選出作品

作品 - 20101030_980_4794p

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ラジアータ

  しりかげる

 
 
家の裏手には大きな田が広がっていて、毎年夏の終わりごろになるとたくさんの彼岸花が群生する。幼いころ、学校が終わるたびに急いで田へやってきては、その花を摘み取り母へ渡すのが私の日課だった。「おかあさんはやくよくなってね」そういって手に握ったものを差し出すと、彼女はいつも口元だけで笑んだ。ダイニングテーブルの中央に置かれた瓶のなか、日ごと、繊細な紅色の花が増殖していく。


日付が変わるころになるといつも、その複雑なかたちをした花をかこんで夕食をとった。私と、母と、名前も知らない男。男はいつも夜更けにやってきては、母の顔に皺をひとつ増やして明け方に帰っていく。「かぞくそろってごはんたべるっていいわね」それが母の口癖だった。家族という言葉を咀嚼するように唱える。幾度も、幾度も、


(手首に赤い筋をはしらせて泣き崩れるおんな。誰なのかよくわからなかった。皺だらけのただれた皮膚が蠢く。頭のなかに、水面に像が映るように、彼岸花が浮かんでは、乱れ消えて白く眩んだ。台所の床に点々と、花を絞ったような汁が垂れた。毒が揺れている。割れた瓶。またやったの? って、誰かが/私が、つぶやいた気がする。ねえ、また、、、)


それはとても複雑なかたちをしていたので、元には戻らないと知っている。だから新しいのを摘み取ればいい。そういう呼吸法しか習ってこなかったから。瓦解と分娩を繰り返して潮が満ちそして引くように、同じ工程を幾度となく消化するうちあちこちが麻痺してしまって。


麻痺してしま、って


触れたことのない男のために鍵をかけずにおいた玄関の扉。ほんとうに鍵が必要なのはこの小さな四畳半の自室だった。目覚めるといつもここにいた。ひとりで暮らすには広すぎる家のなか、黄ばんだ蔦柄のレースだけが音を立てはためいていた。割れた陶器が散乱して、触ると傷ついてしまいそうなくらい鋭利な断面。が、不揃いの呼吸を導く。刃先/蜘蛛の巣/生活/とうに砕けてしまっている。


斜陽。あわい暖色がごっこ遊びの残骸を濡らしていく。その滑らかな手触り。髄まであの男の声が染みこんだ家。黒点。母が飛び去ったこの窓辺からは、彼岸花の咲きほこる田がよく見えた。赤い滴が点々と、薄汚れたフローリングを濡らしている。皮と果肉のあいだに爪を立てて果汁が溢れだす。熟れた、


果実の。
香りがした。
その花。


細い花弁が水面に浮かんでいる。褐色に濁った湖畔。こちらには私、対岸には母/おんなが薄靄に埋もれていく。その裸体。香水の臭い。口紅。口紅。水面には細い花弁が浮かんでいる。おんな/母が唇を動かす。声にならない剥げたマニキュアの、色褪せた、湿った指先。目を背けることができない。「わたしのなかのいちばんおんなにちかいばしょからやってきたの。あなた」おんなが遠のいていく。宿り木として産まれてきた私。そう、あなたをこうしたのは私だ。おんなが遠のいていく。夢の続きから小指を積んでいく私を宿り木として産んだのは、あなただ。靄の先は白く、見えない。


(radiata,
拡散する血管
花ひらくように)


この屋根のしたに家族と呼ばれるものたちが暮らしているはずだった/おんなは裸体をさらしながら転がっている/深夜に音を立てて開かれる玄関の扉/息づかい/糸/目を覚ましたときにはもうすでに、私の手首に流れる血潮は誰のものでもなかった。台所の床には彼岸花が咲いている。陶器の欠片、そのうえにたくさんの花弁と、真新しい血痕を残して、はじめから続けていく。「はやくよくなってね」緻密な花。輪郭が濃くなっていく。蛍光灯。板目。テーブルクロス。黒点。鳴りやまないサイレン。幾度も声をかけたの、に。ねえ、またやったの?/またやったの?/っ、て。