選出作品

作品 - 20120906_966_6322p

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ピエタ

  紅月

わたしが物語をかたりはじめるたびにこの街には長い雨がおとずれ
る、いっそここが翡翠色の海ならばわたしたち鱗をもつ魚で、感傷
じみた肺呼吸をやめられるのですか、浸水した教会の礼拝堂で素足
のまましずかに泳ぐあなたの、白髪は重力に逆らいながら天へと伸
びてゆく、延びてゆく、ひとでなくなったあなたの御名はくちびる
による発音が出来ないから、筆記として、「ゆぐどらしる」と記す
ことにする、記すことにしたわたしたちは腕のない魚だからそれを
記す術がない、(「ゆぐどらしる」は、深海を射抜く幾筋の月光を
受け、銀に蛍光する梢をゆらゆらと細かく震わせる、水底にも風は
やまないって知ってる?)浮力、すなわち重力に隷従する「ゆぐど
らしる」の髪は空へと茂りつづける、こうして物語るあいだにもこ
の街には長い雨がやまない、器は充たされているのに溢れだした水
はどこに留まるというのか、文明の名残である酸性の雨が水面を穿
つ音すら響かないがらんどうのしじまの奥に「ゆぐどらしる」であ
る、ありつづけるあなたを世界樹たらしめるもの、かつて教会と呼
ばれていたはずのほころんだ遺跡にてほほえみを絶やさぬなんらか
の女神の像の、marbleによる肌はどこまでもやわらかな乳白色をし
ていたのに、しだいに象ることを放棄してかんたんな球のかたちに
かわってゆく、黒ずんでゆく、



彼岸、という名のみぎわで、という名のeddaで、という名の腕、腕
を伸ばす、かつてあなたが小指をくぐらせたであろう銀の指輪はす
なわち「ゆぐどらしる」の髪束で、人であったころ、わたしはあな
たのうなじに手をかけた、白線を引けばそこからうみのはじまり、
便宜上父と名付けられたあわい紅珊瑚が海底を埋めつくしている、
鱗をもつ父は鏡台で口紅を塗り、鱗をもつ父はまいにち早朝になる
と死ぬ、夜になっても死ぬ、何度も小指を繋いでは、そのたびにわ
たしは、(礼拝堂で祈る献身的な、)いっぽんの大樹が根をおろし
ている、「ゆぐどらしる」が身を震わすたび、まるで焦点の合って
いないぼやけた視界のなかでこまかい泡が粉雪のように舞う、それ
らはすべてそらへむかう、倣いながら、(誰に?)彼岸で、そらを
指さすなんらかの女神に、



凍えるような青い炎が琥珀色をした魚の鱗を舐めるとき、かたられ
た物語が濁った香油となって水面に浮かぶ、物語がかたられるとき
わたしたちの領空には長い雨が降る、わたしたち魚、浸水した教会
の錆びた鐘は定期的に鳴らされるのだった、しかし重厚なしじまの
なかで、絶える、のは音ではなく(じかん)、つかのま、あなたの
うちがわの耳が震えている、ふるえている「ゆぐどらしる」が身を
ふるわすたび細かい泡々のsnow glode、にいっぽんの大樹が根をお
ろしていた、その、ひとつの球体をわたしは魚類の存在するはずの
ない腕でかかげてみせる、もっと傲慢に記すならばわたしたち、わ
たし、たち、わたしが、わたしが物語をかたりはじめるたびにはじ
められたいくつかの記録的豪雨により浸水したこの街はあなたの御
名とおなじなまえでした、(なぜなら、あなたの、銀の婚約指輪に
その名が彫ってあったから、)しかしわたしは、わたしたちはもう
その単語を思い出せない、魚ですから、ほんとうは、廃鉱に埋もれ
た泥濘の魚ですから、そらをさす女神の、わずかに女神のかたちを
した器はもはや骨格によってのみ原型をたもっていた、その腕は軽
く、(銀の、約束をくぐる、瞼をおとして、)翡翠の水のなか、溢
れんばかりのながい白髪はいまだ重力のことわりを拒みつづける、
(灼かれたはずの父の名が眼前を泳ぎ去っていく、
ちち、ちちち、(雨、の韻、)ふるい鐘が鳴く、高く、)


(水底にも風はやまないって知ってる?)


灼かれている、
あけわたされたほむらの対岸、


今朝、死んだはずの母がふたたび死んだ