蓬莱橋までの散歩を終えて宿に帰りました。ちょうど夕飯の時刻になっています。給仕に現れた客室係は七十歳くらいのおばあさんでしたが、少し色褪せのある紺の着物をこざっぱりと着こなしていました。そして、私たちがあのやたらと長い木造の賃取り橋を往復してきたところだというと、夕刻の蓬莱橋に近づくものではない、とのこと。どうしてなんですか、と夫が笑いながら聞き返しましたら、彼女が鍋物の火の具合を見ながら言うには、「蓬莱橋は彼岸と繋がりますから、夕刻は色々とへんなものがついて来るじゃないですか。」
私はそういう話が嫌いではないので、「橋の向こうはあの世なのですか?」と、話の先をせかすようにしますと、彼女は真顔で、
「あの世ではありませんよ。向こうも普通の土地です。何にもない普通の土地ですよ。あの世であるはずがありません。お客さんはおかしなことをおっしゃる。」そう言いますから、私もそれ以上何も話しませんでした。
疲れていたので早めに床に就き、明かりを消し目をつむって眠りに入ろうとすると耳元でかすかな音がします。あまり小さな音なので、最初は気のせいだと思ったくらいです。でもどうしてもそれは現実の音なので不審に思って半身を起こしてみると、その音はもう聞こえません。外からも風の音一つなく、新月の静寂が部屋を包んでいます。それでいてもう一度枕に頭を載せると、ほんの少し、かすかにゴゴゴという唸るような音が耳に入ってくるのです。「起きてる?」と私は声が響かないように細心の注意を払って、声帯を震わせずに夫に話しかけました。「うん」というこれも微かな返事が聞こえたので、「枕から変な音がする」と言ってみました。眠りに入る前の時間をかき乱したくなかったので、その声も独り言のように妙にか細くなってそのまま消えました。「枕というものはね」と夫の声が返ります。やはり小声ながら父が子にするような、優しく包容力のある声でした。
「枕というものはね、遠い場所の音を伝えるんだ。遠いからほんとうに小さな音だよ。ごとごといっているよね。これは石造りの建物が崩れる音なんだ。タクラマカン砂漠には千数百年前の隊商都市がいくつも廃墟になって放置されている。砂漠の真ん中に何本もの石柱が立って、ひび割れた日干し煉瓦の壁がいく棟も残っているんだ。それは千年以上の時間をじっとそのまま耐えてきているんだけど、今ようやく寿命が来たんだね。建物はみな時の流れを耐えた仲間だからさ、一つが崩れると、ああ、もういいんだってもう一つが崩れる。たくさんの建物が、鎖がつながるように、一つ一つ荘厳に崩れていくんだよ。崩れて砂に埋もれていく音が遠く遠くこの枕に繋がるんだね。」眠りに入ろうとする私の頭の中に、青空を背景にして大きな柱がスローモーションで倒れかかってきます。柱の上部には輪郭のぼやけた神像のレリーフが表情のわからない横顔を見せ、それもやがてゆっくりと砂塵に紛れてゆきます。一本の柱が倒れるとむこうがわの壁が崩れ、透明な太陽光の中で都市は徐々に美しい最後の時を迎えるのでした。
翌朝目覚めると、私の枕がありません。探してみると部屋の障子を半分ほど開き、そこから廊下に這い出ようとして力尽きたように戸と柱に挟まれ倒れていました。朝食を給仕に来た若い娘が帰った後、夫にきのう砂漠の遺跡の話をしなかったか、と聞くと、
「そんな話、してないじゃないか。そうじゃないだろ?」と言います。
「君がアマゾン川の源流は泉じゃなくて、葉っぱから落ちる雨の雫が集まっているんだ、って話をしたんだよ。こんな夜にはその雫の落ちる音が聞こえるってさ。またなんだって昨日はそんなことを言い出したの?」
選出作品
作品 - 20090225_364_3358p
- [佳] 枕返し - 右肩 (2009-02)
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枕返し
右肩