#目次

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深尾貞一郎

選出作品 (投稿日時順 / 全24作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


緑葉羊の少女

  深尾貞一郎

 洗面台に俯く。陶磁器の白い槽内に滴る血から、月夜のように、そよ風は吹き、その朧に開いた、見慣れた通用口を通り、寂しい沼地に出た。飛び跳ねは、光の槍となり、槽全体を彩る。鼻から口元を押さえる右手が、くらやみを裂き、もう、固まりかけた博愛の奢侈に、気だるく汚れている。

 沼地には、業務用の廃ダンボールを満載した、白い、古びた軽トラックがとまっていた。洗面台の蛍光灯をつけた。黒い瞳のような、陽気な眩しさに、顔を顰める。押さえていた手を広げると、落ちたばかりのあぶら汗が赤く、蜘蛛の触覚のように、ぬめぬめと光った。

 敗北に隣接したアパートがあり、ベランダで布団を干している若い主婦と視線が合う。いやらしい女だ。青草に群がる虫どもが、西風とささやく。薔薇の芳香に毛孔がうずく。主婦は何も見なかったように目を逸らした。

 金色の天使たちがガソリン缶を開け、手元のダンボールからリノリウム床に汁が垂れた。一瞥して、そのまま洗面所に佇む。鏡面に生える、便器に流産したジャスミン。勃起し、刻まれた海の精。和式便器上からトイレットペーパーを掴む時、不意にスローモーションで時間が進んだ。構築物が尾を引いて伸びる、残像が目から消えない。

 紙を小さく捩って耳の穴にも突っ込んだ。角笛の乾いた音が充満する。吐き気を催した。嘔吐した唾にかなりの量の林檎が混じっている。小さな屑籠を抱えるように座り、ぽつぽつと輝く明星を見つめている。飲み込んだ汁の味は完全で、三角コーナーに見ひらく小心な男の臭いにも似て、血を吸ったまな板で捌かれた鰯の頭が、切断された暗い口を開く。

 艶艶と盛られたステンレス合金の恐怖が、十五分も経過しただろうか。自らの頬を叩く。気をとりなおした私は、鼻に詰めた紙を抜いてみる事にした。

 月桂樹に変質したそれをそろりと抜くと、どす黒いナメクジのような、半分固まった羊が顔を見せた。指で摘まんで奥から引き抜く。外に出たものを見て、大きさに少し驚いた。

 居間に帰ると、まだ明かりがついていて、緑色の生ゴムでできた、美少女の私が、口を開けたまま、寝転んでいた。うつらうつらと寝ていたようだ。私の顔を見ると、また、鼻血か、とそれだけ云った。


静物

  深尾貞一郎

すりガラスの
丸い花瓶に
今朝 摘んできた
紫陽花はある

葉は
爬虫類の皮膚のように
懐かしく
ひそやかな息をする

艶のない
和紙の花びら
青く憂いの滴が染めた

花に
蜘蛛の銀糸が
絡んでいる


公園遊歩

  深尾貞一郎

いくつもの
夜のいろ
煉瓦造りの歩道の脇に
実りの近い
枯れたひまわりが立つ

たぶん
此処には
ひしめく花の種のような
ゆめがある

順路は月のない街へ
月のみちる街の公園から
蝶のかざりのついた
大きな帽子を被って

月のない街の公園から
透明な瓶にはいった
無花果の実を抱えて


雨が洗う

  深尾貞一郎

六月の日曜日にも
雨の日はあって
子供の口元は
ただ
青い砂糖菓子を舐める

この日もまた
ゴム手袋を嵌めた
鍬を担いだ
皆が集まった
捨てられた村の
田んぼにある
忘却された菓子袋から
消えることの無い
肉親の泪を
拾いとろうとする

濡れそぼった三毛猫にも
その滴は付いていて
ある者は
ドカチ声をあげて鍬を振り
用意した
大量の塩を頭から被った
三毛猫を追うからには
そうするべきと
皆が
口ぐちに云った

