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みつとみ

選出作品 (投稿日時順 / 全34作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ミニ扇風機

  光冨郁也

 女の声が頭の中に響く。澄んだ高い声。日に日に声は大きくなるような気がする。声を聞く以外、わたしには何もできない。偏頭痛がしそうで頭を振る。空き地に捨てられた車がある。栞を座席の上で見つけ、車の中に入り込んだ。誰が落としたのか。栞を拾う。青いインクのイラスト、髪の長い女がぶれてプリントされている。いつも携えている本に栞を挟む。女の声が消えていた。女の声が届かない場所を見つけた。車から出ると、また女の声がする。
 休日の昼下がり、曇った眼鏡をシャツで拭く。手の届かない空の下、車に向かう。白のセダン、前輪のタイヤが外されている。コンビニで買ってきた袋を持って、ドアを開ける。埃っぽいシートに座る。ジーパンの後ろポケットの文庫本を出し、助手席に放る。ページが宙でめくれる。神話のエコーのページが開きかかる。青いイラストの栞が外れ、本は閉じた。すれた表紙がたわむ。本を手に取り、栞をはさむ。助手席に本を置き直す。ダッシュボードを探る。車のキーはない。ドアを閉め切る。暑い。曇ったフロントガラスから空梅雨の空を眺める。サイドの窓を開ける。空は青かった。シートを少し倒す。コンビニの袋を開ける。カレーパンとチョコレートパン、それからパックのコーヒー牛乳。
 食事を終えると、暑いので外に出る。女の声が流れ込んでくる。近くのデパートに向かう。デパートで涼みたかった。途中、コンビニの前でゴミ箱に袋を捨てる。空を眺めながら歩く。

 女の声が響くデパート。CDやDVDの売り場でタイトルを見る。邦画のキレイなパッケージのものがあれば手に取り、裏返し、また元に戻す。その繰り返し。そのあと、パソコンの売り場を眺めながら通り過ぎ、玩具売り場にたどり着く。フィギュアやプラモデル。モデルガン。女の形をしたフィギュアに触れた。しばらく見つめる。風が来た。近くにプロペラが回る、ミニ扇風機のオモチャがあった。手に持つ。風を受ける。青いスケルトンのボディ。透けたボディから乾電池が見える。女の声がいっとき止んだような気がした。ミニ扇風機の箱と、レジのそばの棚から乾電池を一緒に手に取り、買った。女の声が続く。空き地に戻る。車の中に入る。女の声は止む。フロントガラスから青い空、蒼い海を見渡す。

 箱から取り出し、ミニ扇風機に乾電池を入れ、電源を押す。風が来た。車の中で、フロントに扇風機を置き、文庫本に手を伸ばすと、本がこちら側に押し出される。強い風でもないのに。手に取り読む。エコーやナルシスの話を繰り返し読む。目が疲れると、シートをさらに倒し、眼鏡を外し、うたた寝をする。扇風機の遅く低い音がうなっている。

 まだミニ扇風機の電池は切れていないが、回転が弱くなっている。眼鏡をかけ、電源を止める。車から出て、自分のアパートに向かう。女の声が追いかけてくる。部屋に入る。ここでも女の声。乾電池を何本か持っていく。また空き地の車へと戻る。声の止んだ車の中で、扇風機の電池を入れ替え、電源を入れる。ミニ扇風機のプロペラが回る。青い栞が本から外れ舞う。

 フロントガラスを隔てて水平線を見渡す。西日が差し込む。まぶしい。助手席にひとの気配がある。上半身の輪郭が透けて見えた。横顔の表情はよく見えない。扇風機の風に、長い髪がそよぎ、光っている。女か。そばにいたから声がしなかったのか。車の中で、声はせずに扇風機の音がよりそっている。

* 投稿時の名前は「みつとみ」


バード

  光冨郁也

 一人でいることに、何年も飽きなかった。シートの、海に伝わる神話を読みながら、永く暇をつぶしていた。精霊の女、の横顔の表紙。空腹の中、海に向かう道、カセットで、オペラを聴きながら、わたしは車を走らせた。食事をとる場所を探す。風が、目に当たる。細める/道の脇/女の顔が転がる。ブレーキを踏む/ハンドルを横に切る。
 女の顔は白い。軋むかのような声で、鳴いている。翼を抱えて、鳥の体の女はわたしの目を見て、鳴く。光る目が、心に残る。ドアを開け/風が流れ込み/鳴く。それに近寄る。歯が白いが、鋭く、わたしのほうに転がる。わたしは屈み、抱きかかえる。
 シートで、女の顔を押さえる。鳥の体は羽毛が柔らかい。片方の翼を痛め曲げている。
「ハーピーか」と、わたしの声に女は鳴く。
 それは、ひとの食事を邪魔するだけの存在だが、わたしは後ろのシートから、乾いたパンを出し、カップの牛乳に浸し、与える。女は笑うような目で、わたしを見上げる。わたしの股の上で、喉を動かす。次第に、激しく、水分をふくんだパンを、くらう。髪は赤茶で、ウェーブがかかる、その線にわたしは触れる。女の体は重い。

 わたしは、女と車を走らせる。風が、女を喜ばせる。笑い声がする。ただ走っているだけなのに、うれしいらしい。海が眼下に広がる。崖/ブレーキ踏む。ハンドルを静かに回す。鍵のアクセサリーの翼を、女は唇でつつく。わたしを見ては、何か言いたげに、ねえねえ、と目で話す。
 どうすれば、この時間を延ばせるか、わたしは、女の頬に指をあて、撫で続ける。
 雨でも降るのか、窓からの風は湿り、辺りは薄暗い。無言の時間が過ぎる。サーチライトをつける。舗装された道が続く。何年かぶりに女と話したくなる、が言葉はない。車内の沈黙に、ラジオをつける。
 DJの声はなく、歌声がある。
 ラジオに、女は聴き入る。女の横顔は、本の表紙の精霊に似ている。首を伸ばし、翼を拡げる。目が青く、海を思わせる。その深み、に触れたくなる。
 女は歌う。白い喉が震えている。その声は、わたしを眠りに誘う。ひとに死をもたらす、セイレーン、であるかもしれない。
 向こうから、ひとをおそう、女の仲間が来る、前に、わたしは、ラジオのボリュームを上げる。アクセルを踏む。女を窓から放り捨てるべきか迷う。片手で女の口をふさぐ。女が指にかみつく前に、わたしの体は眠りに傾く。

(死ぬな、これは)
 ハンドルを切り損ね/道の脇/落下する。

 女はそこにいた。シートに、挟まれ身動きできない、わたしの胸の上でうずくまり、頭をこすりつける。頬と頬がすれあう。女は鳴いた。わたしは夜の曇った空に、女の仲間が来ていないことを知り、はぐれた者同士、そのままの姿勢で、朝まで眠ることにした。携帯電話、を持たないわたしは、誰にも連絡をとれない。遠く、で波の音だけがする。キーを回す、がエンジンは動かない。キーの、折れ曲がった銀の翼が揺れる。本を台にして、コップに水を注ぐ、暗がりの中で。二人だけの沈黙に、女はむせぶ。

