河童は河から生まれた
だから母さんのことを河さんと呼ぶ
人間がかあさんを呼ぶときと
河童がかわさんを呼ぶときに
本質的なちがいはないけれど
そこには「あ」と「わ」のちがいがある
河にも泡が浮かぶだろうに
そこには「あ」と「わ」が合致しない
どこまでいっても「合わない」現象がある
河童に会ったことがありますか?
たいていの人間はあったことがありません
どこまでいっても「会わない」現実がある
「合わない」ことと「会わない」ことは
語呂がぴったり「あっている」以外に
やはりどこかでつながっているのだろう
だから「語呂」という言葉だって
「ねんごろ」とは語呂以上にねんごろな関係にある
それは単に上辺だけの問題ではない
たとえば河の上に「語呂」が浮いていて
それを「フロ」と称して飛び込む奴がいても
浮浪者だからしかたがないと笑うなかれ
上辺だけを見る人にはただの「浮呂」かもしれないが
底まで浸ろうとするやつには立派な「風呂」なんだ
河童は「河」から生まれた
だからといって頭の皿が「乾」いているわけではない
たとえ「河」と「乾」が発音以上にねんごろだとしても
頭の上に「乾」をのせるわけにはいかない
それは何故か?
もし仮に頭の上に「乾」をのせたらどうなるか
河童は三途の川を渡ることになるだろう
ところで「三途」とはいったいなんなのか?
ひょっとして「SUN頭」のことではあるまいか?
頭に照りつけるSUNが「乾」を導くとき
河童は三途の川を渡ることになるだろう
だからといって頭の皿が「乾」いていいわけではない
少なくとも人間にとっては「乾」いていいわけがない
もし仮に皿の乾いた河童と出くわしたならばどうなるか
それこそ自分も三途の川を認めざるをえなくなる
そんな世界はごめんだからこそ「乾」いていてはいけない
たとえ「河」と「乾」が発音以上にねんごろだとしても
河童は河から生まれた
頭が禿げている理由がもうおわかりだろう
もしやあの丸い皿が日輪を意味しているとはいうまい
ふたたびSUN頭の川を導くなんてのはもうまっぴらだろう
どうせ同じ英語を持ち出すならばもっと気のきいたやつがある
SKIN頭(ヘッド)といういかした言葉があるじゃないか
「河」から生まれた河童が落ち着くところは「皮」しかない
「河」に生まれ「河」に育ち「皮」に帰るのがそのさだめ
頭のてっぺんで「皮」がむき出しになっている理由がそこにある
それは言葉の溶解を無限にまでおしひろげる神秘の頭皮であって
語呂合わせに流されて苦し紛れにさらしだす逃避では決してない
上辺だけを見る人には日本詩に「英語」が紛れることさえ興ざめだろうが
底まで泳ごうとするやつには立派な「泳語」なんだ
選出作品
作品 - 20130225_087_6723p
- [佳] 神秘なる妖怪 - 菊西夕座 (2013-02)
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神秘なる妖怪
菊西夕座