選出作品

作品 - 20161216_410_9350p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


西田幾太郎の書籍と、親父についての、とりとめのない随筆

  玄こう



  2015・ 11・ 30

 風と風とを食む小枝の指に
 囁やく互いの血筋の赤い糸
 夜空を指さした子が、あっ
 わっ綺麗、振り返った私は
 庭に飾るクリスマスツリー
>お星様とは言ってなかったな
 母は、ほんと綺麗ね
 子は、母を見上げて
 囁いた二人の影と影

 歩きながらふと、
 あぁ今宵こそは
 かの人がくれた
 お手紙のお返し
 書かなきゃな

 銀色した菓子
 包み紙が道に
 輝いていたな

 南天の夜空
 つづみ星が
 揺らめきつ
 


  2015・ 11・ 25

 財布がないから電車賃がない。電車賃がないから家の辺りをうろつく。飼い犬の散歩者らを盗み見しながら通りすぎていく。目映く真っ赤に染めた楓の野木を見上げては、時折たちどまり、赤と黄のグラデーション。斜陽の光沢が樹木の年輪にほとばしっていた。
 部屋に帰り無言の文字に移し換えながら、空き腹インプティ胃のなかにインスタント珈琲を流し込む。部屋の枕元に積まれた一冊の本。開いては閉じまた開く。数行読んでは本を閉じ、なにかを心に感じ、また開く。そうしてまた閉じまた開く。心に感じ、また開く。


>近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始めから或目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分理解し、しかる後これを是非するというのでなくして、徒らに他の論説の一端を捉えてこれを非議するにすぎない、自己批評というものが極めて乏しい。単なる独断的信念とか、他の学説を丸呑みにしたものが多い。私は或動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの「種の起源」という書物は極めて読みづらい、その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に沢山挙げる。読み行く中にダーウィン自身の主張が分からなくなる位だというのである。……
   ↑
 西田幾太郎の随筆の一篇「知識の客観性」の冒頭である。

 以降の文を簡略化してしまうが以下ように書かれている。
   ↓
>苟も学問に従事するならばこういう心がけが要るだろう。知識の客観性といっても、私は或時代の真理と考えられていたものが、永劫不変だというのでない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理も、一層一般的な幾何学のひとつとなったのである。それぞれの分野がそれとして客観性を有している。単に変ずるのではない。その時代の或目的以外に何らかの意味を持つ。学問的真理を考えるかぎり、永遠なるものに触れることがなければならない。


 西田の随筆は、述べている事柄はたいへんわかりがよい。ある一部分の分野を探求する際に必ず陥ってしまうアポリアをも示してくれているように思う。



**

 アホかどうかわからんが、そんな父とアホな私との交わす話しはほとんどその辺りでお笑い草である。独断的信念から一方的に展開させていくようなものだから、絵画芸術に関する断片のひとつ覚えの捉えかたが、日々日常の価値観にまで及んでしまうような誤解を与えかねない。そんな気がした。上の西田幾太郎の本の断片の一文を、ある時父に朗読したが、父には納得できるものでないだろう。
 長くやっている彼の絵の制作も、現代美術家との交流も、現代美術作品に対する独自の論も、あまりに乏しい言語能力で、論にも満たない論を毎年いくつも郵送してくれる父。
 西田幾太郎の思想を父からワカリもしないようなワカルことを、パソコンのワードで印字した論にも満たない論をざっと数十ページ……読めるか!!んなもん。
 そんな綴じ物を一冊千円で喫茶店や画廊に置かせてもらい手作りのカンパ箱も置かせてもらっている。画家や芸術家でもない素人に読んでもらいたくて、父は絵の具代の足しにするつもりなのだろう。それだけならまだよいのだがウンチク話しを喧、喧と、2時間3時間画廊で平気でレクチャもするし、よくわからない親父である。
 ある時、父と一緒に山を登り山荘で朝まで議論した。
窓の外が明るくなるまで、唾ぜり合いをし
あぁ寝るわ、もうお休み

      v(-_-)。
      ======
       =====
        ====
         ===
          ==
           =

***


 ちっさな岩波の単行本をよくポケットにしのばせながら、通勤電車で開いては閉じていた。
 そんな父は甚だ学問は弱いのである。絵の制作、画論と芸術の独断論を孤独に父は父なりにやってるんだろうけど。
 …西田幾太郎、と父、二人の哲学作家・画人は、緒先輩として、私はやはりいつまで経ても惹かれるのである。
 が、しかし、惹かれるからといってそうして安穏としてもいられないだろう。文学も(芸術も)私(読者)受け手とが隔絶した状態に陥ることがよくある。その現象のうちに展開させているああした父の物言いは、史的唯物論や物質的弁証法などを若いとき信奉し染み付いていたきらいがあったからかもしれない。
 ちょっと間違えれば形骸化した思想に捕らわれ、新たな思想展開が出来ないまま膠着し、終わる可能性は大だ、父よ。
 何かもっと違ったカタチでそこでの学びを私は化生させていかなければならないだろう。はて?どうしたらよいものだろうか。西田幾太郎の随筆を読みながら考えあぐねているのである。


****

 いかなる時代にいかなる作品が開展したかということは歴史や社会で説明できる。作品を歴史や社会存在のコンテクストと考えられるなら我々の精神的内容を有するはずだ。そしてそれは少なからず表現的である。その意義内容をその独自性を長く歴史存在に残す仕事が批評家のやることであろう。ところが作家は違う。他の作家の作品について述べるのは自らの制作に対し新たな機を生み出し得ることへの期待感があるからであろう。つまりそうした作家の独断的信念は、作家独自に組織された制作の裏付けからであり、少なからず現代社会文化歴史が授与する“仮説状態”にまで論を到達させ、通用させることが必要とされるのではないだろうか。(そもそも現代――*現代美術も、現代思想も、現代文学や現代詩などというのは*―― 仮説の状態であるにちがいないのだ。)
だから一人の独我論から脱却し、現代の仮説へと持っていく作業が要るのだろうと思う。
西田幾太郎の書籍を探り借り、もらった何かを綴りつづけていこうと思う。

>我々が現実に生きて、働いている日常の世界というものが最も直接な世界であるから、そこで考えられた世界から考え直すことをはじめなければいけない。常識とはそれを独断的にとらえているにすぎない。日常性を深く考えないままでいることが常識と言っても言い過ぎではない。それは何処までも深く基礎付けなければならない。当たり前とされていたことが或時代や価値の風潮によって変遷されるとするならば、その最下部の基礎が見えていないといえる。




     ・
 ペテルグルス↑  ・

      …

    ・  ・