 女の目は濡れている。その縁を指で、たどり、こもるような声をかける。寒い暗がりの中で、わたしと女は互いの体温だけを頼る。片方の翼を、わたしは撫で続ける。
 女は笑うように、目をつむる。


空き地

  光冨郁也

 わたしには女の声が聞こえる。誰にも似ていない声。でもひとには話さない。話す相手もいない。流木の散らばる砂浜。わたしはひとりで波間を眺める。ジーパンの後ろポケットに突っ込んだ神話の文庫本。もう何度も読んだ。あの日、海で溺れかけてから何年も経った。わたしはバイト先を転々としながら、生活を続けている。流木は裂けて白くなっている。砂浜にはひとはいない。あっただろうだれかの足跡は波で消えている。みんなどこかへ行ってしまった。わたしだけがここにいる。

 風が強い。波が荒れている。今日も流木が一本流れ着いた。砂浜に打ちよせられる。ひとの腕くらいの大きさ。わたしは近より、手をつかむように引き上げる。女の腕くらいの重さだ。シューズの中に海水が流れ込む。乾いた砂浜まで持っていく。気に入ったので空き地までその流木を運ぶ。抱えて坂道を上る。ときどき思うことがある。バイトの倉庫の作業中、頬杖をつく送迎バスの中、文庫本を開いて電車待ちをしているホーム、眠れないアパートの部屋の中。思うことがある。思ってみても仕方ない。

 そして空き地。丘の上、海を見下ろせる場所。少し離れたところに森があり、その入り口近くの崖に、昔の防空壕がある。この空き地にはひとがいた形跡がある。中身の入ったコンビニの袋が捨てられている。わたしは新しい流木を置いた。まだ黒く濡れている。以前あったスクールバスのカフェはなくなった。失われた黄色い車体。すみに別の白の乗用車が乗り捨てられている。タイヤが外されている。前より空き地のスペースが広くなり、その分、わたしの流木が増えた。空白を埋める腕に囲まれる。いくら集めても何にもならない。そんなことはわかっている。でもわたしは集める。流木の林。

 天気雨。風が強い。わたしは空き地の中心にタイヤを置いて座る。チューニングをするように、指で宙を探る。しばらくすると、女の声が聞こえてくる。女は意味のとれないことをしゃべりつづける。わたしは黙って聴いている。わたしが話しかけても、木霊のように同じ言葉しか返さないから。女は笑う。雨が降り注ぐ。シャツが濡れる。ポケットの文庫本は大丈夫だろうか。空は青い。わたしも笑う。女の声を聴きながらもひとりでいるのが、楽しいから。


ブルースカイ

  光冨郁也

 冬になり、女の顔をしたバードは飛び去った。わたしは、あの時の車をスクラップにして、海の見渡せる丘に部屋を借りた。情報誌でバイト先を見つけた。倉庫の仕事に就く。朝七時半、精神安定剤を飲んでから、家を出る。伝票に従い、棚にパソコンの部品を入庫する。夜八時半、家に帰り着く。休みの日は浜辺に出て、流木を拾う。

 わたしは日曜日、干してある緑の作業着をよけて、ベランダから海を眺めていた。
(今日も流木を拾いに行こう)
 わたしは部屋の鍵を閉める。洗いざらしのスニーカーをはいて、外に出る。今日は、空が低い。乾いた舗装道路を渡り、砂地の枯れ草の上を歩く。休みの日は午前十一時から外に出る。西日になる前に、部屋に戻る。それまでに流木を拾って、昼食をとる。

 遠く水平線に白い波が光っている。潮の香りがする。吹く風に、紺のダウンジャケット、ジッパーを胸元まで上げる。波打ち際を歩く。白い枯れ木を一つ見つけて、拾う。枝に小さな海草がついている。枯れ木を持って、また歩く。スニーカーの中に砂が入る。丘の上、スクールバスを改造したカフェに向かう。タイヤを車止めで固定した、黄色い車体。銀のプレートの看板。
 バス裏手の空き地、枯れ木の枝を置く。空白を埋めるため、わたしが置いた流木がいくつか傾いている。
 バスの階段を上がり、中に入る。腕時計を見ると、十二時半。カフェで、サンドイッチとホットコーヒーを注文する。わたしは本棚から、読む雑誌を探す。手に取り読む。活字に疲れると、窓の向こう、バードが飛んでいた空を見る。青い空に、翼が羽ばたく姿を思い出す。集めた枯れ木や流木に、風が砂を吹きつける。
(空の青さを取り戻すために)
 砂に生える枯れ木。その上に広がっている、窓越しの遥かな空。風が吹く。わたしが枝に付けた、バードの羽根が揺らめいている。その女の顔を思い出す。

 わたしは振り返る。ドアのガラスに、切り取られた冬の、薄い空の形。


  光冨郁也

 冬はまだ続いている。海からの光で、部屋は青に包まれている。神話の本を繰り返し読んだ。岬には女の顔をした鳥、ハーピーがいるという。元は風の精ともいわれている。そのハーピーが舞う岬から、水平線の彼方を見てみたい。

 朝、薬を飲んでから、部屋を出る。鍵を閉めた。
 ヘルメットをかぶる。コート姿で、リュックを背負い、アクセルを吹かす。スクーターを走らせる。風が眼鏡にあたる。薄い雲が空にのびている。舗装道路。エンジンの音が続く。
 左手には海岸線がある。白いガードレール。右手の雑木林、時折、建物が見える。岬までの、距離を示した標識を過ぎると、地図で確認した峠がある。乗り越えれば、岬に立てる。坂道に、アクセルを吹かす。
 危ないので、バスに道をゆずり、4WDに追い抜かれ、岬の近くに着いた。雑木林の脇にスクーターを置く。鍵を抜き去り、ヘルメットを置いて、岬に向かって歩く。空に揺らめく影。
(あれは何の鳥だろう)
 茶色の翼の鳥が小さな群れを作っている。展望台と店がある。
 階段を上がり、店員にポップコーンを注文する。品をもらい、展望台の階をもうひとつ上がる。
 ふいに羽ばたく音がある。茶色い翼の、鳥が目の前に飛び込んでくる。
(ハーピーだ)
 わたしは身をすくめる。手にしたわたしのポップコーンをハーピーがさらう。反射的に、手を隠す。ハーピーが群れをなして上から横から、茶色の翼を羽ばたかせている。

 もう少しで、岬に立てる。
(この先に何があるのか)
 浜辺を歩いた。風が吹く。わたしの背後から、ハーピーたちが群がり追い越していく。羽ばたく音を聞きながら、わたしはいつまでも曇った空を見上げている。女の顔が浮かぶ。
 岬に立った。その水平線の彼方は、微かでわたしにはまだよく見えない。わたしは片手を上げて、雲を消し去る風の精を呼ぶ。来てくれるのか、青の中に戻されるのか、わたしにはわからないけれど。


