「わるい」
スピーカー越しの声は短く告げる
二人で住む家のために、と買った
シャビーシックなテレビの音に紛れて
短く三回、女の声が聞こえた気がするのはきっと
昨日飲まなかった薬のせいだろう
男は、『わるい』と『すまない』の違いに
女が気付いていないと思っている
実物なんてみたこともない
女は受話器の冷たさをデザインした
ピクトグラムをタップする
同時にそれは
同じだけの強さで
心臓の近くにある小さな臓器も
突いていた
鏡越しなら誰もが互いに指し合うのに
この指はいつも私しか刺さない
いつだってこの指は
私の言うことなんか聞いてくれない
そんな日記に書き殴ったこともない言葉を
思いつくはずもなく彼女は――
自分の指が嫌いだった
自分を捨てた母親の手に似ていると
大好きだった父が
手を引いてくれたあのときから
何度、力任せに折ってしまいたいと思ったか
わからない
先天的ではない方の利き手をさすりながら
時間は約束を素通りする
Pirondini社製の長針は
女をただ見送っている
遠ざかるように
いつしか眠り込んでいた
近づいてくる足音に視線を追わせてみる
足音を立てながら
清潔感のある黒いソックスは
キッチンへと進んで立ち止まる
知らなければよかったと
覚えたはずの口笛の吹き方で
忘れた日のことは覚えている
忘れようとすることは
思い出すということさ、と
遠くの方から
声が聞こえる
スピンドルが持ち上がり
圧力が弁を押し除ける
我さきにと隙間をめざし
自由を求めて
不自由な世界に殺到する
逆らうこともできないね、と
不純物だらけの思考では
声を挙げることさえ許されない
雫は自我を保てずに
澱みを掃除したばかりのシンクに垢を
起こしちゃった?
―― 眠ってないよ
わざと起こしたくせに
かぶりを振って応える
二人だけの暗黙のやりとり
「うん?」
「ドライブに行こうよ」
「苦手なんだよ」
「知ってた」
「そういえば――」
「楽しそうだね」
「お腹空いてるんだ」
「ごめん」
不調を隠したまま
女は男に抱き寄せられて視線を逸らす
男は身体を僅かにそらせて
気遣う素振りをみせる
聞こえない類のため息のあとで
今日は帰るよ、と優しく告げ
足音も立てずに玄関へ向かう
男の上着にはシワひとつない
父親のそれとよく似た背中は
女が知らない帰路を足早に辿る
庇うように無意識に
女は自分の身体に利き腕を回す
男はそれに気付いていない
選出作品
作品 - 20190128_467_11025p
- [佳] 嘘 - kale (2019-01)
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嘘
kale