目が覚めて、夢をなぞっているうち別な夢に落ち、また目が覚めて、を繰り返していた明け方の湖。浮かぶボートを乗り換える。ゆらゆら、と揺れてはとぷん、沈みこみ、痺れるような手足に白い霧が降る。後にしたボートはもう、乗り込むボートはまだ、見えない。こつん、脇腹に別のボートが額を寄せた。
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店舗だった建物を改装したという、絵画教室を兼ねた彼のアトリエは通りに面し、窓の外には散りかけの街路樹と行き過ぎる車が見える。僕は赤茶色の表紙の洋書を手に取り、開き、また閉じて、本棚に並ぶ背表紙の列を眺め始める。最近はこんなの読んでるんだ、とつぶやくと、彼が口を開いた。「このノートが君の役に立つかもしれない」
絵の具が散った作業机の上に置かれた、傷んだ青いノート。ノートは短い交換日記のようでもあり、走り書きにまぎれて、彼の簡素な問いかけと、頼りない小さな文字の応答が繰り返されていた。浮かび上がるように目に入るのは、彼が呼びかける見知らぬ女の子の名前。「あの頃、彼女も今の君みたいに行き詰まっていてね、しばらく相談にのったりしていたんだ」
見知らぬ女の子じゃない。たぶん一度見かけている。僕はその時も今日のように意を決して、あなたを訪ねたんだ。そこは窓なんてあるのかどうかもわからない、狭い研究室だったけれど。ためらった挙げ句ノックして扉を開けると、机を挟んで少女とあなたが座っていた。少女はうつむいたまま、あなたは顔をあげて、意外そうな声で「どうした?」と僕に言った。その机の上にはこの青いノートが開かれていた、のかもしれない。
あのとき僕はすでに方向性を見失っていて、それであなたを訪ねたのだけれど、けれどあなたの目の前には……いや、ちょっと待て。僕が研究室にあなたを訪ねたのは……夢の中でだ。ずっと前に見た夢での話だった。そして、ああ、僕はまた、夢をみていたんだ。現実で、僕は夢と現実をごちゃ混ぜにしたりしないのだから。
あの夢でもこの夢でも、僕は行き悩み、不安と焦燥の只中にいた。それでもあの人と言葉を交わせるならばやはり幸福な夢であり、叶うなら、何度でもおちてゆきたい。
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寄せてきたボートに乗り込み、揺れる舟底にからだを預ける。 痺れるように重くとぷん、沈みこみ、白い霧が降りる。ここは舟着き場。ただ渡る、浮かんでいる別のボートへ。 漕ぎ出すオールもないのだから。
選出作品
作品 - 20161128_842_9295p
- [佳] 舟渡り - 宮永 (2016-11)
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舟渡り
宮永