選出作品

作品 - 20151001_192_8341p

  • [優]  額縁 - zero  (2015-10)

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額縁

  zero

仕事上のトラブルで疲弊した私は、医者の診断書をもらって長めの休暇をとった。しがらみの藪の中で沢山の蔓を引きちぎって、ようやく手にした明るい広場のような休暇だった。この明るい広場には何から何までそろっていた。普段の私の視界など筒状の非常に狭いもので、社会とかいうつくりものの万華鏡をのぞいて全てが分かった気になっていたが、いざ万華鏡を取り下げてみるとそこにはほんものの全てがあった。万華鏡も筒の外側の模様がよく見えたし、何より全方向に向かって自然も人間も社会も世界もその肢体を自由に伸ばしていた。
とりあえず私は実家の農作業を手伝うべく、薪割りを始めた。薪割り機にガソリンを注ぎ、エンジンをかけて薪を一つ一つ割っていく。しばらく薪を割って休みを取りドラム缶に腰を下ろして裏庭から見える風景を眺めていると、私は過去の思い出に襲われた。半農で国家試験の浪人をやっていたとき、同じように薪割りをし、よくこの裏庭の風景を眺めたのだった。古いボイラー室や灌木の数々、右手に見える杉林、遠くに見える山々。私はそこに自分の原風景があると思った。
私の原風景は、試験や恋愛や学校生活に挫折し、ひたすら愛に飢えた傷ついた青春のまなざしが見た風景だった。この自然ととことん混ざっていく労働の途上、四季の移り変わりとともに見える農場の風景、私の傷ついた青春によって血のにじんだ風景、これこそが私の原風景なのだった。私の原風景はいわば彼岸から眺め返された風景だと言ってもいい。もはや人生が終焉したという絶望のまなざしのもと、人生の向こう側から眺め返された、血のにじんだ自然の移り変わりが私の原風景なのだった。
かつて、私の原風景は、子どもの頃によく遊んだ近所の山の風景だった。そこには子どもの頃の記憶が膨大に詰まっていた。だが、原風景とはそもそも唯一ではないのだ。原風景など、展覧会の絵のように無数にある。自分の感情によって強く色づけられ、自分の体験によって長く引き伸ばされた風景は無数にあり、原風景とはそのうちのどれかに額縁がかかったものだと思っていい。これは真に展示すべきものだと、ひときわ豪華な額縁がかかった展覧会の風景、それが原風景だ。
私の人生の展覧会が、この明るい広場で自由にとり行われている。ひときわ豪華な額縁がかかっているのが傷ついた青春の風景であり、それが現在の私の原風景だ。この額縁は近所の山の風景から取り外され、私の激しい苦悶の手つきによりここに取り付けられたわけだ。だが、これだけ目立つようにしても鑑賞者は私一人のみ。私はこれから語り出して行かなければならない。この額縁にふさわしいだけの言葉で、この原風景にまつわる無限のエピソードを。事実か虚構かは問わない。この額縁の豪華さは無限に言説を生み出す豊饒さの記号である。この明るい広場に人は呼べない。私は再び社会という狭い万華鏡の中で、その間隙に無限のエピソードを押し込んでいく。この額縁の威厳にかけて、私の原風景の無限のエピソードを。