選出作品

作品 - 20140520_029_7460p

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三つのユーモラスな詩   患者M.Tの症例

  前田ふむふむ

ムーンライト  症例 1      

懸命に 笑いをこらえたが もちろん 尋常なこらえかたではなくて そのた
めに 僕が この世の不幸をすべて背負ったような物語を リアルに想像して
いわば 笑わないという目的のために あらゆる想像力を動員して耐えたので
あるが やがて そうしていることが 僕だけでないように思われてきた 水
滴が聞えるような静けさが教室をおおっているし よく見ると 誰もが辛そう
な顔をしている いや 笑いじょうごの高橋君にいたっては 眼を瞑って 口
を震わせながらへの字にしている その格好は たしかに普通なことではない
し もっと奇怪なことは 清楚できれい好きな川村先生がこの異常事態に う
っすらと高揚した笑みを浮かべながら 算数の授業を なんの乱れも見せずに
完璧に進めていることである ただ そういう狭い教室のなかでの 一見 何
事もない状況において 先生を含めて僕たちは 暗黙のうちに共通の理解でと
ても強くむすばれていた PTA会長のひとり息子で 狡猾で陰湿ないじめを
先生にも生徒にも無分別におこない 猛犬番長といわれている デブの佐藤君
が 授業中に うんちを漏らしたこと そのために 教室中に 耐えられない
悪臭が充満しているという共通意識で でも 僕にとってもっと不幸なことは
腕を組んで憮然とした様子でいるように見えたのだが 実は恥ずかしさで真っ
赤な顔をして固まってしまっている佐藤君が 隣に座っていることだ 僕は
何事もないように、平静を取り繕わなければならないし 時とともに増してく
る臭いに 眼が痛くなってくるけれど 泣くこともできなかった だから 川
村先生に訴えるように 眼で助けを求めたのだが そしらぬ顔で 微かに笑み
返してくるだけだ 川村先生も 本当は 辛いのだと思うし 僕は僕で こん
な辛いのは いやだと席を立つこともできるかも知れないけれど 身体が硬直
して まったく動かない あの凶暴な佐藤君も動けないようだし 多分 ほか
の水島君や中村さんも 僕の好きなさっちゃんも 同じように動けないのかも
しれないと思うと 僕は とても悲しくなってしまうけれど これからも い
や もっと大人になっても 僕は こんな風に我慢する事が 生きていくこと
なのかも知れないと いつまでも いつまでも 思っていたのです


ドン・キホーテ  症例 2  

とにかく 俺の人生は 長い間 無口なカナリヤが鳥篭のなかで 呟いている
ようなものであったかもしれない だから 群衆の前で 話すことは無謀の他
はない 今までどおり 呟いていればよいのに どこで間違えたのか 俺は将
来性豊かなリーダーとして 祭り上げられているのだろうか いや 誰かの気
まぐれで 何を話すか試されているのかも知れない 俺の話を聞いた人はいな
いのだから 何とはなしに興味があるのだろう こうして待っていると 掌は
べったりと脂汗をかいてくる いまにも心臓が破裂しそうに脈打ち 眩暈をお
こして倒れそうだ それに俺は血圧が高い方だから 興奮のあまり ほんとう
に倒れるかもしれない そんなことを考えると 家族の悲しい顔が浮び 俺が
ひどい親不孝者であることを 改めて知り合いに 深く印象づけることになる
だろう そんなことより おやじやおふくろは 泣き崩れるだろうし 妹たち
は この時とばかり みんな自閉症になってしまうかもしれない それと こ
の口内が痛むほどの異様な喉の渇きは何だろう こういう経験は稀にはない 
あの大昔の特攻隊員帰還者が 体当たりする時に こんな渇きがおきると言っ
ているのを どこかで読んだことがある ここは 戦場かも知れないし 紛れ
もなく 俺にとつては これから起こる事は戦いだ 俺は きのう徹夜をして
下書きをつくり 丸暗記する勢いで 特訓したけれど これで大丈夫だと心の
どこかで 安心しているところがある でも これから何も見ずに話をするこ
とができるだろうか 俺は 人前にでると何を話してよいか あたふたしてし
まい かならず 頭のなかが真っ白になるのだけれど そう思いながら もう
真っ白になっている 動揺は隠せないくらい すでに手足は震えている ここ
で倒れたら どんなに楽だろう 命に関わる病気だと思って みんなが同情し
てくれるだろうか そう思いながら 俺は 心を落ち着かせようと二 三回 
そっと深呼吸をした ああ もうすぐだ だれかが 俺を指差している 群衆
がいっせいに俺を見ている もう引き返せない 俺は 瞑目してから 搾り出
した少ない唾液を 一回だけ飲み込んだ そして 鏡のまえのひとりの群衆に
むかって 間違いだらけの過去を 捨て去るために 立ち上がったのだ



二番地の内田さん  症例 3  

白いあごひげをはやして 美味しそうに キリマンジェロを飲む 二番地の内
田さんと呼ばれている この老人は 若い人と話をすることが 何よりも好き
だ よく 真面目な顔を丸くして 恋愛談義をする気さくな人だ でも 私に
対しては どういう訳か 眼をそらそうとする そして 必ず 空(くう)を
みるような遠い眼をする とても 嫌悪に充ちた 氷が浮んでいる寂しい眼だ
 私は、みんなと同じように 気に入られたいと 必死に眼を合わそうとする
と 怪訝に 顔をそらす でも いつとはなしに 決まって誰もいないとき 
ひどく暗い部屋の隅で 心臓を患い 禁煙のはずが 秘密の場所から こっそ
りピースを出してきて 美味しそうに タバコを吸い込むと 遠い眼をする 
そして 搾り出すように インパール戦線の飢えのなかで 人の肉を頬張った
こと 絶望的な仲間たちの無力な戦いの話を 始める やがて 復員してから
 恐ろしい空白を埋めることができず なんども死のうとしたこと だから 
手首には無数のリストカットの跡があると 内田さんは 重くなった口を放り
出しながら 私に近づいてきて 必ず 血の痛みをふたりで覆うのだ でも 
最後には、「昔のことだよ」と ため息にちかい言葉を吐いて 遠い眼は 何
度も海を渡る 私は その眼を しっかりと見つめて 決して離さなかった 
内田さんは お守り代わりに持っている ニトログリセリンをちらつかせては
 「もう わしの時代は とっくに死にたえている」と 不整脈の胸のなかか
ら 海の底のような遠い眼をする
二番地の内田さんの葬儀は 多くの知人や親族に囲まれた幸せな葬儀であつた
私は 棺のなかに 内田さんの命を奪ったかもしれない 秘密のピースを一箱
他の人に分らないように そっと入れた 内田さんの辿る旅が 寂しくないよ
うに 見上げれば空は 晴れているのに 青く見えなかった 私は 内田さん
が 隠していた傷が 思い出されて 長い間 耐えてきた 禁煙を破り ピー
スを取り出して いかにも美味しそうなふりをして 遠い眼をした でも な
んて狭いのだろう 身動きも儘ならない もうすぐ 灰になり いままでの苦
しみも飛んでしまうだろうが もう 一週間もこの儘だ 多分 忘れられてい
るのだろう そして これからも 気に留められることはなく ひとつの記録
として 書架に埋もれていくのだろう でも 総じて見れば 少しは幸せだっ
た気がする もう この ひどく暗い部屋のなかに 敵はいないのだ 私は
数少なくなったピースに火をつけて いつものように 遠い眼をした