紙カップのヨーグルトと
バターの入った箱の間に
完熟した大きなトマトがあり
冷蔵庫を開けた手が
それを掴んだとき
わずかに指が沈み込む、赤い柔らかさ
その指がどうも僕のより
ずっと長く綺麗なもののように思え
逃れられない痛みが
怒りに似た感触で甦ろうとしているけれど
指が本当は誰のものであるのか
それが思い出せない
五年前、半年ほどブダペストに赴任したとき
空港へ見送りに来た同僚の中に
荻野さんと並んで立つ三崎さんを見た
つながれていた二人の手、三崎さんの指
その時の記憶かも知れない
それから三ヶ月ほどして二人は入籍した
僕が向こうのアパートで
ベーグルをかじって暮らしていた頃だ
少し先の、そんな未来を予感しながら
空港で見た三崎さんの指の形が
甦って僕自身の指に重なっているかと思ったが
そうでもないようだ
帰国途中に寄ったパリで
藤田嗣治の回顧展にあった絵
そこに
面相筆で描かれた繊細な輪郭線を持つ女性の
アンバランスなまで大きな手を見た
それかもしれない
絵の中に小鳥が飛んでくる
この絵の二十数年後
日本に帰り戦争画を描いた藤田は
戦後のバッシングで祖国を追われるが
既に鳥は未来の怒りと絶望を咥えて
天平の菩薩像のようにふくよかな
女の手にとまっていた
僕の感じた痛みは
手の印象に藤田の感情が憑いたものか
どうか
一週間ほど前、僕は夢を見ていた
画用紙に美しい線で描かれた手が
僕のペニスや睾丸をどこまでも
白く柔らかに押し包む夢だ
目覚めると実際にそこにある手は
僕のもので、僕はしげしげと
夢に対して圧倒的である現実を
見つめた
行為のあと
萎縮した僕の性器を
掌で包むようにするのが好きだったのは
三崎さんだったが
僕は彼女の愛を失い
「お世話になりました」
とボールペンで添え書きされた入籍通知の葉書が
まだ机の引出にしまい込まれている
今、僕の手は
水の張り詰めたボウルへ
トマトとキュウリを沈め
表皮の感触を確かめながら洗っている
強からず弱からず
指で揉み、
擦り、
洗う
処理できない感情と向き合っている
僕の感情のようだが、僕のではないものだ
このキッチンの窓の向こう、庭の隅で
遊びに来た三崎さんが鳥を見つけたことがある
「この子
ホオジロ?
ホオジロかな?」
と彼女は言った
もう小鳥はどこにもいないが
未来の感情
未知の感情を咥えて
またやって来る
僕の掌へ
これを読む君の手元へ
たぶん、鳥は何度でも
選出作品
作品 - 20130605_030_6908p
- [優] 感情 - 右肩 (2013-06)
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感情
右肩