  光冨郁也

 春も夏も秋も、わたしにとっては短かった。あれから一年が過ぎ、長い冬がまたやって来た。失業し、仕事を探している。
(しばらくは会社に行かなくてすむ)
 わたしの元へは戻ってこなかったものもあった。

 情報誌を買いに朝、家を出る。砂浜とは反対の方へ歩いていく。アスファルトが靴を通して固い。目の前を走り去る車。セーターの上のダウンジャケット、ポケットに乾いた手を入れ、曇った空を見上げる。無風の朝。風の音もしない風景。バードのいない空。
 ポケットから手探りで、硬貨を取り出し数える。商店街へ向かう。コンビニまでしばらく歩く。赤い郵便ポストの角を曲がり、コンビニに着く。棚の前に立ち、アルバイト情報誌を手にし、それからほかの雑誌の表紙を眺める。手の甲であくびを隠す。ずれた眼鏡のフレームを上げる。情報誌の発売日を確かめる。情報誌とホットコーヒーを買った。外に出て、来た道を戻る。
 砂浜近く、道の脇、コンクリートの上に腰を下ろす。コーヒーの缶が熱い。缶を開ける。誰もいない部屋にはすぐには戻りたくはなかった。ひと気のない砂浜。
 コーヒーを飲む。缶を置き、情報誌をめくる。明日からフォークリフトの講習に行く。荷を上げ運ぶリフト。そのフォークリフトの仕事を参考のために探す。この近くにあるタバコの配送会社の倉庫。時給千円。フォークリフトとしては割がよくない。
 飲み干して空になった缶をコンビニの袋に入れ、情報誌を片手に、砂浜を歩く。打ち上げられた流木をつま先で軽くける。流木の上に立つ。腕を開いて重心を取る。飛ぶ形。風が吹くのを待つ。曇り空を見上げる。女のバードが飛んでいた姿を思い返す。
 砂浜に腰を下ろす。くすんだ海の上、曇った空は、冬の色。波があふれてくる。遠くで風の音がし始めたが、ここには吹いてこない。
(女の顔をしたバードは幻、もういない)


マーメイド海岸

  光冨郁也

 冬は好きではない。失業してから外出が減った。TVを見るか寝ているかだけで、二ヶ月が過ぎた。TVでマーメイド海岸のCMを何度も見る。海面から顔を出し泳ぐマーメイドの姿。面接や職安にも出かけるが、就職先はなかった。フォークリフトの免許は取ったが、作業が不得手で資格を使う気になれなかった。わたしにできることは何もない気がした。

 朝、またTVのCMを見た。海岸からTVカメラに映ったマーメイドの笑顔。信じられなかった。昼近く、部屋を抜け出し、バスに乗る。乗客は少ない。買ったばかりのジャケットを着て、北の海岸線に向かう。他に着ていく機会がなかった。伝説によれば、そこにマーメイドがいる。観光地になっている。寝すぎて頭にかすみがかかったよう。窓に頭を預け、外を眺めていた。空は曇っている。軽い偏頭痛がする。口の中が渇く。
 一時間近くバスに乗っていた。マーメイド海岸のバス停で降りる。冬の平日なので、ひとがまばらだった。白っぽい道を歩く。掲示板から観光案内のパンフレットを手に取り、海岸に向かう。カラー刷りのパンフレットの薄い紙。

<マーメイド(女)は人魚の一種で、海に生息しています。髪は長く金色で、瞳は緑色です。伝説では海難事故を起こすと恐れられていました。マーマン(男)と一緒に現れることもあります>

 マーマンも髪が長いのだろうか。マーメイドがいるわけがない。いくつかの閉ざされた売店。
 オフシーズンの海岸を歩く。黒っぽい岩をつかむ。白い波が岩に打ち付けられる。わたしはバランスをとりながら、海岸でマーメイドを探す。あたりには誰もいない。波しぶきが上がった。顔にかかる。手でぬぐう。ジーパンが波で濡れてしまった。冷たい潮風に凍える。息がわずかに白い。いるわけがない、そう思いながら海を見た。

 突然、遠く波間で、何かが耀いた。
(あれは何だろう)
 よく見ると、波に金色の髪が見える。やがて光は消え、海面に尾ひれが上がる。紺色の海がうねる。マーメイドは本当にいるのかも知れない。波が押し寄せる。海岸を歩いた。濡れたジーパンをひきずり、少しでも近づこうとする。
 波打つ海に、また金色の髪が見え隠れする。海から風が吹き付ける。遠く稲光がして、雷が鳴った。

 わたしは立ちつくしていた。しばらくして、風がやんだ。波の音も消えるころ、金色の髪に雪が降り始める。


海の上のベッド

  光冨郁也

 点滴を打たれながら、病室の窓から海を眺めていた。看護師が言うには、わたしは雪の降り積もる中、マーメイド海岸でひとり倒れていたらしい。音もなく波が白くよせている。意識が戻って二日たった。熱が下がらない。
(わたしはどうしてここにいるのだろう)
頭が痛い。片手をつかい、ティッシュで鼻をかむ。丸めたティッシュをゴミ箱に捨てたら、外れた。視線を落とすと、床が水で濡れていた。二人部屋の隣のベッドは空いている。その隣のベッドの下まで水がきている。どうして。点滴は半分になっている。そばの台の、TVの横に装置がついていて、カードを差し込むようになっている。残り時間の少ないカード。することがなく、TVをつける。イヤホンをつける。
 ワイドショーのニュースが放送されている。ずっと眺める。評論家が何かコメントしている途中でCMにはいった。

 紺色の海。空は曇っている。ひとりの青年が海岸を歩いている。マーメイドが姿を現わす。〈マーメイド海岸〉の文字と音声。

 TVのカードの残り時間が切れた。電源の切れた暗い画面に、自分と背後の窓が映る。たわむ色のない世界。物音しない病室。点滴はもう液がなくなりかけている。そろそろ看護師が来るころだろう。二の腕にさしている点滴のチューブを見つめる。透明な液がわたしに流れている。
 何かの気配があったような気がした。イヤホンを外す。TVとは反対の窓のほうを見る。
 女がベッドのわきにいた。動きがとれない。女は長い爪でシーツをつかんでいる。女は手をのばし、わたしの自由のほうの二の腕をなでる。女の手は濡れて冷たい。女は顔を近づける。緑色の瞳がわたしをとらえる。しばらく見つめ合った。キレイだ。海の底、深く透明な色をしている。女は、

 ノックとともにドアが開く。看護師が点滴を片づけに来た。熱をはかるよう体温計をわたされた。体温計を受け取り、脇にはさむ。時間に追われる看護師が退室する。白衣の後ろ姿、閉まるドア。TVの暗い画面に映る、わたしと女。女のほうに首を曲げる。女の肩口から、大きな尾びれがゆっくりと上がる。床に海水が満ちてきて、波打っている。ベッドの周りは海だ。紺色の海。電子体温計が鳴る。空気が冷えてくる。室内に小雪が降り始めた。寒い。女は、体温を求めるように、指をからめてきた。女の髪がわたしの頬にかかる。緑色の瞳。被さる女。唇がふさがれる。震える。静かに、電子体温計が海に落ちた。

