目を覚ますと、部屋の中に嗅いだことのある匂いが充満していた。どうやらドアの隙間から流れてきているようで、いつからしていたのかは分からなかった。目が痛くなるような甘い匂いだ。時計を見れば、三時である。きっと妻が菓子でも作り始めたに違いない。私はまだぼんやりとした頭で、妻が何を作っているのかを想像し始めた。
カシャカシャと小気味よく擦れ合う金属の音が聞こえる。これは小麦粉をタマゴと混ぜて練り上げる音だろうと思う。しばらくすると、まな板をたたく音が聞こえてくる。ミキサーの回転音が響いてきたところで、ほぼ見当がついた。熟したバナナの甘ったるい匂い。妻が作っているのは、どうやらバナナケーキに間違いなさそうだった。
そう思ったそばから腹が鳴り始めた。どれくらい食べていなかったのだろうか。手元の鏡を見れば私はかなり痩せているようだった。私は伸びをしてベッドから立ち上がり、匂いのするほうへとぼとぼと歩いた。ドアノブがやたらとひんやりしているように感じた。私はゆっくりと部屋を出た。
狭い廊下の突き当たりに、見知らぬ男が立っていた。予期せぬ出来事に無防備な私は、哀れな犬のように後ずさりながら部屋に戻った。震えながらドアを閉じる。
あいつはだれだ。当然のように疑問に思う。髪は光沢をもって捲し上げられ、男は黒いスーツを着ていた。どこまでも真っ黒のスーツ。その部分だけ空間がそがれたかのように黒かった。しかし、そもそもどうして私はあれが男だと分かったのだろうか。壁のほうに向かってうつむいていたため、顔の様子は分からなかった。それでも、あれは男だろうし、その顔は私よりも整ったものだろうという気もした。あいつはだれだ。
たとえばあの男は訪問販売員かもしれない。たしかに、あの小奇麗な身のこなしはそういう胡散臭さを感じさせた。しかし、そうだ、なぜあの男は靴を履いていたのだ!人の家に土足ではいる販売員があろうか!いつのまにか男に対する恐怖がどうしようもない怒りに変化しつつあった。ここは私の家ではないか。なぜ私が隠れていなくてはいけないのだ。久しぶりに高揚した鼓動に、半ば新鮮な快感が沸いてくる。
私は男を怒鳴り散らしてやろうとばかりに、勢い任せでドアを開いた。
しかし、この家の主人だろうか、向こうの部屋から出てきた男が、顔を歪ませてこちらを睨みつけている。何か言いたいのか、口をもごもごとタコのように滑らかに動かしているが、声がまるで出ていない。真っ赤に高潮した顔を見ていると、こちらまで情けない気持ちになってくる。だが、その男の持つある種の異物感が、この家にフィルターをかけ、家は余計に静かになったような気がした。まるで母親の体中のようにゆっくりとしていて、耳元の血管を流れる血液の音すら聞こえ始めてきた。
髪の長い女が台所で何かを作っている。尋ねれば、バナナケーキだということだった。甘ったるい匂いが部屋に充満している。家は完全に閉め切られているようだった。もしかすると、匂いをできるだけ満喫しようという意図でもあるのかもしれない。あるいは家に入ったものを逃さないためか。
いつの間にか日は落ちかかって、西日が部屋に差し込んでいた。
気がつけば、女の顔に生えた産毛が日の光を受けてきらきらと光っている。女の視線は落ち着きなく私の足元を見ていた。下を見ると、私は靴を履いたまま上がりこんでいるらしかった。申し訳ない気がし、すぐに脱いで謝った。女は非難する様子をまるで見せず、いいんですよと私を許し、バナナケーキを勧めてきた。
どうして私はここにいるのだろうか。何かを売りにきたのだろうか。きっとそうだろうと思う。しかし、ここは居心地がいいし、女も私を拒む様子はない。もう少しここにいてもいいだろう。私は誘われるがままダイニングの椅子に座り、女の作ったケーキを食べ始めた。バナナケーキは皿の上で山のように積まれている。
背後では先の男が、今度は全身をタコのように躍らせて何かをしきりに訴えている。
選出作品
作品 - 20100807_559_4606p
- [佳] 巣 - リンネ (2010-08)
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巣
リンネ