それは、一冊の海だった。
両の手のひらを重ね合わせたぐらいの厚さがあり、見た目の分量よりも重く感じられました。くすんだ生成色のカバーに、白黒のやや粗い調子で刷られていた、年配の男の顔写真に見覚えはなく、背表紙の部分に彩色された、熟しはじめた柿の実を思わせる色がほのかな暖かみを伝えていました。明朝体だったかによる墨色の文字で書かれた、現代詩手帖-谷川俊太郎という、その語感のなめらかで明朗な響きを持つ人物の名は、身のあちこちをまだ幼い利発な子どもが無性にくすぐるといったようでした。増刊号だったか別冊だったか、頁を繰れば谷川俊太郎という人の詩が、他の幾人かや本人による、それぞれの作品や谷川俊太郎という個人についてのコメント、解説や批評らしきものを挟みながら紹介されていて、一頁目だったか、数頁ほど繰った先の頁だったかに載せられていた、ほんの数行の一つの詩を、気づけば私は繰り返しなぞるように追い、
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
白い頁に縦書きの表記によって綴られていた、米粒大ほどの黒いインクの文字群は、往還を繰り返す私の眼の網膜によってとらえられていながら、けして触れることはできず、私の中をいつまでもふわふわと浮遊するかのように散らばり、文字群と私を隔てる何かがありながら、いつしか、私のあらゆる部分は、だんだんと文字群をすり抜けて頁の紙に沈みこんでいき、手の中の海をわずかに吹く微風を受けて進む、一艘の小さな船となっていました。レジで海を差し出して、お小遣いとして持っていた中から代金を手渡すと、書店専用の紙袋へ入れられた海を店員から受け取り、店を後にしました。その時の季節がはっきりとしないのですが、出口から踏み出すと音のない世界に降り立ち、街並みにうっすらと茜を染めていた、真っ直ぐな光を放射しながら、遠くかすむビル群へと埋もれてゆく夕陽へ向かうように、私は家へ帰りました。
思い返せば小学生のころにまでさかのぼるようです。国語の教科書に載っていた、授業で取り上げられた作品の一つで、そらまめというタイトルだったかと思いますが、作者の名も内容ももう思い出せませんが、青空に高々と浮かぶ大きな一粒のそらまめ、土手の叢の中に立ってそれを見上げている、そんな絵画的でのびやかなイメージ、それが今でも強く印象に残っています。そらまめはフランス語でフェーヴと言い、そして幸せの象徴だそうです。鮮やかな緑と艶やかさが眼にも美味しく、私も好きな植物のひとつですが、大袈裟な感じがしなくもありません。なぜなのかはわかりませんが。けれども少しはわかる気がします。詩についてなどわからない、幸せについて何かを答えることなどできないのですが。
*途中引用 谷川俊太郎「かなしみ」
選出作品
作品 - 20130611_111_6919p
- [優] 詩に関する私の原初の記憶について - 鳥 (2013-06)
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詩に関する私の原初の記憶について
鳥