 海の上のベッド。もうすぐわたしは、女に海の底へとひきずりこまれる。海の中は思ったよりあたたかい。


霧(ミスト)

  光冨郁也

 女はわたしといっしょに海の中に入りたいと言った。女には尾びれがあり、わたしには足があった。わたしたちはあのとき、海に入っていった。女が先に進み、わたしは後ろからついていく。波が胸元まで来たところで、手を握りあい、先に進んだ。波は繰り返しやってくる。小雪はやみ、霧に変わった。
 気づけば、わたしはまた病院のベッドの上にいた。
「−−さん、あなたは漂流していたのよ」
 看護師はそう言って笑う。

 診察室で医師と向かいあう椅子から、外を眺めていた。わたしは島の近くを漂流していたらしい。その話を医師から聞いた。マーメイド海岸から船で一時間ほどの距離。歩いては渡れない。
 看護師は、体温計を持ってくる。薬がなくなったので置いていく。わたしはコップの水を飲む。パジャマに水がこぼれる。薬を口に含み、また水を飲む。
 看護師は、点滴を打ちにくる。わたしはいつもトイレが近くなる。点滴スタンドを動かしながら、部屋を出る。廊下を歩く。前にも歩いていたような気もする。誰もいない廊下は、長く感じる。
 点滴のチューブを血が逆流している。透明な液に血がまじる。霧のよう。わたしは用を足し、ゆっくりと部屋に戻る。
 窓からは海は見えなかった。
 けだるい。テーブルの上の薬袋。ここの病室にはTVがない。個室のベッドでCDをヘッドホンで聴いていた。誰かの忘れ物を借りた。その音楽を聴いていると、体が揺らぐ。波間にいるよう。

 目が覚める。トイレに立つ。汗をかいている。誰もいない暗い廊下を歩く。用を足し、水を流す。蛇口をひねり、水を出し、手を洗う。鏡で自分の顔を見て、部屋に戻る。眠る。目が覚めそうになる。わたしは何かを考えている。何かを話している。でもそれが何なのか、わからない、つかみきれない。そのまま、何かが流れていってしまう。
 波にもまれる。何かが消えていきそうになるが、今度は忘れない。女の手がわたしをつかむ。海の中、わたしは、握り返す。波がわたしを押し返す。手が離れてしまう。漂う。わたしは仰向けになる。空を見上げながら、流される。どの位たったのだろうか、頭と背に砂地の感触。わたしは再び、霧に包まれた。

(わたしは漂着したのだろうか、それともまだ漂流しているのだろうか)


バラ線

  光冨郁也

銀色の刺に、凍える、空気は、
青い空の下で、
白い、息をつき、声がもれる、
頬の骨に、拳が石のようにあたる。

わたしは、
バラ線を後ろに、殴られる。
放り出された、ランドセルの黒い光。
ふった手の指を、銀の刺で切る。
数人の笑い声を後に、
片方、靴のぬげた足を、見ながら、
膝を曲げて、土の上で丸くなる。
鼻をすすりながら、体をゆすっていた。
後ろに首を曲げる、
バラ線が、銀色に光る。

学生鞄を投げつけられる、体育館。
ブレザーをひっぱり、
何度も、級友たちが、
わたしに群がり、床に倒そうとする。
遊び半分のしつこい、数人相手に、
わたしは、声をあげて、つかみ、
(本気で)蹴りをいれ、腕をあげる。
見上げる高い天井が、回転し、
目に見えるものが、入り乱れ、
ネクタイが舞う。

/殴られ/
目を・見開き/
わたしの/腕の・白い包帯/
教師の・叱責する声/
校舎の・裏で/蹴られる/
わたしの・手の・ひらに/鉛筆が・ささる/
教室の・床に/点々・と・落ちる/
血が・黒い/
(みんな・敵・だった)//
床に・頭を・うちつける/
ジャムだらけの机の中。

わたしは片膝を落とし、
こらえ、姿勢を立て直す。
囲む影に、声が共鳴する。
彼らの一人に、ターゲットをしぼり、
腹に拳をいれ、
かがんだ背に肘を落とす。
動きのとれにくい中に、
繰り返す蹴り、床をはう彼の、
「なんで・俺ばかり・狙うんだ//」
悲鳴に近い、ふてくされた声。
頭を抱え、うずくまる彼は、
蒼白の、わたしの姿だった。
わたしは、
わたしに、
蹴りをいれつづける、
足がしびれる。
顔をしかめ、目を見開き、
喉をつまらせながら、
わたしは、
わたしの背に、痛みを与えつづける。
沈んでいく、体が重い。

小さい手で、
花のない刺に、自分の指をからめる。
残りの靴をひきずり、ランドセルを拾い上げ、
だれもいない道を、歩きだしながら、
わたしは下唇をかみ、
空をあおぎ、肩をゆすり、
声をふるわせ笑う、空気がゆれる。
わたしの握り締めた、
声のだせない、バラ線。
その向こうには、
雑草にゆれる空き地に、
石の上に、放られた靴のかたわれ。


淡水魚

  光冨郁也

七月の雨、
アルバイトの休日、
自らの髪をかきあげる。
爪から指の間に、流れる。
部屋には、青い光の点滅がある。
わずかに開けた窓からは、水の音がする。
身体を曲げて、寝返りをうつ。
手を伸ばし、コロンのビンをとる。
なめらかなビンの感触。
指をからめる薄い幅の形。
青いコロンを、
胸にかけ、手を床に落とす。
微かに霧が、空中をただよう。
白いカーテンから、もれるのは、ぼやけた光。

テーブルの上の、水槽に、
一匹だけの、ベタが、
長いひれを、ひらめかせて、青い。
水草の気泡がゆれる。
ガラスのケースに、水滴がついている。

外は雨音。うたたねを繰り返す。
自分の肌に頬をつけ、
寝返りをうつ。風がある。

ベタが水面から空気をとるため、
顔をだす。
ゆっくりと、息をして、
水槽の底に沈む。
ほかのベタと一緒だと、
一匹になるまで争う、
闘魚。

水草に隠れて、
泡だけがこぼれるように、
水面に向かい、小さく壊れていく。

目を開けると、外は夜の激しい雨。
わたしは、自分の肩を抱いている。
先日の、入庫のアルバイトで、
知らずに痛めた肩が、はれている。
フロアで、
わたしと視線を合わせる女が、ちらつく。
(何でわたしを見る)
喉が渇くので、
氷水をつくりに部屋をでようと、
ベッドから起き上がる。
そのまま、腰かけ、
息を吐く。
指先で筋肉のほてりを押さえる。
肩からしびれる指先までの、
輪郭が、青い光の点滅で浮き上がる。
拳を握る。
窓から雨が降り注ぎ、床にはう。
わたしの夜の、静かな、沈黙。

