ほこりっぽい多摩川沿いの砂利道いっぱいに、
平日の時間の無意識が失調し、
いたずらが行く手で陽炎めかして燃える。
ここは昼間ほかに客もおらず、
他人の醜悪な顔を見て不愉快な想像を掻き立てられることもない。
男でありながらその不思議な現実に耐え切れない世界は、
足元に存在した簡単な石を学生アルバイトのウェイターにみたて、
アイスコーヒーとシナモンワッフルをいつも通り注文する。
記憶の片隅からは一足先に、
シナモンのなまなましい実体が強烈な臭いとともに降ってくるが、
ウェイターが注文を聞き入れた様子は無論ない。
世界の目はだんだんと縮こまって、ぐっと、
目やにがはじけるような控え目さで男の存在を主張するが、
他に注文を聞いてくれる者もいないのだから張合いがない。
いや、確かにここには。
石ころにまぎれて今は陽炎のような内臓しか見えないだけだ。
初夏は辛うじて男のまなざしをまとい、
川は滔々と流れているがその先に、
信号が点滅するような、危うい光の言葉たち。
「昔の話だけど、女の子に、君は人間の看板だねと言われて、なるほどと感心したことがある」
「そう言ったのはその子の気まぐれ」
「百メートルも離れたところに、僕が背を向けて立っていた」
「それが歌でできたプラスチックのように見えたの」
「一目でそれとわかるように立っていたのさ」
「それって?セルロイドの人形と見分けもつかない」
「頬を火照らすことはできる」
「あら、自分で確かめてみて。ほらあなたはあっち、対岸にいるわ!」
・
男の歌はうんざりするほどの分かれ道続きだった。
笹藪の中の笹藪の足跡をたどって、覗かれた、
笹の口の中には、怪訝な表情をし、多摩川を眺める都市がある。
酒の席で、腹広蟷螂がアメリカのように膨れた腹を振った。
これは居酒屋から葬式用の死人を運んでいる。
死んだ人間は運ばれることを知らない。
知らないものたちが増え、いつのまにか、都市の感覚の上から、
死んだものたちがはたりと消えて、運ばれてしまった。
運ばれる前、多摩川は死者たちを流れていく。
流れるものたちの浮かぶ、波紋ではネオンが観音様のように光る。
傾斜という傾斜がいちいち病院に収容されていく。
平坦だけが残り、あぶれものの川が点となりとどまる。
逃げそびれた、文字のたましいが、
救急車のサイレンからこぼれる。
こぼれた手前、蝶のように逃げてしまった。
運ばれない、蟷螂たちの文字だけが歌になる。
ときどき多摩川は病院のカテーテルを流れる。
同じくして、歌は群れるものたちの悲しみを流れている。
鉛筆と文字のような遠い睦まじいかかわり。
川が分裂していく、点滅する死を流れるために、死を探しに。
あっという間、目が見えないところまで来た。
男のまぶたは多摩川を閉じた。
「君はつり橋の中に急に現れた林に潜れるかい?」
「つり橋なんて、どこにもありません」
「ないって、君は確かにそこで生まれたんだ」
「余りにも生まれすぎたわ、私をつなぎとめるのはあなたの視線」
「他人に見つめられて、それっきり固まっていたいのかい?」
「ナイフとフォークを頂戴。それで光を食べ続けられる」
「ごまかさないでくれよ。こうしている間に、ぼくは渇いてしまう」
「やめて、あなたは病気。自然に通り過ぎるのを待つのよ!」
光が人間に光らない。
雨におたまじゃくしが流れない。
八月の道が七月の道をくぐって。
何も主張しない看板が積もり。
子供の宿らない妊婦が閉じられる。
ほら比喩ばかりがそれらしく述べられて。
「きみは歌になった世界を見たことがある?」
「やめて、あなたは病気。自然に通り過ぎるのを待つのよ!」
*タイトルはタゴールの詩文より引用
選出作品
作品 - 20120503_581_6072p
- [優] 身体がどうして花に触れられよう。花に触れられるのは、たましいばかりだ。 - リンネ (2012-05)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
身体がどうして花に触れられよう。花に触れられるのは、たましいばかりだ。
リンネ