選出作品

作品 - 20090703_434_3625p

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偽物の猿の目は黒い(前編)

  ぱぱぱ・ららら

0、
 これから僕が話すのは、偽物の猿についてだ。それはアルコール中毒のトランペット奏者についてでも無ければ、昨今問題となっている黄色人種に対する大虐殺の話でも無い。
 でも正直に言って僕が偽物の猿について語れることは、あまりにも少ない。まず根本的な問題として、僕は本物の猿について絶望的なまでに何も知らない。動物園で猿を見たことはある。でも、動物園の猿を本物と言うことができるのだろうか。誤解してはもらいたくないのだが、これから僕が話すのは動物園の猿についてではない。僕は本物の偽物の猿について話す。偽物の猿について話すことによって、いつか僕らは本物の猿について、何かしら知ることができる日が来るかもしれない。
 
1、
 僕の彼女は売れない舞台役者だった。僕も冴えないフリーターだったから、僕らは互いに金を持たざる者として仲良くなっていった。ある夜、稽古帰りの彼女は言った。「良い役を貰ったの、主役よ」。僕はそれを聞いて素直に喜んだ。これまでに何度か彼女の所属する劇団の公演を観たけれど、彼女はいつだって小さな役しか与えられていなかった。居なくてもいいような、彼女じゃなくてもいいような、そんな役ばかり。一度なんて大根の役をやらされていた。料理をする主演女優。買い物袋に入れられた彼女。主演女優は包丁とまな板を取り出し、彼女を切り刻んだ。トントントン、と包丁がまな板にあたる音がしていた。彼女は悲鳴ひとつあげなかった。舞台上は彼女の血で染まり、最前列の観客には血しぶきが飛び、観客達は悲鳴をあげた。僕は最後まで観てられず劇場を出た。公演が終わるまで、向かいの道路のガードレールに寄りかかり、煙草を吸っていた。僕以外に劇場から出てくる観客はいなかった。
 公演後、「これはあまりに酷いじゃないか」、と僕は演出家に訴えた。演出家は僕よりずいぶん歳上に見え、髭も伸び放題だった。「しょうがないでしょ、彼女下手糞なんだから」、と演出家は言った。「死んじまえ!」、と僕は悪態をついて彼の元を去った。
 
2、
 彼女の主演する舞台のチラシを見た。『サラジーヌ』という題名だった。一番先頭に彼女の名前が書いてあり、演出家は僕が死んじまえと罵った男だった。チラシの裏には、『迫真の演技。体当たりのベットシーン。』と黄色い文字で書いてあった。
 僕はその公演を最前列で観た。チラシの通り、彼女と主演男優によるベットシーンがあった。熱いキスの後、男の舌は彼女の胸を舐め、左手は彼女の股へと伸びていった。彼女は演劇用のよく響く声で喘ぎ、腰を激しく動かした。僕の席からは彼女の表情がはっきりと見えた。彼女は本気で感じているように思えた。僕は最後までその劇を観たけど、ベットシーン以外なにも覚えていない。
 公演後、僕は彼女に言った。「何が『迫真の演技。体当たりのベットシーン。』だよ。そんなにリアルなベットシーンがしたいなら、本当にヤっちまっえばいいじゃないか」。僕はそう言ってチラシを破り捨てた。「だいたい何でお前みたいな下手な人間が主役なんだよ。お前なんか野菜の役で十分だろ」。僕はいくらか酔っぱらっていた。「どうせこの役もあの髭野郎に抱かれて貰ったんだろ」、と僕は言った。彼女は左手で僕の頬を叩いた。「最低ね」、と彼女は言った。「最低ってなんのこと?」と僕は心の中で呟いた。
 
 その時には分からなかったが、今考えてみればこの瞬間に偽物の猿は生まれたのだと思う。僕が彼女に叩かれた瞬間に。僕の頬と彼女の左手を両親として。偽物の猿は生まれた瞬間に死んだ。詩や映画と同じように。だから僕が実際に見たのは、もう死んでいる偽物の猿だったのだろう。でももちろんその時には気づいていなくて、僕は死んでいる偽物の猿を生きている偽物の猿として扱っていた。
 
 
(前編 終わり)