足元が濡れている。
女の形の水草が、頭を上げる。
足首をつかむのは、
あふれてくる、水草の手。
腰に、水草の脚があたる。
わたしの肩に、水草の腕がまわる。
わたしの首に、顔をうずめる。
唇の形を確かめたく、
わたしは、水草のあごに指をかける。

紅に塗られた輪郭に、爪がすべる。
水草の目を見つめる。
水草の透明な瞳を通して、
夜の風だけが、覗ける。

ひんやりとしたコロンの、
ビンの中に、
わたしはやがて、閉じ込められる。
指をからめられ、
水草と結ばれるように、
長いひれをなびかせて、
水面から顔をだし、
わたしは、息をするために、歯を見せる。


  光冨郁也

祖父のあとをついていく。

海を見渡す墓地で、親せきたちが鎌で草を刈る。わたしも草を刈る。

母が野の百合を、見つけ出した墓に供えた。

波は白い。


点のカイト

  光冨郁也

江ノ島の砂浜で、
少年だったわたしは、
父とカイトを、飛ばした。
父の、大きな背の、
後ろで空を見上げる。
埋まる足元と、手につく砂。
潮風に乗って、
黒い三角形のカイトは、
糸をはりつめて、遠く浮かぶ、
追いつくことのできない、
二人で見続ける、
空の点。

ヘッドホンで、
CDを聴く夜。
不安をやわらげるため、
処方された漢方薬、
薄い茶色の、舌にはりつく、
顆粒を、
ウーロン茶で、二回にわけて、飲む。
オウム貝の、ライトの明かりだけで、
眠くなるまで、
ベッドの中から、
床のすみに放られた、
アルバムを手にする。
オレンジに照らすページを開くと、
正月に、江ノ島で遊ぶ写真があった。
腰を曲げ、
黒いカイトの糸をほどく、父と、
紙袋を後ろ手にしている、わたし。
それぞれ、帽子をかぶり、
色黒の父と、
色白のわたしが、
カメラのレンズの側の、
母に向かって、笑っている。

半身を起こし、
わたしの横顔を、
ストロボより激しい、
カミナリの光が照らす。
腕を伸ばし、窓を開け、
二十年は会っていない、
亡き父はどこかと、空をあおぐ。

いま、
黒い点が拡がり、
巨大なカイトで覆われた、
夜の空から、雨が降り注ぐ。
カイトのビニールにあたる音。
わたしは、枕元のライトで、
一眼レフの脇の、
紺の帽子を探し、かぶり、
湿った風の匂いに、
こぼれた薬が、
胸もとに散らばり、
さわってみると、砂の感触がある。


漂着

  光冨郁也

    


 揺れている。揺れている船の上、喉が渇くので、ペットボトルの口を開ける。ミネラルウォーターを飲む。
(ひたすら漂いたい気分だ)
 わたしは退院後、船で島に向かっていた。誰もいないところに行ってみたかった。風が吹いている。甲板の椅子にすわり、海を眺める。曇った空に波立つ海。わたしは立ち、手すりに近づき、そこから薬を海に捨てた。錠剤の入った銀や金のパッケージが風にあおられ、光っては波間に消えていった。

 その日の午後に港に着き、民宿に泊まった。簡素な料理を出してもらった。赤い刺身に、白いご飯。
 見たこともないバラエティ番組、地元のローカルTVを見ながら食事をとった。霧の日に無人島が現れ、そこでマーメイドが出没するという。タレントの驚いた顔。フロに入ると、窓から海が見える。波の音を聞く。
 天井を眺めていた夜、薬を飲まなくても、いつしか眠っていた。

 朝、霧の中、ペットボトルを持って、島のまわりを歩き回った。さまよって、海岸を歩く。ぼんやりと岩の上で海を眺めた。
 わたしは服を着たまま、ひとりで海に入っていく。漂いたかった。手を拡げ、しばらく浮かんでいたが、潮に流される。ペットボトルもどこかへいってしまった。もう必要ない。水を吸い、ジーパンが重い。体も冷えてきて、自由がきかない。わたしはじきに沈んでいってしまう。

 海の底では時間が滞っているのだろう。沈んでいってしまう。それでもいい。海水を飲む。ふいにだれかが、わたしを抱きかかえた。大きな尾びれが、わたしの体を海面へと引き上げた。わたしは水で咳き込む。
 女だった。女の緑色の目が、わたしに泳ぐよう、うながしている。女はわたしに手を回して、島とは反対の方向の沖へと向かった。彼方に別の、小さな島の影が見えた。例の無人島かもしれない。女の手を握り、わたしも力なく、泳ぐ。海水が目にしみる。

 どのくらいか進んだのだろうか。霧に島の影が消えている。空がやけに低い。雨が降りそうだ。振り返ってみたが何も見えない。方向を見失ったらしい。次第にかったるくなる。漂いたかった。
 わたしは握っていた女の手を離した。女は振り返ってわたしの顔を見ていたが、しばらくして無言で潜っていってしまう。愛想をつかれたのか、それとも島を探しに行ったのか。波が来るたびに、浮かんだり沈んだりを繰り返す。まばらな雨粒が顔に当たる。仰向けになり、ぼんやりと雨空を眺める。冷たい風が吹く。弧を描く水平線に囲まれている。わたしはひとりだ。さびしいが、それもいい。

 霧が晴れたころ、海面に尾びれが上がる。回転し、再び顔を出した女が、現れた島を指さす。女はわたしに、もう片方の手を伸ばした。それもいい。
 わたしは女の元へと漂着する。


スカイライン

  光冨郁也

手で、ずれた眼鏡をあげる、八月の、水をふくむ、曇り空。閉鎖された父の勤務先、N社の自動車工場の脇を通り、母の自動車で、霊園に向かう。いままで納めることのできなかった、父の灰が、眠っている。わたしは、新しい眼鏡をかけて、暑い日の、風が、短く切った髪に、距離を教えてくれる。昔、山口から離れて、転々とし、三人ではじめて来た、神奈川の小さな町、住宅地に変わった、かつての田舎道を走る。

走る。風が、熱い。買ったばかりの半ズボンに、袖なしのシャツが、風にはためく。地平の彼方には、見えないものがある。耳に風が音をたてる。母は目の前の車が遅いと、ハンドルを握りながら、怒っている。わたしは黙って、頬を支える手の脇から、外の流れる市街を見る。

 団地の狭い部屋、
 母は、わたしに声をあげ続けていた。
 その夜、母は、
 トイレで、
 嗚咽しはじめる。
 動けないわたしの、
 手の汗で、布団が濡れる。
 わたしは、近所にあずけられた。

 翌朝、父がわたしを迎えにくる。
 はれた目をこすり、
 わたしは、強く、父の手を握る。

(お母さんは帰ってこなかったお父さんも会社からまだ帰らないぼくしかいない部屋ぼくはひとりで窓の外の明かりかわいたおにぎりをかじるひとつだけもつあとは鏡台の裏に隠す味がないだれもいないだれもなにも言わないぼくだけ鍵が落ちるぼくは息をひそめる雨の音がしはじめる外の明かりでぼくはコップの中の水を飲む)