雨のなか
ひとつ置かれた椅子に座り
さしだされた手に縋ると
皆はいつしか
田畑いっぱいに広がり
米や玉葱の成長を誇る

もう
背中がさみしくないと云う
希望は
ずっと
此処にあると云う


代謝

  深尾貞一郎

風呂に入って
皮脂を落とす 
頭皮から鬱積がながれおちた
背中をこすると 
さっきまでの僕が
タオルにまとわりつく

ずっとまえに
デザインされた灯りを 
口々にさけんだ張り子たち
脂に濡れたものは 
仲間にわらわれて 
ちぢれて
炎をともしだした

いま
僕は頭を拭き
指をあてて
コンタクトレンズを
つかみ出す
手元でピリ、ピリとやぶると 
洗面台の鏡のまえ
顔が映った
屑籠はいつものプラスチック

脱ぎちらした靴下は
汗でしめり
じゃばら状にのびて
箪笥からとり出した
清新な下着を身にまとい
また
気持ちをつくろい直す


生きる

  深尾貞一郎

いのちが鳴く

梯子をのぼると
つやつや照る屋根から
声はきこえた
そっと瓦を剥ぐ

ひらかれるはずのなかった
藁の床が光った
うら返った瓦の
釉薬のない生地は鉄錆びの色

伸びあがる
ふるふると
つんのめった雛の脚
ピンク色の鉤形には羽根もない
ひらききった
二個のくちは黄色いひし形なのだ
これらはくちなのだ

かさなるよう
透きとおる肌は戯れる
ピンクの頭骨に産毛生え
血がかよう
眼なるところは黒く
なんと大きく
薄い肉の膜

蓮のかたちに広げた
わたしのかたい手のひらの中で
うごいている
ぷっと膨れた腹に
つまっている
わたしの手よりも
温かなもの


若かった

  深尾貞一郎

青葉の茂る涼やかな木蔭に
作業車のドアを開け放てば
汗まみれのシャツも
じきに乾いた

真夏の樹のように働き
泥だらけのズボンを穿いたまま
ずっと
冗談ばかり言っていた

倒したシートに寝そべって
今もまだ夢見る
目には映らない
記憶のなかの居場所を

愛してくれた人たちを想う
まだ消せない
家庭の夢と寝ころぶ


春とか、朝というもの

  深尾貞一郎

幾度も、
 お葉書をいただき、感謝しております。
 よき道をと、御言葉をいただきました。

「その時、あなたは労苦を忘れ
それを過ぎ去った水のように思うだろう。
人生は真昼より明るくなる。
暗かったが、朝のようになるだろう。」
            ヨブ記11:16〜17

 ひさしぶりに詩が書けました。
 僕は、この世に生かされています。
 拙作ですが、ご笑覧ください。


 「春とか、朝というもの」 深尾貞一郎

知ることはできない
そこに在る
朝はとつぜんに訪れ
それは圧倒的にひかりの量で示される
うまれかわったばかりの蝶がとび
目立たぬ草木にも花を恵む
循環の日々に立つ
奇蹟は確かにある
それなのに
春は人の認知現象にすぎないと
醒めた僕はうそぶき
朝の実体は言葉でしかないとけなした



先生、
 僕は47年あまり生きてきたのです。
 屈辱と苦労の多かった日々でした。
 徐々に、心は、平穏に過ぎて行くようになりました。
 経験というものは、まさに一身の財産です。
 自意識は薄くなりつつあります。何が恥であるか、多少なりとも心得ました。
 年齢を重ねるにつれ、世の中というか世界は、ますます不可思議なものに思えます。
 マスコミが提示するような価値観は、とうにぺらぺらの広告紙面だと気付いております。それでも、手のとどかぬステイタスにはいまだに羨望するような心持ちです。
 今はとにかく、まじめに取り組んでみようとしています。何にしてもです。
                        平成29年3月31日 深尾貞一郎


貧困における呪縛

  深尾貞一郎

小鳥には手がない
叫びをくりかえし
霧の中に影をひいた

白い服を着たわたしの前でパンをたべるな、
最初におまえのくちにのせるな
たとえ噛むふりだけして満足したとしても
おまえの唾液はなぐさめてくれる

おまえは何を恐れて夜を過ごすのか
おまえに夜明けが訪れ、
明日とはいかなるものに似ていたのか

在るものが(常に)成功し給い
おまえは(常に)失敗する

おまえの語る言葉と
在るもののなし給うこととは別である
「われに悪しきことなし」とは言ってはならない
秤に手を加えるな、重さを偽るな

その唇はあまく、舌は冷たい

人をむやみに尊敬するなら、その手を求めるな
おまえのために働け
おまえのために働け

手を休めるな、
今日は、気分がいいからなぁ!


