の指示で、けさ未明、パンゲオン山のふもとの方に討伐隊が派遣されたのです」
 私は、その吊されたものたちのなかに、きのう私が見た小人がいるか確かめるために絞首台に近づいた。後ろ手に縛られ、裸に剥かれたその骸は、どちらもひとの背の半分ほどしかなくて、顔面だけが白粉をまぶされて真っ白になっていた。喉もとに食い込んだ絞首索が肉のあいだに埋もれて見えない。白塗りの目を閉じたふたつの顔はそっくり同じで区別がつかなかった。きのう見た侏儒がぶら下がっているのかもしれないが、私には見分けがつかなかった。さらに近づいて、じっくりとつぶさに見た。奇妙に捩れた首の上には、この世のものとは思われないほどに醜く歪んだ顔があった。目頭に血が固まっている。黒紫色に変色した短い舌を覗かせた口のなかに二条の歯列を見ることができた。歯が二列になって並んでいるのである。奇妙というより無気味なさまであった。髪の毛は、生れてから一度だって洗ったことも、櫛を入れたこともないように、脂と埃にまみれて団塊状に固まっている。目を下にやれば、生っ白い、太短い胴から、毛むくじゃらの浮腫んだ足が二本ずつ生えていた。角さえ揃えば、神話に出てくるサテュロスそのものだった。
 叫び声がした。輔祭も私も振り返った。身なりの貧しい、若い女が泣き叫んでいる。
「どうしたのですか」
「どうやら異教徒のようですね。この呪われた獣たちを、絞首台から降ろすよう願い出てきたようです。しかし、それが聞き入れられないと分かって泣き叫んでいるのでしょう」
 その女が数人の修道士に取り囲まれた。そして、立たせられると、引き摺られるようにして人々の輪の外に連れて行かれた。
「どこへ連れて行くのですか」
「教会ですよ、もちろん」
「彼女はどうなるのですか」
「それは私にも分かりません」
 輔祭は、また、目の前のオークの枯れ木に吊り下げられた、二体の忌むべきものたちに目を移した。私は、私自身の意志で輪の外に出た。
 終ったはずの夏、その夏を思い返させるほどに嗜虐的な陽の光、太陽が灼熱を懐胎した無数の鞭をそこらかしこに打ちつけていた。乾いた道に、その白い石畳の上に。
 くっきりとした濃い影が私の前を歩いている。それは、あのサテュロスのように、私の半身ほどの大きさしかなかった。
 見上げると、どこまでも青い空の端で、秘かに置き忘れられた斑入りの片雲が、瞬きの間に飛び去る蝶のように、速やかに流れ去っていった。



六 聖なる山

 ヘラス北部のカルキディキからは、細長い三つの半島が、三つ叉の肉刺しのように突き出ている。標高およそ二ベルスターほどのアトス山は、その最北東部のアクティ半島突端に聳えている。しかし、人々は、慣用的にこの半島全体を指して、アトス山、または、単にアトスと呼んでいる。というのも、ここには、中世以来の伝統ある正教寺院が数多くあり、それが特にアトス山に集中しているためである。正教圏のさまざまな国から、府主教クラスの高位聖職者が派遣されている。エルサレムと同じように、このアトスもまた、正教の聖地となっているのである。

  周囲には
  陰鬱な海面が
  風にさえ見放されて
  波も立てず
  あきらめ切ったように
  大空の下に横たわっている。
  (E・A・ポオ『海の都市』入沢康夫訳、著者改行)

