ぼくは部屋の中をぐるっと見まわした。そして思い掛けない激しさで、「カップヌードルがある!」ふと涙ぐんだのも思いがけないことだった。「カップヌードルがある」もう一度小声で繰り返すと、目の前の壁がもやもや霧のように胸いっぱいにひろがるのだった。
カップヌードルというのは、目に見えるということが大事なのだ。そのカップヌードルが不可視の存在になってしまったら。そしたら、どうだろうか。目に見えないカップヌードル。これは矛盾そのものである。
時計を見ると午前十時三十八分二十六秒だった。そのときのカップヌードル。二十七秒のカップヌードル。二十八秒のカップヌードル。カップヌードル、カップヌードル、カップヌードル。いろんなカップヌードルが僕の部屋に溢れて、僕はそのすべてをだきしめたいなあ、と思う。部屋に満ちるカップヌードル。
ぼくはここにあるカップヌードルがカレー味であろうと、しょうゆ味であろうと構うまいと思った。ここにカップヌードルがあって、ある関係を結ぶだけだ。ぼくのペニスがコンドームと関係を結ぶのと同じように。頭と枕が関係を結ぶのと同じように。
こんなふうなカップヌードルの一列を「口中オルガン」と称していた。並んだ抽斗にはそれぞれフリュート、ホルン、天使音栓などと貼札がしてあり、ぼくはこれを引き出して、あちらで一滴、こちらで一滴とカップヌードルを味わいつつ、内心の交響曲を奏するのである。
ぼくは頭蓋骨ののっている机のはしからカップヌードルをとりだした。ぼくはほんのちょっとのあいだ、そのカップヌードルに自分の手をのせた。それは、冷たくてしめっぽい、カップヌードルだった。
そのカップヌードルがころころと転がり落ちた。そうしたら、本当に不思議な話のようだが、そのぼくの、二十年前の兵隊さんの外套のポケットから、いつかカップヌードルがころころっと転がり出してきたことがあったのだ。それを、とつぜん思い出したのである。
しゃがんだぼくは夢中でカップヌードルにしゃぶりつく。陥没した容器から蠅が飛び立つ。蠅はしばらくカップヌードルのまわりを飛んでいたが、シーツの上に降りるとまもなく消えた。
それからぼくは、こぼれたカップヌードルのなかに寝転がり、平らな麺に自分の頭を載せて、乳を流したようなスープを見つめた。スープには、星の精子が点々と穿たれ、天の尿が流れて奇妙な模様を作り、それが、星座をちりばめた人間の頭蓋にそっくりの円天井に広がっていた。
ぼくはここでもうじき死ぬる。でも大丈夫。ぼくはカップヌードルだ。ぼくは初めから、むかしもいまもこの世界に居るし、居続ける。適当な紙にカップヌードルの記憶を書き込んでみよう。カップヌードルはまた同じことを繰り返すのだ。
いまでも責任をもって確信することの出来るのは、この世のなかには、唯一絶対の、だからほんとうのカップヌードルなんかありはしないということである。そしてぼくは、はなはだ無邪気で申訳がないが、そのことをこの世のやさしさとして喜ぶことが出来るのである。
ぼくはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っているカップヌードルのようなものではなかろうか。
箸を、だれかが、ぼくの心臓に刺し込み、二度えぐった。眼がかすんで来たが、箸を構えた二人の男がぼくの顔のすぐそばで、最後を見極める有様が、まだわかった。「カップヌードルのようにくたばる!」ぼくは云った。屈辱が、生き残っていくような気がした。
そうして房飾りのようになってしつこくつきまとう、燦然たるカップヌードルに囲まれて、ぼくのスープは、夜空に微動だにせずかかっている星座の下で、自らもまた銀色に輝く姿となって、ゆっくりカップヌードルの外へと流れ去った。
いったい、いつから、そのカップヌードルがカップヌードルとなったかを、ひとびとが忘れはててしまうことによって、カップヌードルはまさにカップヌードルとなる。
【註】
パラグラフごとに次の順序で各々の作家の文章の引用である。しかし引用文のほとんどは作者により人工合成の添加物を幾ばくか混ぜ合わせてあることに注意が必要である。
阿部麺房、松浦麺輝、町田麺、麺田雅彦、J・K・ヌードルマンス、ジェイムス・ヌードルス、麺藤明生、麺取真俊、ヌードルジュ・バタイユ、町田麺、椎名麺三、太麺治、F・N・カフカ、ウィリアム・ヌードルディング、プラメン
選出作品
作品 - 20140514_923_7449p
- [佳] カップヌードル式 - リンネ (2014-05)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
カップヌードル式
リンネ