Hello Hello

  深尾貞一郎

きっと かわいいのさ
こわくないから

幻は 
たおれることもなく
つままれることもない

らんらんと燃えるむねに
かんかくを繁らせて

めにうつるもの
きこえるものに
さわらないようにしてみた

りょうみみに手をあてて
うみのおとがする

そうしたら
りんじんを愛せるようになった
おかしいかな

ぼくはわらうよ なるべくおだやかに
いろはむらさきいろで


火葬

  深尾貞一郎

公園の錆びた、
遊具のような人の性を洗う、
花梨のように、
咲く人の、憎しみを、
洗う、

今、僕は、雨を、
つかみながら、
多摩ニュータウンの
ベージュの、団地で、
燃え盛るであろう、
手足を、描こうとして、
歌うから、

僕の身体には西がないから、
微笑むことしか知らない、
僕の身体には右がないから、
つめたい泉にもアムステルダムにも行けない、
僕の身体には身体がないから、
永遠の青も、馬のたてがみが示すものさえ知らない、

だから、僕の身体を洗う、
昨日も知らない、
何でもない、
自分を、


素数

  深尾貞一郎


出発の時刻を待つ間、ロビーのソファーに並んで座る。女は小ぶりなポーチバッグからメンソール煙草を取り出してかざし、目の前のテーブルには不釣り合いなほど大きい九谷焼の灰皿を見据えるようにしている。安物のライターで火を点けた。薄い膜のかたちをした白煙があがる。初老の男は煙草の先端に発光する種火が、ちりちりと音をたてるのを聞いたような錯覚を起こす。

君が言っていた、願い事って何だ?
――あたしの願いは、現世を救うことよ。約束は守ってもらうわ。その為にあなたが死ぬことになってもねと、女が言ったような気がした。

初老の男は、つとめて平静を装う。
彼の脳裏には、小学生だった頃の女とふたり、自転車で海まで行った記憶がよみがえっていた。「ハマダイコンっておいしいのかな?」「大根が野生化した植物だって図鑑に載っていたよ」。前かごには木工用ナイフと醤油の小瓶。砂丘のある内灘海岸に辿り着き、群生しているそれらの只中に踏み入る。むきだしの脛に植物の葉が触れてちくちくとする。背後には横倒しにしたままの自転車。強い潮風に飛ばされぬように麦わら帽子の顎ひもを締める。真っ青な空は、そのまま海とつながっていた。
初老の男は微笑んでいる。

世界の意思なのよと、女が言った気がした。マクロ視点って知っているでしょう? 宇宙の存在そのものなの。あたしたちは原子核で回っている電子や中性子と同じ。DNAのようなプログラム通りに万物は動かされているのよと、女が言った気がした。
初老の男は、心地よくひたっていた情景をかき消されたようで気分を害するが、ハマダイコンの続きは今なのだと思い直した。

そのプログラムって何だろう?
感じるのよ、革命とかを。数学者は素数のリーマン予想とかから宇宙を感じるんだってと、女が言った気がした。
素数って、2、3、5、7、11、13って果てしなく続くあれか。1と、それ自身の数にしか割り切れない数字だよな。小学校で習った。
簡単に言えば、全ての素数の座標化されたゼロ点は、えーと、どうのこうのって予想なんだけど――と、女が言った気がした。

女は、初老の男の手を、ぎゅっと握った。
数字が物質とリンクしているのよ。凄いと思わない?と、女が言った気がした。
――その壮大な理屈でいけば、今日が青空なのは自然な事だって言うんだね
もちろんそうよと、女が言った気がした。
バスの時間だよ
そうだね、ありがとう
こちらこそ