 港には潮の香りがきつく匂っている。私は、師父に手配してもらっていた小さな商船に乗り込んだ。それはガフセール型の帆船で、半島付根のイェリソスまで食料品や衣類を運び、帰りにアトスの修道院で作られた聖像画や、聖書や古書の写本や、浮き彫りを施した聖具類などを積んで戻るらしい。風がない。舫いが解かれてしばらくしても、船はなかなか岸から離れようとしない。揚げられた帆が、だらしなくたるんだままだった。数十羽のペリカンが、岸辺をわがもの顔に闊歩している。風は微塵も吹かない。嘴の下に大きな袋をぶら下げて、岸辺で騒ぐ水鳥たち。飛びかけるものもいれば、不格好なさまで踊るように走るものもいる。網からこぼれた魚をついばむ水鳥たち。港の朝の風景。風はまだ吹かない。水鳥たちの鳴き声ばかりが耳につく。身を廻らせて海を見た。弾け飛ぶ陽の光。水面の上の無数の煌き。太陽の欠片が海に零れ落ちている。こぼれ落ちて蒸発しているのだ。
 それは、私の視覚を麻痺させるような輝きだった。
 船長が私の側にやって来た。
「神父さん、こんなときは待つんですよ。ただ待つのみですよ。あなたがたは、天のことなら知っていなさるが、海のことなら、私たちの方がよく知ってるんですから」
 彼は、さも自信あり気に葉巻をひと喫いした。口の端に吐き出された煙草の濃密な烟が白い口髭にいったんこもって、また、ゆっくりと顔の前を舞い上がっていった。
「どれぐらい待つことになるのでしょう」
「さあ、それは分かりませんな、風は気紛れでしてな。私たちは、ただ待つことしかできません。しかし、そんなに長い時間待つこともないでしょう」
 海洋民族の末裔は、目尻に強烈な皺を寄せて微笑んだ。すると、突然、風が身体をなぶった。私は風に吹き飛ばされそうになって、咄嗟に帽子を押えた。頭の上で音がした。水に濡れた掛け布が、力いっぱいはたかれるような音がした。
 見上げると、帆が風をはらんで大きく膨らんでいた。
「こんなもんなんですよ、神父さん」
 先が炭火のように真っ赤になった葉巻を斜交いにくわえたまま、船長は目を細めた。
 そして、船は、同磁極を向かい合わせた磁石が反発するように、するりと岸から離れると、煌き煌く永遠の輝きを切り裂いていった。



七 腫れた足

 船がアクティ半島の東北岸にあるイェリソスの港に着くと、小舟に乗ってクセルクセスの運河からシンギティコス湾側に出て、そこから海岸線に沿って半島の折れた腕の上腕部にあたるウラノポリスまで歩いた。そこで、またふたたび船に乗り、半島の中央、腕の屈曲点にあるダフニまで海から廻っていった。そして、ダフニで驢馬を借り、首府カリエスまでそれの背に跨がっていったのである。船乗りたちを別にすれば、ウラノポリスから、アトスで見かける人間たちは、みな黒衣に身を包んだ修道士ばかりであった。女人禁制のこの地には、驢馬でさえ雌はいないらしい。私が跨がるこの驢馬も雄である。
 カリエスの政庁で手続きを済ませると、パンテレイモン修道院から交代勤務に来ていたヴィサリヨーン神父が、わざわざ私をそこに案内してくれることになった。パンテレイモン修道院は、ロシア正教がアトスに持つ修道院のなかで最も大きいものであった。そこに行くには、山を越えなければならなかった。
 黄緑っぽい茂りや、深緑のこんもりとした固まり、灰色がかった緑のオリーブ園、アトス山はさまざまな緑に覆われていた。私たちはいったん、目的地近くの海岸線に出た。回り込んで行くことにしたのである。パンテレイモン修道院は、船着き場から急に引っ込んだところにある。
「ミハイール神父、顔色がよくないようですが」
 彼は私の顔を覗き込んだ。
「いいえ、ヴィサリヨーン神父、大丈夫ですよ。ただ、ほんの少し旅の疲れが出たのでしょう」
 とは言ったものの、私は、道の途中で坐り込んでしまった。ここに来て、旅の疲れが出たのかもしれない。しばらくのあいだ、私は、腫れた足を休めさせてもらうことにした。ヴィサリヨーン神父は、黙って傍らの樹の下で、涼をとって休んでくれた。しかし、いつまでも甘えてはいられない。陽が傾きかけてきたようだ。海の顔が微妙に変わってきた。やがて、ホメロスが讃えたように、アイゲウスの海は葡萄酒色に染まってゆくのだろう。
 私たちはふたたび歩き始めた。腫れた足に山道はきつかった。
 目的地に着いたときには、私の両の足は、鉄の鋲でも刺さらないほどに堅く凝り固まっていた。しかし、間近に聖堂の丸屋根を目にしたときには、いくらか足の凝りが和らいだ気がした。