 母が退院して、
 引越をした。
 日がさしこむ、床。
 三人の、青空に、
 部屋は、広く、明るくなる。
  
 父と並んで、
 グローブと、ボールをもって、
 キャッチボールをしに行く、
 たてに長い公園。
 一球だけ、父を驚かせた、
 速球の、重い音の響きに、
 わたしはグローブを、
 胸にあてて、笑う。
 ボールを投げ返す、父の手。

 一年後の、折れた春。
 わたしは、ふすまの陰から、書斎を覗く。
 原稿用紙に、
 向かう父は、
 机に万年筆を叩きつけ壊した。
 病室に移る前の、
 部屋とともに残る、背中。
 髪をかきむしる、手。

クーラーもろくに効かない、車の中、わたしは、母と違う方向を見ながら、朝そった無精ひげの、残りを手でさすっている。丘をのぼる、地平線の先、その光景を、わたしは見たくなり、身を起こす。

二十二年目の遅い夏に、セミが鳴く。せっかちに先に歩く母と、後ろからつく施主のわたしは、父の、墓に、名前を認める。母は石を見て、繰り返し聞く言葉を、独り言のようにつぶやく。
「いままでお墓を建てる力がなかったのよ」
母の手の傍らで、線香の煙がそよぐ。
わたしは、眼鏡をシャツでふいて、胸にあてる。
水の底にいるように、自分の息づかいだけが聞こえる。指先の汗が、レンズを濡らす。湿った風が、緑を、光る波に変える。

(お父さんと本立てをつくる「いいできだろう」とお父さんは言う右と左の形が違うぼくは首をかしげるお父さんは「いやならいい」本立てを、手にとり壊す
/ぼくは)

わたしは、ひっそりと、三人だけの、青い空を呼びよせる。

(父さん、手は、痛くはないですか)


夏風邪

  光冨郁也

 わたしは失業し、夏を迎えた。記録的な真夏日が続いている。ここしばらく風邪をひいていた。咳が出る。寒気がする。頭の中に響く女の声は聞こえなくなっていた。冷蔵庫が空になったので、久しぶりにアパートから外へ出た。いつも通う空き地の車は知らないうちに撤去されていた。薬を飲むが、いつまでも治らない。午前中はベッドで過ごし、昼空腹になると外出した。浜辺を歩いていたら、どこかで神話の本をなくしたことに気づいた。あの本には思い入れがあったのに。図書館、マンガ喫茶、アパートの道のり、いつもの浜辺をさまよった。読むべき本を探すが、わたしのために書かれた本はどこにもなかった。買ってみたけれど、携帯電話には、迷惑メールばかりが百通以上届いている。
 風邪をひく前は三度、倒れた。内科医に相談すると、神経のせいではないか、と言う。まわりに光の筋がいくつも見えはじめる。その光に囲まれ、わたしは倒れる。わたしはいっとき空白になる。精神科医は首をかしげる。
 空き地の車がなくなり、本をなくし、わたしに話しかけるものはなくなった。わたしは誰にも相手にされなくなり、抗不安剤が一種類増えた。言葉を忘れてしまいそう。生活のため毎日、少しずつ預金を切り崩して、そのうち何もなくなるのだろう。わたしは携帯電話の受信メールをすべて削除した。

 マンガ喫茶の帰り、薬局で風邪薬をまた買って、空き地によった。空き地、真ん中にタイヤだけがある。いつものようにタイヤの上に座る。もう女の声はしない。波の音も風の音もしない。自分の呼吸の音さえ聞こえない。日が照りつけているのに、わたしは寒い。捨てられた車の中で見た、女の姿を思い出す。思い出すが、どうにもならない。

 わたしが運んだ流木の林がある。はじめ引き上げたときは黒く濡れていたのに、みな白く乾いている。林の向こうには鈍い色の海があり、その上には空白がある。手を伸ばせば空白に届くかもしれない。そう思っていたときもある。咳をしながら、浜辺まで歩いていった。女の声を思い出す。言葉にならない声。閉じた空間に、風が響いているような声。本はあるだろうか、どこへ行けば見つかるだろうか。空き地、道路、砂浜、波、水平線。空の空白と海の深さが混じり合うところ。わたしの胸の空白からも、とぎれとぎれの咳が出る。


斜線ノ空

  みつとみ

カーテンのすきまから、
むかいの住宅の屋根のうえ、
うすくもり空を見上げる。
幾本もの電線が斜めに走っている。

窓を開けると、
わずかに残されたうすい青から、
凍えた風が吹きこむ。
手をさしのばすと、
ふいに、指先が切れる。
見えない有刺鉄線が、
空と街とを区切っている。

(ソノ先ニ手ヲノバセバ、
(光ニ触レラレルダロウカ。

わたしは、さらに空に手をのばす。
透ける世界の縁をつかんだ。
(傾イテイル。
指先に力をいれると、傷口から血がにじみでる。


(光冨郁也)


色彩のカラダ

  みつとみ

わたしのカラダ。
植物のツタのようにほそくねじれて、
せかいの天蓋にむけて、
のびていきます。

くるぶしまでのひたる水。
は さざなみのように、
わたしをすくめ。

日のひかりいっぱいにあびて。
風 にふかれて葉がゆれる、
色彩のカラダ。

ゆれる紅の花を咲かせます。
おおきく手をそらいっぱいひろげて。
色彩のカラダ、
せかいの天蓋をこじあけます。


(光冨郁也)


乾電池

  みつとみ

 夏風邪が治ったころ。台風が接近する前。あさってには北上し、上陸するとTVが予報を流していた。デパートのミニ扇風機はもう売れ切れていた。わたしに必要なものはデパートには売っていなかった。その帰りに、なくしたものと思っていた、神話の本を、浜辺の流木の陰で見つけた。本は水を吸ってふくれている。表紙の砂をそっとぬぐう。表紙の精霊の女の横顔がにじんでいる。台風が来たら、きっと本は波で流されていただろう。
 本を手にすると、女の声が聞こえる。何を言っているのか意味のとれない、言葉にならない声だ。女の声はかすれている。とぎれとぎれに声は風に運ばれてくるように、わたしの体に伝わってくる。曇った空の隙間から光がかすかに差している。
 後ろポケットに本を突っ込み、わたしは空き地に戻った。けれども乗り捨てられた車はもう撤去され、ただタイヤだけが残っている。タイヤの上に立ち、女の声を探して。どうしたら会えるだろうか。辺りを見渡す。空き地のすみにはコンビニの袋が捨てられている。