午後

  深尾貞一郎



缶コーヒーを飲んだ。アーク溶接の激烈な閃光を受けた。
防護面を被った派手な顔立ちと、胸の膨らみに視線を奪われ、愛想よく、
口上を並べて、笑顔をつくった。
笑顔をつくった。
未熟な人間が高貴な死を求めよう
コバルトブルーの、燃料タンクには「GT380」、なぜか、
自然にあくびがでた。
正面に座っているトルコ人の視線が、
開いた口元に注がれる。
何度も
大きなあくびがでてとまらない。
高速回転するドリルが、
分厚い金属板に
穴を穿つ。
ギアと
ギアと
ハンドルを調整しながら、
穴から螺旋状に生まれてくる
アルミニュウム片を
見詰めている。
待っている間、5本の指を見詰めた。細かい傷にグリースや鉄粉が入りこんで、
アーク溶接の激烈な閃光を受けた。
秋風が穏やかな匂いを運んできた。
ショパンのエチュードを想うと、
幼い友の面影が浮かんだ。
真っ白なグランドピアノが据えてある。
『別れの曲』
のメロディは、濃密に、繊細に、
空間を彩り、
抑制された、
確かな構造に支えられている。
単純で自然である。
多くの能力が要求される幻影を繰り返して。


記憶

  深尾貞一郎

 
高い、空は、
海に浮いた、油のよう。
熱の
残る路に、トンボが、ポッと落ちる。
オニヤンマの複眼に残る、
うねりを帯びた敏捷さで、
丸い小金虫らが、クヌギの老木に群れる。
ふりむいたお母さんが、
四枚の薄羽根をひとつまみに、笑う。
僕はオニヤンマの歯ぎしりしている牙を凝視する。
鮮やかな黄色の胸の浮き出た筋肉は、
森の静寂さを気づかせる。
免疫細胞のように虹は
水銀や、コバルトブルーを食べる。
虹は、今、炎になった。
目をつむれば、

オニヤンマの複眼に残る、
うねりを帯びた敏捷さで、
丸い小金虫らが、クヌギの老木に群れる。
トンボの、輝きに触れたくて
紙飛行機のように、空にかざす。
心に、
はじけるものがあり、樹液を
手につけて、
匂いを部屋に持ち帰ろうと、思う。
とり残されてしまった気がするから、
今はもう、道路脇の縁石の上、
ステップを踏みながら、唐突に、
走り出す。坂を越えて、
シャボン玉の内側に、この世はあって、
川を越えて。ぶーうぅーん。
空は頭上にだけあって、木々の隙間に刺しこむ虹に
向けて、群れは飛んだ。ぶーうぅーん、ぶーうぅーん。
ざわめく、アメジスト色が、
無数にうつる
太陽は、どこを探しても見当たらず、
空全体が、夕暮れのように、
羽音と、発光している。
羽音が、