八 負の光輪

 礼拝堂にあるものは、吊り燭台も、その光に照らし出された聖なる衝立も、それに架けられた夥しい数の聖像画も、みな金ずくめであった。その輝きを背にして立っておられる白髪の小柄な老人が、パンテレイモン修道院長であった。
「きみは、ゲオルギオス・パパドプロス神父の弟子だという話だが、かっては、神父が、わしの弟子だった。すると、きみはわしの孫弟子とでもいうところかな」
 ピョートル・ヴァシーリェヴィチ・セミョーノフ修道院長の両の目が私を捉えた。
「きみは、異端の詩人の作品の研究が専門らしいが、いったいどういった詩人について研究しているのか、聞かせてくれたまえ」
「サッフォー、バイロンなどといった、ヘラスゆかりの詩人たちの詩歌について研究しております」
「ここには、異端の宗教家や思想家について、たいそう詳しいものがいる。しかし、そういった異端の研究者は常に少数者だ。とりわけ、本院においては、そういった異端の研究をこころよく思わないものが多いのだ。だからもしも、きみがきみの研究を続けてゆくつもりなら、しばらくのあいだは、本院から離れて、ラブラ形式でやってもらわなければならない。そして、きみはそれを承知でここにやって来たという」
 私は首肯いた。ラブラ形式、それは、ひとりではなく、数人で行なう修行形体のことである。
「いま、ふたりの修道士が、この山の裏手にある洞穴を隠処にして修行しておる。きみはそこに加わって修行することになる」
 ピョートル修道院長は、その皺だらけの顔面に微かに笑みを浮かべられると、
「さあ、それでは、ふたりのいるところに案内しよう、私が行く。彼らの様子も見ておきたいのでな」
 と言われて、聖堂から出るように促された。
 その洞穴は、パンテレイモン修道院の裏手にある分院の横道を下り、さらに左手に分岐した小道を下ったところにあった。傍らには、水底まで透いて見えるほどに清い水を湛えた小さな泉がある。修道院長が先に洞穴のなかに入ってゆかれた。私はあとからついていった。奥行のない、天井の低い洞穴で、狭くて窮屈ではあったが、私を入れて三人の人間が居住するには十分な広さであった。
 しかし、ここにはふたりの姿がなかった。
「森のなかにでもいるのだろう」
 と言って、修道院長は蝋燭に火を灯して、粗末な机の上でペンをとられた。
「ここに事情を書いておこう。きみが、きょう、パンテレイモンにやって来たことを、これから先、きみがここに加わって修行することを」
 自分の名前を署名し終えると、ピョートル修道院長は、聖パンを置くパテナに似た金属製の小さな丸皿の下にそれをかませられた。
「私はどうしていたらよいのでしょう」
「ここで待っておればよろしい、そのうちにふたりとも戻って来るだろうて。さて、それにしても、きみはずいぶんと疲れた顔をしているな、ここで少し横になって休めばよかろう」
 そう言い残して、修道院長は立ち去られた。
 私は寝具の上に横たわった。いま頃になって、踝の傷が痛むのである。手に触れると、そこは熱をもって腫れていた。あの泉の水に浸けてみようか。あの澄んだ水は冷たそうだった。
 私は起き上がり、洞穴の出口に向かって歩いた。すると、出口のところで、普段なら決して躓いたりしないような、何ともない窪みに足を取られた。やはり、相当疲れているのだろう。
 咬み傷のある左足の方から浸けていった。泉の水は思っていたよりずっと冷たかった。腫れの痛みがたちまち和らいでゆく。上から覗くと、底は浅そうだったのに、実際はずいぶんと深かった。腰の辺りまで水に浸けようと、私は泉の中心に向かって石伝いに歩いていった。足場に手ごろな平たい岩の上に立って、私は、胸の前で肘を引き、両の掌を合わせて印を結んだ。祈ろうとした。祈ろうとして、目をつむった。しかし、目をつむったが、こころを一点に集中することができなかった。

掌をふたつに離し
目を開けて空を見上げた
一線に並んだ白い雲が
ゆっくりと地上を見下ろしながら
私から遠ざかってゆく
雲は去り
二度と帰らない
あの雲は、どこに行こうとしているのか
あの雲は、どこでその命を尽きるのか
雲は去り
二度と帰らない
私もまた・・・・・・
足場にしていた岩が動いた
水に足を取られた
足が攣り、水に縺れた
息ができない
口からも、鼻からも
慌てて水を吸い込んだ
何とか息をしようとしたが
水面に顔を上げることさえできなかった
目と、耳と、鼻と、口と
みな、水の苦しみにもがいていた
そして、私は
激しい苦しみのなかに
目の前が真っ暗になっていった・・・・・・