 わたしはコンビニに向かった。乾電池を何本か買う。乾電池の数を確かめる。どこに行ったら女に会えるだろうか。台風が来る前の海岸通りは凪だった。自分の鼓動の音だけが聞こえる。通りを右に左にさまよう。きっとあるはずだ。女の声はまだしている。わたしは掲示板の地図により、それに見入った。自分のアパート、浜辺、空き地、道路、バス停、コンビニ、デパート。
 スクラップ置き場。地図の方角と実際の道の方向を確かめ、走った。デパートの裏手から、走ったり、歩いたりして十分、町の自動車工場のわきにあった。
 スクラップ置き場、に置かれた車。高く積まれている車は、不安定に見える。塗装のはげた車、ドアのとれた車、フロントがつぶれた車。そして角の手前にあった、タイヤのない白いセダン。
 近より外から見た。ダッシュボードの上のミニ扇風機。わたしは車のドアを開けた。中に入る。ミニ扇風機を手に取り、スイッチを押す。プロペラは回らなかった。そして、コンビニの袋から乾電池を取り出す。乾電池を入れ直し、ドアを閉めた。ミニ扇風機がゆっくりと動き始める。回った。が、プロペラはすぐに止まってしまう。電池を入れ直す。スイッチを押す。スケルトンのボディから配線を眺める。また電池を入れ直す。スイッチを入れる。動いた。わたしはフロントにミニ扇風機を置き、誰もいない助手席に向けた。風が吹く。プロペラの回る音だけがしている。西日が差し込みはじめている。プロペラの風が吹く。
 その風の先から、透明な女の髪が、光りながら揺らぎ出す。次第に女の姿が浮かび上がる。女は正面を見つめている。わたしも同じ方向を見る。スクラップ置き場の廃車の山の間から見えるのは、縦に切り取られた深く蒼い海だった。

 女はしんきろうのようにゆらいでいる。わたしは半透明な女の手を握ろうと手を伸ばす。女は振り向き、ゆっくりと笑うように目をつむった。指が触れようとする、その端から、光の砂となって、女のかたちをしたものが崩れていく。髪の先が風に舞い上がり、消えていく。わたしがつかもうとした手は、表紙の痛んだ本に変わっていった。挟んであった栞も見当たらない。ミニ扇風機の電池は切れていた。新しい電池を入れるが、もう動かない。壊れてしまった。寿命の尽きた電池がシートの下に落ちていく。オモチャのミニ扇風機を握りしめる。
(わたしがふれようとしたものは)
 わたしは空いた助手席の本に、手を重ね、そのまま、夜を迎えた。本をつかみ、腿の上におく。まだ台風がこない夜は、透明で、静かで、やわらかだった。女が、まだ、そばにいるような、そんな気がして。目を閉じると、光っている何かが見える。本から手をはなし、のばせば、何かにふれられるような。


*「バードシリーズ最終章」/シリーズ中、これだけ投入してなかったので。


平野

  みつとみ

風の音。わたしは平野に立つ。西の空は錆びた色をしている。

離れたところ、陸橋に車が列を作って走り去る。月が風に揺れている。風の音が、遠くの車の音が、わたしの耳の中の音が、入り交じっては、かき消されていく。

わたしは立っている。ひたすら乾いている。風に吹かれて、舞う土埃を浴びて。
 
ゆっくりと軋みながら、傾いていく世界、わたしはひとり平野に立ち続ける。西の空が紺色に風化シテイク。


燃料切れ

  みつとみ

 ひとりでどのくらい走ったのだろうか。アクセルを踏み続け、狼と平行して草原を突き抜けた。車体に草や砂利があたった。街の明かりは遠く、荒れた地の草は時に刃物となって、金属をも切り裂く。途中、音がしたので、岩でタンクが裂けたのかもしれない。やがて車は動かなくなり、メーターは0を示した。ガソリンが切れた車から、しずかにかげる地平を見ていた。斜め下方、日が暮れかかっている。ハンドルの汗ばんだ手をはなし、眼鏡のフレームを上げる。指ひとつ分、見える光景が上下する。

 ジャケットの襟を立てて、ガラス一枚に冷え始めた空気が隔たられている。地平、風で草むらが波打っている。なびく草の先。遠くこの平野は、海につながっている。焼けた西の空から、風が吹きつづけている。
 かすかに蒸発したガソリンと古いシートの匂いしかしない。わたしのまわり、ガラス窓から顔をだすのは狼の目と鼻。一頭、また一頭とわたしの車を囲む。獣の灰色がかった銀の毛が風になびく。窓ガラス一枚、車体の金属一枚で、わたしは隔てられている。狼、この地では滅びたはずの種族。

 一頭、また一頭、増えてくる。うろつく。七頭はいる。ときおり光る眼。
 ダッシュボードを開ける。なにか役にたつものはないか。車のマニュアル本、車検証、ジッポのライター、ティッシュ。地図。足下の赤い発煙筒。ナイフはない。しかたなく閉める。
 もう一度、アクセルを踏むが、車は動かない。拳でクラクションを叩く。その音に、染まる雲は裂けていく。

 日が暮れた。風が車の窓にあたる。いつしかハンドルをつかむ手は乾いていた。狼らは見えない。力なくエンジンのキーをとめ、また回す。なにも変わらない。シートにもたれる。身体が重い。顔をあげて、前方を凝視する。気分が悪くなって、手で口をふさぐ。指があごの輪郭をつかむ。寒い。暗い地平には限りがなく、そして夜は続く。
 窓から見える影の大地と、紺色の空とに挟まれ、わたしは眠りにつこうとしている。

(この地にひとり取り残されてしまった)


砂漠となる

  みつとみ

 冬の空は乾いている。車のデジタル時計を見る。空腹で気持ちがわるく、くらみを覚える。午前9時。いや10時だったろうか。昨夜、車の周りにいた狼らはいなくなっていた。車の外に出る。眼鏡のフレームを人差し指で上げる。ライターをジーンズのポケットに入れる。荒れ地を歩く。だるい。ふらつく。空を仰ぐと、ただ青い。風が吹くたびに、錆びた色の草が波打ち、地平まで広がっていく。草原という海原でひとり漂流している。空っぽの胸のなかまで、風が音を立てて、吹き込んでいく。

 歩く。スニーカーがこんなに重いなんて。歩く。ざわつく肺に、吐き気がして、腰に手を置く。頭が熱くなる、視界に光の尾がいくつも回り出す。身体が固いものに押しつけられたように傾く。意識が渦のなかにのみこまれる。地にひざを付け、わたしは倒れた。

 寒い空の下で、わたしは汗をかいている。額から流れた汗がこめかみをつたう。幼子のように体を丸める。枯れた草がわたしを包み込む。ずれた眼鏡の位置を直しながら、眠る。草の端が口の中にはいる。乾いた味だ。

 仰向けになる。地べたから見上げる空は、きれいだ。透明な青い色。眼鏡のレンズ一枚分隔たっている、距離。手を差し伸ばしてみる。何もつかめないけれど、空へ。薄ぺらい雲の隙間から、太陽が現れてくる。ゆっくりと。そして雲に隠れる。風が地を這ってわたしの顔を撫ぜる。空には何もないのはわかっているのに。風にさらされ、わたしはゆっくりと冬の砂漠になる。