理由

  深尾貞一郎

人民に罪はあるのか


今の幸せの     、
政策的
な国民
の白痴化によって  、

キルケゴールの
希望を
見せ続け      、
人生を
買い物計画にして  、
絶望させないから


人間が
動物だから


食物連鎖
の弱肉強食の
世界しかないのに  、

民主主義とは
理念と
それにもとづく制度があります


言わ
ば        、
人間の理想    、
脳内妄想     、
共同幻想です   、

昔        、
カンボジアでの共同幻想  、
キャタピラー
が軋んだ音をたて 、
無数の頭蓋骨
を踏み潰しました


エゴイズム

元凶


文明 、
社会 、




ジー


格差 、
渇望 、
羨望 、
貧困 、
差別


教育を破壊せよ


ライフラインを粉砕しろ


知識人を殺せ


本を焼け


データーバンクを壊せ


政治家 、
官僚  、
企業家 、
医師  、 
技術者 、
宗教家 、
芸能人 、
文明
の全容


殺せ  、
殺せ  、
皆殺




壊しつくせ


都市を消滅させろ


貴様等の生首
でウエディングケーキ
を作
ってやる


鉄斧で入刀 、
叩き割る


田園に苗を植えればいいんだ


誰もが   、
貧しくともかまわない


人民に罪はあるのか


きっと   、
動物である人間は罪であると思います


季節は、消えて、髪に、花を飾って。

  深尾貞一郎

木々を凍てつかせる風が、
あしたと、きのうが、窓に打ち寄せる。
眉間をたたく。
日が割れ、床に悪寒が飛び散り、
陰影が吹き込んで湧き立つ。

かなしみとは、
わたしたちの頬をつたう
白い蛆虫の群れ。
暗いひかり、
季節は、消えて、
髪に、花を飾って。

指先が熱を帯び、兵士が、
飛び跳ね、
ヘッドライトが眩しく照らす。
幼い子らは座る。
街の屋根は赤黒くてサファイアのよう。

朝。コンクリートの部屋、
青空はあり、
常緑樹の梢は濃い。清い光が射し込む。
小さな未来が、またあがる。
椅子や机は蒸気をあげ、
現実は取り繕う。


  深尾貞一郎

異教徒の女から、
火葬場の右手のちいさな汗だまりは
汗の滴はつっと、
散って
わたしの左目にはいったとき、
目から
骨の各部のあじを薄く云う。

わたしは
あのひとの笑みをうかべて、
むぞうさに
数日まえに足のうらにはられた
ひふのなかの瞳たちと、
ち、ち、 ちち、ち、 ち、ちちちち、と。

タールをぬる
ふたつの蝶のなまぐさく、
下駄箱の蛇のように恥じた
リチウムイオンで、
いつも白い肌をおおうハツカネズミ
は頭のなか
いっぱいに拡がり、
すこし傾ける
と産まれてすぐの
雨に濡れない手をすりつぶし、
ほんの
煎餅のように小指を噛み。

運動靴のなかに
雨に手掴みにして、胸のなか
にできていたものを、
踏みつぶしてしまった。
生身のそしきだったものをぱりぱり
と割り、
そこに
入れた。


物質と記憶

  深尾貞一郎

印象は
セミの幼虫の記憶となり、
背を割り、
伐採された木々を想う。
闇に反りかえり発芽する、
ちぢれた、
アルビノの身を垂らす。

鉄パイプの骨組だけを晒す、
碧い宵の空に露出した、胡瓜畑のビニールハウス

涼やかな夏祭りの夜店、
眩しい白熱電球のもと、つらつらと壁に並ぶ
妖しいプラスチックの面。
それは
幼少期のイマージュであり、
生命力にあふれる、
無限とじかに続いていた自分の価値であった。

児は机を丁寧に拭き、
未完成である作文や
未完成な自画像、
真新しいシャツにこめられた親の情念を並べ、
できあがった無限の印象を、
児の個人的世界を、
リコーダーと一緒に密閉すべき鋼鉄箱に入れる。
封印されたイマージュを
灌木の生えた校舎敷地内の暗い地中に。

頬のふっくらとした、まるい手をした、 
もしくは忘却は、
記憶の楽園に棲む者たちの残り香であり、
掘りおこされたとき、
心の奥、深くにしみいる。
忘れ去った意思を、学習ノートの紙面に見つけ、
時の量を、
消耗された自分の夢をみいだすのであろう。


翡翠のペンダントをつけて

  深尾貞一郎

I昼
幼児が鏡の中に、
神からいただいた完璧を見いだし、小躍りして喜ぶ

田園のなか、緑の水辺に棲む
トゲウオのような{相互的ダンス}
そこには人間が生まれながらにもっている[触角]があって
これをさしのばし現実をつくりだしていく
マロニエの木の根っこのようなドロドロとした無意識を

フライパンで炒める


II夜
背もたれのついた古びた椅子
革張りの丸い座面に手を触れる
狭い部屋に突っ立ったままに想う
わたしのたましいは幾つも点在する
なめし革の光りを放つ整った鱗
ずっとそのままだ

陰影がわたしと踊った夜の草原
あれから待っている
それは感覚もなく肉を喰らう
体内を這いずる丸い目と巻きつく青黒いもの

シンメトリーの蛇たちは、わたしの首に絡まった人格
生きるとはわたしのものでしかないのなら
肉体は、ずっと星空も見ていないのに
この身体の容のなかで世界を創りはじめる 


スペイン

  深尾貞一郎

「インディアンは無知でも未開人でもなく、
 法律を持った国家である、
 キリストは偶像崇拝者すべてを
 殺せとはいっていない、
 キリストの教えを広めるために
 暴力を用いてはならない、
 食人や犠牲の習慣は
 それが行われている文化の中では
 必ずしも悪ではない、
 インディアンには正当防衛の権利がある」
 