 私は暗闇のなかにいた。しだいに、輪郭が浮かび上がってくる。それでも、辺りは濃紺色に閉ざされて、はっきりとは見えない。川辺であることだけは確かであった。柳が、歯の欠けた櫛のように、川端にとびとびに立ち並んでいる。どの木も、その柔腕に無数の鞭を垂らしていた。川面は、恐ろしく見事にみがき上げられた黒曜石のように月の欠片を映して煌いている。そうだ、私は知っている。これは夜だった。私は弟を捜していたのだ。捜していたのである。見つかるだろうか。見つかるだろうか・・・・・・。いや、見つかる可能性はほとんどないだろう。あの流れでは見つかりはしないだろう。なら、なぜ捜しているのだろう。そもそも、私は真剣に捜しているのだろうか。ただ捜す振りをしているだけなのだろうか。父に言い訳ができないからか、それとも継母と顔を合わすことができないからか。いや、理由はどうであれ、イズバに戻ることはできない。
 私は川面に目を落とした。無数の砕けた月の欠片たち。川面は銀の光にちらちらと瞬いている。弟ひとりに子牛に水をやらせて、私は水辺で休んでいた。昼間の水汲みに疲れていたのである。玄関に置いてあるあの甕に水を満たすために何十往復したものか。しかし、どうして私は、弟ひとりに子牛をみさせたのだろうか。私は、川辺の雑草を引き抜きながら、弟の姿を見つめていた。子牛が突然暴れだした。私が立ち上がるのと同時に、弟の姿が水のなかに吸い込まれた。牛が駆け出した。取り押さえに走り寄ったが、たとえ子牛であっても、子供の手におえるものではなかった、私は振り払われて躓いた。躓き、膝をついて泥だらけになった。見る間に子牛は走り去っていった。弟は、弟は・・・・・・。私は川岸に立って川の流れに弟を捜した。捜しても見あたらなかった。私は、川筋に沿って下りながら弟の姿を捜していた。捜して、捜し歩いた。弟の姿を捜し求めて、どんどん川を下っていった。どうして私は、あのとき、まず、弟が落ちたところに走り寄らなかったのだろうか。その一瞬に、私は何を考えたのだろうか。すぐに弟の落ちたところに駆け寄るべきであったのに。その一瞬のあいだに、私は躊躇したのだ。その一瞬のあいだに、私の頭のなかに継母のことが過ったのである。自分の産んだ子供だけを、弟だけを可愛がる継母のことが。私には見せたこともないような優しげな表情で弟を抱く継母のことが。私の母が死んですぐに父と一緒になった継母のことが。そして、父のことが。女にだらしのない父のことが。父は私の存在を無視していた。子供には冷たいひとであった。お祖母ちゃん子だった私も、父に親近感を抱いたことなどなかった。むしろ、私は私の母が死んですぐに継母を娶った父のことが許せなかった。憎しみさえ抱くようになったのである。この耳も、この潰れた耳も・・・・、この耳も。私は立ち止まって、自分の左耳に触れてみた。確かに耳は潰れている。欠けた耳に、虚ろな風が吹き通る。私は辺りを見回した。いままで、こんなに川下まで来たことがなかった。知っているようで、知らないところだろうか。いや知っている。ここには来たことがある。私の母がまだ生きていた頃に、私がまだ本当に幼い頃に、父が、よく釣りに連れてきてくれたところだ。あるとき、父は、川床に溜った朽ち木に釣り針を引っかけて難儀したことがあった。何度か竿を引っ張っても取れなかったので、とうとう父は川に飛び込んだ。なかなか顔を出さない父のことが心配になって、母に泣きついた記憶がある。やっと顔を上げて、水から上がってきた父に、母が私のことを話した。それを聞くと、父は濡れた身体で私を抱き締め、思い切り声を張り上げて笑った。濡れた胸に抱かれた私は、嬉しいような、恥ずかしいような変な気分にさせられた。そんな父が、いつから変わったのか、そんな私が、いつから変わったのか。いつから私は、父のことを憎しみの目で見るようになったのか。いつから私のこころは、父の胸から離れたのか・・・・・・。少し離れたところに人影が見える。膝を折って、向こう向きにうずくまっていた。私は近づいていった。継母の後ろ姿に似ている。そばまでゆくと、その影が振り返った。予感が当たった。それは継母だった。吊された侏儒のように、オークの木にぶら下げられたあのサテュロスのように、白塗りの顔で、私を睨みつけたのである。その腕には、溺れたはずの弟が抱かれていた。目を閉じたその顔は青く、息がないように青かった。継母が口を開きかけた。私は思わず後退った。すると、もの凄い力で肩を掴まれた。顔を後ろに向けようと振り返るより速く、私の上半身がその力に捩られた。捩られて合わせた顔は、父のものだった。真っ白に塗られた顔、充血して真っ赤な目。強張り固まった私の肩を、父は激しく揺さぶった、激しく揺さぶった・・・・・・。



