選出作品

作品 - 20130525_891_6887p

  • [優]   - zero  (2013-05)

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  zero

私は実家の南にある野菜畑で産まれた。私は幾重にも重なった肉の皮の中で、羊水に浸されながら、地下にへその緒を差し込んで、水分や養分を吸い上げて少しずつ成長した。その肉塊が十分熟したとき、肉の皮は一枚、また一枚と剥がれ落ちていき、遂には羊水が外へと流れ出し、私は産声を上げた。そのとき、畑には冷たい雨が降りしきっていたが、傘をさした父母がやって来て、私を取り上げ、顔のしわが固まってしまうくらい喜びで満面の笑みを浮かべた。父と母は交互に私を抱き、私の額に接吻し、かつて私を覆っていた肉の皮を拾って、堆肥を作るためのコンポストに投げ捨てた。

母は料理が得意だった。母の土料理には驚くほどヴァリエーションがあった。黒土がベースの料理が多かったが、母は栄養のバランスにこだわっていたし、一日にたくさんの種類の土を食べるのが望ましいと常々思っていた。赤玉土や鹿沼土によって軽みを出したり、逆に荒木田土によって重みを出したり。もちろん、堆肥や腐葉土は子供の成長のためには欠かせない食材だった。母は、土を溶かしたスープに野菜を煮込んだり、粘土をつなぎにして土団子を揚げたり、土を炒めてご飯にかけたり、様々な料理法を用いた。土は主食であり、野菜や穀物は薬味でしかなかった。

私は土を耕すのを生業としている。その土に、キャベツやニラ、白菜などの葉物、大根・人参などの根菜類など、多様な野菜を植えて市場に売り、そのお金で生活している。畑は私の身体の延長である。むしろ、私が畑の身体の延長なのである。畑にいたる道の土の上に立つと、すぐさま私は自らの感覚が広い平面に散らばっていくのを感じる。私は木々の根の張り方を感じるし、水の浸み込み具合を感じるし、光の強さ・色を感じる。畑に入って、鋤や鍬で土を耕すと、自分の体をまさぐっているかのようにくすぐったく感じる。私は畑のどこが肥えていてどこが痩せているか、それを、身体の各部位の具合のように知ることができる。土に肥料をまくと、何か温泉にでも浸かったかのような快さを感じる。そして、私は畑にどのような間隔で、どのような方角へ作物を植えていったらいいかどうかを、脳の論理法則でもって直に導くことができる。

私は生と死との区別がよく分からない。私はそもそも土から産まれているわけであるし、土を摂取して生きているわけであるし、この体が朽ちてもただ土に還るだけである。土はずっと生き続けると同時に死に続けている。だから、私もまた生きると同時に死ぬということを日々行っているのだ。生の充実、これは人間にしかない、とか、理性による自然の支配、これも人間にしかない、とか言われるかもしれないが、春を迎えて一斉に雑草を芽吹かせる畑の歓喜はまさに生の充実であるし、畑の構成や構造はまさに理性であり、それに人間はいつでも土によって支配されているのであってその逆ではない。

そんな私も、短い期間であったが、土と離れて暮らしたことがあった。冷害の年で、作物の実りがあまり良くなかったから出稼ぎに行ったのである。都会での建設現場の仕事は、私を著しく疎外した。食事もまた私を困らせた。土のない生活は、私にとっては身体を失った生活であり、それゆえすぐさま不調になって家に帰ってきた。私は帰宅一番、畑に行って、一番肥えているところの土を口いっぱい頬張り、腹が満たされるまで土を食べ続けた。私は飢餓状態だったのだ。

今日も土の粒子たちはきらめき、ひるがえり、無数の心地よい音楽を奏でている。そして、粒子たちのまなざしの集まる土の各層には絵画的な美が生まれるし、畑における各部位での土の組成や土の固まり具合、湿り具合は、何か彫刻的な美を生み出していると私は感じる。