 ドミニコ会の修道士 
 バルトメ・デ・ラス・カス
『インディアンのために弁護する』
(1553年頃のラテン語訳)から抜粋

{夕の食卓に、銀製の蓋骨をならべる倫理}
消費の極致は富を享受することでなく、
富を破壊することにあると、
スペインの紳士に云わせてみたい
街に吊るされたイベリコ豚たち、
われわれが完全に
機械的な存在にすぎないことを悟るために
神はわれわれを無慈悲に盲目にし、
スペイン王国の饗宴をよみがえらせる
小麦の種を荒地にまく、
いのちを費やす日々そのものをまく
われわれの単純さへの信仰、
われわれは豚の亡霊に足をつかまれ、
労働の末に得た富をしぼりとられやすい
朝の樹木のようなこころになりたいのなら、
すべての広告は見ないほうがよい


Sylvie with the light brown hair

  深尾貞一郎

──目の前に
木製のドアがあります。
重いドアをゆっくり押すと、
そこにはレンガ造りの、
長い、長い、長い下りの階段が続いています。
ゆっくり、
呼吸をととのえ、
下り始めます。

長い、長い、長い下りの階段は薄暗く、
行く先は、はっきりしませんが、
足元は、しっかりと安定しています。

今いる場所が何階であるのかは分かりませんが、
気分は落ち着いています。
ゆっくり、
呼吸をととのえ、下り続けます。
疲れは感じず、
降りて行くほどに、自然に、なぜか素直な気持ちになっていきます。
降りて行っても、行く先は薄暗く、はっきりしませんが、
足元は、しっかりと安定しています。

そっと、壁に耳をあてると、
なぜか、川のせせらぎの音が聞こえてきました。
懐かしい、
ずっと前に行ったことのある川の、心地よい、せせらぎの音です。

――心地よいせせらぎの音は、気のせいだったのでしょうか。
また、
素直な気持ちで、
長い、長い、長い下りの階段を降りています。
だんだんと
景色が変わってきました。
黄色がかった電球色のひかりが、だんだんと眩しくなってきます。
よく知っている台所に着きました。

気分は、懐かしいような
幸せに包まれています。
グラスに水を注いでゆっくり飲み干します。
ゴクリ、
ゴクリ、
ゴクリ、と
ゆっくり。
とても美味しい水です。
薔薇の香りのような味がしました。

清々しい気持ちのまま、
長い、長い、長い下りの階段を降りています。
降りて行くほどに自然に、
ますます、清々しい気持ちになっていきます。
ゆっくり、呼吸をととのえ、下り続けます。
長い、長い、長い下りの階段は薄暗く、
行く先は、はっきりしませんが、
足元は、しっかりと安定しています。

今いる場所が何階であるのかは分かりませんが、気分は落ち着いています。
今いる場所が何階であるのかは分かりませんが、
ゆっくりと呼吸をととのえ、下り続けると、
薔薇の香りが身体じゅうに満ちてきます。

懐かしい夏の日、
川のせせらぎに、華奢な女の子がいます。
気分は、もどかしいような
幸せに包まれています。

――以下略


忖度と世論形成について

  深尾貞一郎


不幸な目に遭う賢者はいない。
対価を見いだす愚か者はいない。
大きく開かれた窓は冷気より熱気をより多く与える。
耳、ほお、下くちびる、舌、ペニスなどから血をとる。
お前の労働者にパンを一個やり、彼の肩から二個とるがよい。
仕事をする者にパンを一個やり、命令する者には二個やるがよい。
貴族を侮辱するな。
侮辱が行われると戦いがそれに続く。
戦いが行われると、殺人がそれに続く。
そして殺人は神がご存知なく起こることはない。
神が定め給うことなくして何も起こらない。

「走りつづけてきた者にとって、座ることは快いことだ。
 座りつづけてきた者にとって、立ちあがることは快いことだ。」

神へのそなえ物として皆、自分の血をとってささげる。
男たちが神殿に集まり、ひとりひとりペニスに穴をあけ、
何本も糸を通してみんなひとつなぎになり、こうしてとれた血は神像にそそがれた。
女性は自分の血をささげることはしないで、鳥やけものやさかなの血を偶像に塗った。


