選出作品

作品 - 20150302_418_7939p

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雨の日

  zero


雨の日に、僕は雨粒の音を数えている。僕が数えられるよりももっと速く雨粒は降ってくるし、遠くの雨粒の音はよく聞こえない。それでも僕は雨粒の音を数えている。自分の感性の平原、その静寂に一番響く雨粒の音を探している。全てがほとんど同じであろう雨粒の音の中で、この世の正と負との境界を厳密に突くような雨粒の音を、たった一つでも聴き分けることができればいい。

雨の日に、僕は家の中で外を想像している。外は禁止されていて、不思議な権威をまとい、何やら神秘的なふりをするものだから、僕はそんな外に疑問を感じるし、そんな外をほっておけない。雨に包まれた外をどこまでも思い出していく。あの道をたどればあの駅に出て、あの裏道を抜ければあの大通りに出る。外が禁止されているのは余りにも不当だし、外は何かすっかり変わってしまったかのように振る舞うから、僕はいつもの外を再現して雨による変装を暴こうとする。

雨の日に、僕はいくつもホットケーキを焼く。何でも自分でやるのに向いているのが雨の日だ。雨は少しずつ自分の自分による自分のための生活を思い出させる。例えばゴミを整理して袋に詰めたり、本棚を整理したり、靴を磨いたり。自分が自分に立ち返り、外の助けを受けなくてもやっていける、そんな僕はホットケーキを焼く。自分の生命を遠回りに支えてくれるお菓子の栄養、僕はそれが自分の生活の要だと思うので、ホットケーキを焼く。

雨の日に、僕は本を読む。雨の日は本を読むのに適さないけれど、本の活字と雨音はどこか似ている気がして、活字と雨音が響きあうのを心地よく感じ取っているのだ。活字はいつでも降って来るもの。活字はいつでも潤っているもの。そして活字は記憶の水溜りの中に消えていくもの。雨は外に降っている。活字は僕の中に降ってくる。僕は活字が僕の中に降って来て、僕の地面にぶつかって音をたてる音楽のリズムを、エンドレスで聴き続ける。活字は大雨になり小雨になり、やがて静かに虹を映し出す。