選出作品

作品 - 20121214_349_6552p

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水槽の中の脳/の背後に蛸が。

  NORANEKO

 目を覚ましたい。目を冷ましたい。沸騰する夢と現の、上が下にって主に下だなこりゃ。やかましい。
 水槽のなかの脳味噌にはどっちも夢夢、うつつは水面を揺らす波と、現象としての電気信号の火花と、灰色の皺の暗闇から沸き立つ気泡ばかりよ。
 だが、朔太郎先生。水槽のなかの蛸ってんなら話はひっくりかえるね。現実現実。アハ、アハ。
 /などと、自室で胡座をかく私はSAMSUNG社製のスマートフォンの、静かに帯電する水晶質のタッチパネルを右手親指の右わき腹で叩いて書いている。時刻はすでに、正午に近い。幸いにも、学校は夜間部であるから慌てなくてよいものの、既に社会に出ている友人らのことを考えると、窓越しの空みたいに鬱屈と曇る心地がする。
「鬱屈と曇る心地がする。」……何が。私の心が。して、私の心とは何で、何処にあるのか。
二つの目は床に敷き詰まる教科書、学術書、プリント類に詩集の混沌と混ざり合う無精の絨毯のうえを錯綜する。そして見つける。ちくま学芸文庫から刊行されている、渡邊二郎の「現代人のための哲学」を。
本書第5章「脳と心」によれば、哲学者・ベルクソンはこのように語ったという。

『心と脳が絶対に等価であるとか、絶対に同一であるとかは、決して言えず、そうした主張は、証明されざるひとつの独断的主張にすぎない』(渡邊二郎『現代人のための哲学』第113項6〜7行より引用)

『というのは、たとえ脳について、いかなる科学的知見を述べるにしても、それは、私たちがこの世界全体についてもっている思考内容の一部にすぎないのに、その脳にすべてが還元されると説くのは、脳という小さな部分に世界全体を還元し、こうして「部分が全体に等しい」という「自己矛盾」を主張するのと同じだからである。』(同書第113項8〜12行より引用)

『脳と心の関係は、ちょうど、釘と、それに掛けられた衣服との関係に等しい。針が抜ければ、衣服も落ち、釘が動けば、衣服も揺れ、釘が尖れば、衣服にも穴が開く。けれども、釘の細部のひとつひとつが、衣服の細部のひとつひとつであるわけではない。』(同書第114項16行〜第115項1行より引用)

 なるほど、と思いもするし、もやっと感じもする。ただ、心を脳に還元しなくてもいいのか、というところに不思議な安堵を覚えるのは何故なのだろう。
 脳といえば、哲学の世界には、「水槽の脳」と呼ばれる思考実験があることは、よく知られている。

『水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat、略:BIV)とは、あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という仮説。哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・バトナムによって定式化された。』(Wikipedia「水槽の脳」より引用)

 ここまで書いて、ふと、脳裡に映像する光景。水槽の中を漂う脳の背後に、ぼんやりと浮かぶ蛸の幽霊。萩原朔太郎が書いた、自らの身体を食い、幽霊となってなお生き続ける「水槽の中の蛸」が、影を落とすことも、気泡を纏うこともなく、その透き通る八本足を艶めかしくも綾と繰り、脳に吸盤を吸い付かせては、電気信号を点らせるのだ。
 八畳の四角い部屋で胡座を書く、私の耳の奥に、見えざる蛸の哄笑が響かない。だってここは/現実現実。アハ、アハ。