選出作品

作品 - 20170905_080_9887p

  • [佳]  素数 - 深尾貞一郎  (2017-09)

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素数

  深尾貞一郎


出発の時刻を待つ間、ロビーのソファーに並んで座る。女は小ぶりなポーチバッグからメンソール煙草を取り出してかざし、目の前のテーブルには不釣り合いなほど大きい九谷焼の灰皿を見据えるようにしている。安物のライターで火を点けた。薄い膜のかたちをした白煙があがる。初老の男は煙草の先端に発光する種火が、ちりちりと音をたてるのを聞いたような錯覚を起こす。

君が言っていた、願い事って何だ?
――あたしの願いは、現世を救うことよ。約束は守ってもらうわ。その為にあなたが死ぬことになってもねと、女が言ったような気がした。

初老の男は、つとめて平静を装う。
彼の脳裏には、小学生だった頃の女とふたり、自転車で海まで行った記憶がよみがえっていた。「ハマダイコンっておいしいのかな?」「大根が野生化した植物だって図鑑に載っていたよ」。前かごには木工用ナイフと醤油の小瓶。砂丘のある内灘海岸に辿り着き、群生しているそれらの只中に踏み入る。むきだしの脛に植物の葉が触れてちくちくとする。背後には横倒しにしたままの自転車。強い潮風に飛ばされぬように麦わら帽子の顎ひもを締める。真っ青な空は、そのまま海とつながっていた。
初老の男は微笑んでいる。

世界の意思なのよと、女が言った気がした。マクロ視点って知っているでしょう? 宇宙の存在そのものなの。あたしたちは原子核で回っている電子や中性子と同じ。DNAのようなプログラム通りに万物は動かされているのよと、女が言った気がした。
初老の男は、心地よくひたっていた情景をかき消されたようで気分を害するが、ハマダイコンの続きは今なのだと思い直した。

そのプログラムって何だろう?
感じるのよ、革命とかを。数学者は素数のリーマン予想とかから宇宙を感じるんだってと、女が言った気がした。
素数って、2、3、5、7、11、13って果てしなく続くあれか。1と、それ自身の数にしか割り切れない数字だよな。小学校で習った。
簡単に言えば、全ての素数の座標化されたゼロ点は、えーと、どうのこうのって予想なんだけど――と、女が言った気がした。

女は、初老の男の手を、ぎゅっと握った。
数字が物質とリンクしているのよ。凄いと思わない?と、女が言った気がした。
――その壮大な理屈でいけば、今日が青空なのは自然な事だって言うんだね
もちろんそうよと、女が言った気がした。
バスの時間だよ
そうだね、ありがとう
こちらこそ