Time is in my reality

  深尾貞一郎

無数の定点カメラに映る映像のように、
赤く点滅する経験の数だけ現実はある。
地下鉄に乗る腕時計をした群衆がそうだ。
行きかう無数のイメージの数だけ現実がある。

総人口77億人の亡霊的な世界と、
平均年齢30.9年間の個人的な記憶のこと。

ひとつの学説にすぎないが、
アフリカ象の過ごした午睡の時間と、
二十日鼠の生きた時間との間に相対性があるという。
人もまた、心拍数に応じた時間のレールを持っている。
記憶がその中を行きかい、やがてその流れを土砂のように覆う。

川沿いの土手を走る子が手をのばす赤とんぼの、
赤い粒子になった空間を見ている私の記憶の群れのこと。


Anthology

  深尾貞一郎

「書道教室」8歳

日曜日は自転車に乗って書道教室に行きます。
書道の道具の入ったカバンは、墨汁で汚れています。
自転車の前カゴの中で、カバンが揺れています。

ペダルをこぐ半ズボンから、膝小僧が伸び縮みしてるよ。

国道沿いを抜けて、海沿いの農道を抜けて。

雨の日はバスで行きます。
しと、しと、降る、雨。

ガードレールに腰掛けて。 
黒い傘のメッキした棒に雨水がしたたります。
カバンを抱えていたら、僕の前に自動車が止まりました。

「乗っていかない?」
車の中で、僕がかわいそうに見えたと、その大人は言いました。
2km離れた所で降ろしてもらいました。

いつも教室が終わったら、
自転車に乗って、
駄菓子屋で、肉まんを買って帰ります。
冷えていてもね、お母さんが喜ぶから。


「冬の農道」16歳

幼なじみと二人、駅から歩いた日。

舗装された、古い、細い農道を歩く。
両側に田園が広がり、すこしとおくに防波堤。
かがやいた海が見える。
作物のない、平たい田んぼを、
真白に覆う、薄い雪を、
飴色の低い太陽が、ただ照らす。

彼の詰め襟の学生服は、
丈を短く仕立て直されて、
ただ、ぼくを威圧した。
路線バスは1時間に2本しかなかった。
あまり話すこともなかった。

ぼくは、言葉のない人間だった。
おびえて生きる、つまらない奴だった。
凍結した雪を踏んで黙って歩く。

彼は、違う道に向かっていた。
そうしなければ、意味がないかのように。
ぼくも、やがてそうした。

記憶の中の子供らは、
もう、そこにはいないのだが、

沢で蟹を捕っていた。
水草のあおい匂い。ざらついた石の手触り。
ちいさなゴム長靴がゆらす水面は、
まだ、冷たさを与えて。


「汽水域」30歳

憧れは都会に咲くことでしょうか。
乾いた銀の鐘のように凍った夜がありました。
瀬に漂い着いたのは、
火星の残像を映すブラウン管です。

強がりな、
コンクリートに寂しい肩を広げる河。
煙る工場の電飾に顔をさらし、
カラカラと改札を通り過ぎます。

極北からクジラのいびき声がとどく頃、
黄色いタクシーの室内灯、
孤独で優しい帰路もありました。

乾いた銀の鐘のようなコンペイトウにも似た、
カラカラと咲く、
固く凍った都会にて。


「幸せに生きることができますように」42歳

点は区切られた線上にある。
無限の点を通過するのに、
無限の時間はいらない。
それは一瞬であっていい。

竹の飾りに、
短冊を結わえる。
この願いを込めた、
四角い紙きれは、
風にそよぐ。

小枝にさがるのは、
お金持ちになりたいという、
誰かが書いた、
いくつかの、
本音めいた願い。

彼女がほしいと、
真っ白な短冊は、
泣いているのだろうか。
照れ笑いしているのだろうか。

かわいらしい、
アイドルの写真がさげてあった。
ふわふわと揺れ、
竹飾りを華やかにする。

明日はまた、
竹の飾りのように、

儚くとも希望を持ち、
風に乗ればいつかは、
枯れてしまってもいい。
胸のなかの夜空は輝く、
そこにはわたしの、
宝ものが映っている。

文学極道

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