選出作品

作品 - 20080702_098_2870p

  • [佳]  アカリ - みつとみ  (2008-07)

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アカリ

  みつとみ

 月明かりのなか、わたしは狼を抱きかかえていた。眼鏡の片方のレンズが欠けている。暗くてよく見えないが、石や枯れ枝があることが、靴を通した感覚でわかる。すこし離れたところで、炎が風にあおられる音がしている。狼の毛並みは血で汚れ、濡れている。ときおり、遠く獣たちの吠える声が聞こえてくる。まだぬくもりのある狼の体。狼の半ば開きかけた口から、舌が垂れ下がり、息を吐いている。強く抱きすぎないよう、気をつけながら。
(こんなにも痩せている)

 枯れ枝が火で弾かれる音がした。振り返ると、あちらこちらの枝や草に飛び火している。
 膝が崩れた。わたしは狼をかばうが、体が横に倒れそうになる。体をねじってみるが、転がってしまった。地面に石が散らばっている。体が重く、力が入らない。しばらくの間、狼を抱いたまま、目を閉じ、背を丸める。獣に追いつかれたら、と思うがもう動けなかった。ここで襲われたら、もう終わりだろうけれども。

 閉じた目の暗やみから、わずかに戻り、首を振ってみる。まぶたを開こうとするが、おぼつかない。どうやら、つかの間、眠っていたようだ。
 狼の顔を見る。眼鏡の欠けたレンズのせいで、うまく焦点が合わないが。狼の目は開き、濡れていて、まだ光はある。思えば、この狼に名前をつけていなかったので、呼ぶこともできなかった。獣たちに囲まれているときの、背中に電気が走る感覚が戻ってくる。いつも狼は向こうからやってきてくれた。体からは、体温が伝わってくる。意識が夢の側に行こうとするとき、温かな感じがして、現実の側に戻ってくるとき、わたしは痛みで眉をひそめる。口のなかは錆びた血の味がする。手は火傷でこわばっている。手足は獣に噛まれたせいで、熱い。そしてまた眠りのほうへ、意識が漂う。

((わたしは草原を見下ろす。眼下に一頭の狼が駆けている。群れの狼らに追われて。一匹狼は大抵、群れの狼によって、殺されてしまう。そう本で読んだことがある。狼は草地を抜け、岩場を越え、遠く走っている車に向かっていた。追われている狼は車に近づいた。が、車のほうが早く進み、離れてしまうが、懸命に追いかけていった。この狼が生き延びるにはそれしかなかったのだろう。
 車はやがて止まった。どうやら燃料切れらしい。獣たちは追いつき、車の周りを囲みながら、車内をうかがっている。
 朝日が地を照らすころ、獣たちの姿はなかった。車のなかから青年が出てきた。倒れてしまう。肩の高さの草に隠れ、周囲に獣たちがいないことを確認して、一頭の狼がゆっくりと向かった。
 倒れている青年のジャケットの肩の部分をくわえている、狼は、起きあがるよう、うながす))

 胸がうずき、わたしは目を覚ました。痛みに、動悸がする。狼がわたしの肩の部分をくわえている。そして、目でうながす。狼の頭に手をあてる。その指先に、触れず、狼の頭は地に落ちた。半身を起こし、狼を抱き起こそうとするが、重くなって四肢が垂れ下がってしまう。いくら抱え直し、揺すっても、揺れる足先以外は、もう動かなかった。

 風が強く吹くせいか、月に、草地の火が燃え移り、青白い炎に包まれていた。ぼんやりとわたしは月の光を見上げていた。
 わたしは“アカリ”という名前をこの狼につけた。暗がりに、ひとりでいたわたしを照らし、よりそっていてくれていた。

 風がやみ、炎が消えたころ、白くぼんやりとした光が地を照らしはじめた。わずかな霧雨が降り始め、土を湿らせ、火を鎮めていた。わたしは硬くなった“アカリ”のために石で穴を掘っていた。ポケットのなかの梨の欠片を取り出し、“アカリ”と一緒に埋めた。土で汚れた、なえる手に、力をこめて。

「ア・カ・リ」。