6月の首都は厚ぼったい水蒸気のなかにしずんでいた。インターコンチネンタルプラザの最上階からは、社会主義時代の古びたビルの向こうに湖がかすんで見えるのだが、そこまでどうやっていくのかはわからなかった。今朝、夜行バスでターミナル近くの安宿に着き、昼過ぎまでシーツをかぶって眠っていた。微熱が続いており、体は水分を求めつづけている。2時間ほど眠ってはふらふらと街を歩き、再び疲れては眠る。今日一日はその繰り返しだった。朦朧とした意識のなかで地図を開く。錆びた下水管と蔦のからまった鉄条網で区切られた路地がどこまでも続く貧民街を、旧いアメリカ製のボンネットバスが縦横無尽に結んでいる。フロントガラスに書かれた行き先はどこも聞きなれない地名ばかりで、僕はガイドブックを見るのをやめ、バスに乗るのをあきらめた。
夕方、それでも少しは無理をして湖の方向へ向かって植込みのある道路を歩いてみる。片側二車線のアスファルトはところどころに穴があき、緑地帯はガラスの破片や投げ捨てられた空き缶で埋まっている。空には水蒸気を含む灰色の雲が結集し、雨の時間が近いことを知らせていた。道路が湖の手前で途切れる地点が見えてきたあたりに、公園への入り口があった。そこには同じ色のシャツを着た人々が幾人もあつまり、その向こうの教会前広場にはマーチングバンドが入場していくところだった。フェンスにもたれると、ちょうどとなりにいた男に話しかけてみる。「これから何がはじまるんですか」「旧革命政権の集会ですよ。もうすぐ大統領が出てきて演説するんです」。巨大な広告塔に描かれた大統領の顔に、解放戦線を率いた30年前の面影はなく、髪の薄くなったただの50がらみの男にすぎない。
そこを通り過ぎてなおもいくと、ペンキのはげたガードレールの向こうに湖が見えてきた。道路が湖岸に出るところは大きなロータリーになっており、その円周に沿っていくつかのレストランが並んでいる。スピーカーから巨大な音量でサルサ音楽がながれているが、テーブルに客の姿はない。そのロータリーを斜めに横切って歩く。雑草がところどころ顔をだしたコンクリートの階段を下りると、排気ガスで葉が萎れた木陰で中年のカップルが肩をよせあっている。なおも歩く。防波堤までくると三角形の電波塔が空に向かってまっすぐ立ち、それと同じ形の塔が湖岸に沿っていくつも立っている。不意に街宣車のスピーカーからかつて革命戦士の名をたたえる呼び声が聞こえてきた。ビバ・サンディーノ!。ビバ・サンディーノ!。その声はひどく間延びしていて、耳の奥で金属的に鳴り響いた。
翌日、警備員にガードされた首都のターミナルで、国際バスに乗る。カウンターの若い女性に日本のパスポートを差し出す。チケットはできれば現地通貨で購入したかったが、足りないので仕方なく米ドル札をだす。この国の通貨は米ドルに対しつねに下落を続けている。急な変動はないが、それは切り傷から流れ出た血がとまらないかのように、絶え間なく続いている。申し訳なさそうに彼女は、きっと国境で両替できますよ。と言うと、言い訳のように、日本大使館で日本語を教えているのを知っていますか、と言った。もっと気の利いた答えを返せばよかったものを、数日の微熱のせいで、僕はただ中身のないことを口ごもっただけだった。「首都に来ていらい風邪を引いてしまって、どこも見ていないのです」。彼女は再び申し訳なさそうに僕をみると、ニカラグア・コルドバの札束を僕の手に差し戻した。
選出作品
作品 - 20090715_635_3649p
- [特] マナグア - コントラ (2009-07)
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マナグア
コントラ
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