 私は肩を揺すぶられて目が覚めた。周囲には、心配そうな表情で私の顔を覗き込む、たくさんの顔があった。
「ずいぶんと、うなされていた」
 ピョートル修道院長の顔があった。
「息を吹き返してよかった。きみは、泉で溺れて気を失っていたところを、森から戻ってきたそこのふたりに助けられたのだよ」
 寝台の両脇にいたふたりの修道士が、交互に口を開いた。
「洞穴に戻ってきてね、きみのことが書かれた紙を見たんだが、肝心のきみの姿が見あたらなくてね、それで、ふたりで捜しに出たんだよ」
「そして、泉の縁で、岩にしがみついたまま気を失っていたきみを見つけたんだよ」
「ずいぶんと重かったね」
 目に映るふたりの顔が、しだいに涙でぼやけていった。

 U字型の回廊に囲まれた修道院の中庭、そのU字形の屈曲点に、造りつけの椅子がある。そこに私と修道院長が並んで腰掛けていた。陽は高く、芝生の上にはほとんど影がない。ただ片側の回廊から続いた影の一部が、僅かばかり緑の端に顔を覗かせているだけだった。
「きみはいま、信仰に対する気持ちが揺れ動いていると言ったね。しかし、それは、きみが自身の行ないを罪と意識してこそのこころの動揺なのだよ」
 私が弟を殺したのだ。死ねばいいとは思わなかったが、結果は同じことなのだ。そこにどれほどの違いがあるだろうか。いや、これも自身への偽り、裏切りかもしれない。かって一度として、弟のことを死ねばいいと思ったことがなかっただろうか。
「私は、弟に、父に、そして、継母に取り返しのつかないことをしました。本当に、取り返しのつかないことを」
 修道院長は私の言葉を途中で遮られた。
「弟を見殺しにしたと思っていたきみは、永いあいだ悩んできたわけだ。確かにそれは罪である。贖われなくてはならない罪であった。そして、きみは、いままで修道士として神を祈ることによって、それを贖ってきたのだ。いま、きみが修道士をやめることは、そこに、新たな罪を増し加えることになるのだよ、これまでの贖いをも無益なものにしてしまうのだから」
 私は、私の新たな師父の言葉をこころのなかで噛みしめた。
 師父は立ち上がって、中庭の中央に向かって歩き出された。私も立ち上がり、師父のあとについて歩いた。前を向いたまま手を後ろに組んで、師父が言われた。私の影法師が師父の踵に触れた。
「罪に対する自覚は、決してきみの信仰心を揺るがせるものではないはずだ。それはきみの信仰心をより強固に、より深いものにするに違いない」
 師父の足が、中庭の中央にある長方形の池の前で止まった。私も立ち止った。師父は空を見上げられた。
 池の縁石を踏んで、私は水面を見下ろした。水鏡に映った空のなか、ちょうど私の被った丸帽子の後ろで、太陽が輝いている。微風が水面に触れた。その一瞬、ひと瞬きのあいだ、私の顔がさざ波に崩れさる前に、私は父の顔を見た。そして、その水面に映った父の頭には、いままで見たことのある、どの聖像画のものよりも眩しく輝く金色の光の輪があった。

文学極道

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