 のどが渇く。水を飲みたい。口を開ける。虚空に向けて。水の代わりに乾いた風が口のなかに吹きこむ。
 眼を開けると、冷めたい太陽が空一杯に広がっていた。まぶしい。砂となったわたしの身体を、風が吹き飛ばしていく。


*平川先生のご指摘の点、検討して修正しました。ダーザイン校長のご指摘の件は、この板では修正は無理です。冬休みの宿題ということで、いつか詩集にするときまでに考えておきます。


サイレント・ブルー

  みつとみ

自分すら他人に思える夜。わたしは無精ひげに、アクセサリーの水晶をつける。本を拾い読みし、起き上がりベッドにすわる。マリン・ブルーの表紙に手を置く。こめかみが痛い。胸に水晶の玉がゆれてあたる。外を走るバイクの音。遠くから救急車のサイレンがし、近くの駐車場から話し声がする。

眼鏡を床から拾い上げ、暗い階段を降りていく。狭い廊下をふらつきながら、浴室の戸を開ける。服を脱ぎ捨て、近くの、ラジカセで、FMをかけると、女性DJの、声が聞こえる。明かりが点滅している。カセットテープで、波の音を聞く。浴室に入り、アクセサリーをつけたまま、浴槽に、身を沈めていると、窓の外で、雨の音がしはじめる。眼鏡をはずし、棚に置く。頭の後ろ、港と海の写真が、正面の鏡に映る。

水をすくう手で、顔を覆う。鼻の両脇から、あごへと、指がなぞる。口内炎が傷む。閉じた目を開けると、明かりが切れ、窓の街灯の、青い光に、水面がゆらめいている。体についた、古い小さな傷を上からなぞる。左の手の平の、奥にあるほくろのような、鉛筆をさされた痕。右手首、化膿して盛り上がった痕。左足かかと近くの、肉のえぐれた痕。左腹部の大きな茶色のあざ。ひたいの疱瘡のくぼみ。二の腕の、赤く長い傷は、まだ痛む。手に、緑の長い髪がからまる。

胸にさげた、丸い水晶を指でさぐる。水からとりだし、斜めからさしこむ、夜の光にあてる。金の鎖と、鋭い爪につかまれた球体。

テープが途中でとまり、雨音だけがする。アクセサリーを沈め、浴槽に頭をあずける。正面にある、小さな鏡に映る、前髪のたれた顔は、ぼやけて見えない。水面に目を落とす、と、ゆらぐ湯が、体に手をまわす。濡れた髪がまつげにかかり、水滴が目に流れ込む。左の唇を吸い込む。内側でふくらみ、盛り上がっている。眉をひそめ、ふるわす。

膝を曲げたまま、壁に体を倒し、閉じた目に、静かな、青が、わたしを眠りにさそい、水晶を、唇におしつける。むせび、体をゆすり、水が波うつ。

入浴剤の青が、ゆれる、銀色の浴槽。子どものように身をちぢめ、暗い上を見る。見えない空、夜の海で眠ろうとしている。わたしを支え、静かに手をとって、沖に運んでくれる。曲げた四肢を伸ばし、届かない足の先に、海流がある。つかまれた手は伸びきり、ひきずられていく。風が星のありかを教え、斜めの空にまばたく。潮から、はねる水が、口に入り、口内炎にしみる。乏しい視力に、ゆく先は知れない。腰のくびれに、だれかの手がまわる。わたしを支えるだれかを、認められない。首をねじまげると、風が水滴とともに、目に入る。つむる。風の音がする。波がわたしの首筋をうつ。見えない手が、左の足首をつかむ。肉のえぐれた痕に爪がかかる。わたしの髪は海面の下で舞う。気泡が包む。暗い空が、一転する。下半身にうろこがあたる。青白い肌の女が、わたしをすくめる。彼女の筋肉が陰影をもつ。

太陽が海面の上で、光をはなっている。海中から見上げる空は、静かな青。いく筋もの光がわたしをつかもうとする。女の腕の中、乳房に頭をあずけ、浴室に置き忘れた眼鏡を気にしながら、わたしは子どものように、身をまかす。彼女のひれがわたしの足にあたり、彼女の緑の、長い髪が、わたしの首筋にからまる。海の底、女に抱かれた、はだかのわたしに、魚が、群がる、静かな青。女は、わたしの二の腕に唇をあて、舌をはわせ、歯をたてる。のぞきこむ彼女の目から、わたしは視線をそらす。

ふいに、車の音がする。母が庭先に車を駐車しようとしている。近視の目を開けると、窓から風が吹いている。わたしがよりかかっていた銀の浴槽から、頭を起こす。そのまま、長い吐息を水面につく。後ろの海の写真で、水がはね、鏡にオビレが映り、消える。わたしの、ぼやけた視界に、海がゆらめく。

わたし、しかいない浴室で、折った膝を抱える、アクセサリーの球面。


白の誕生日

  みつとみ

二月十三日、
雪が降るのを、
自室で待つ。
母から贈られた、
防寒コートをきて、
窓の向こうから、
薄い光がさしている。

コートの上に、
毛布をかぶり、
書いたばかりの、
自分の手紙を読み返す。
ひとりで、
グラスについだ、
リキュールを飲む。
冷めた空気が、
わたしをつつみこんでいく。

十年前、
わたしの上に、
降り注いだ雪は、
決して美しいだけの、
冬の情景ではなかったが、
ハクレンガの屋上から、
地平につもる雪を、
震えながら、
見つめつづけていた、
二十歳の誕生日。
それでも待っていた、
雪はまだ降らないのかと。
暖房をいれずに、
生まれたときと同じように、
雪が降りつもらないかと。

二年前からある、
パソコンの、
インターネットをしていた、
ディスプレイの脇、
(会ったことのない)
文通相手から、
はやめに届いていた、
チョコレートの、
紺の箱を、斜めにたてる。

そばの、
CDコンポから、
静かに音楽が、
エンドレスで流れ、
白い封筒に手紙を入れる。
二年前からあるパソコン、
昨夜、ネットをしていた、
(だれの顔も見なくてすむ)
ディスプレイ、
ワープロソフト、
点滅するカーソルを、
しばらく見つめつづける。

わたしは、
この身につもる、雪を待つ。


砂漠となる(改作)

  みつとみ

 血も抜けたのだろう、冬の空は乾いている。遠くで鳥の鳴き声がしている。車のデジタル時計を見る。空腹で気持ちがわるく、くらみを覚える。午前9時。いや10時だったろうか。もう時間など意味はないかもしれない。昨夜、車の周りにいた数頭の狼らはいなくなっていた。眼鏡のフレームを人差し指で上げる。ライターをジーンズのポケットに入れる。おぼつかなく、車の外に出る。荒れ地を歩く。だるい。ふらつく。空を仰ぐと、ただ青い。風が吹くたびに、荒れ地に点々とした錆びた色の草が波打ち、地平まで広がっていく。振り返るときのうまで、後方の草原という海原でひとり漂流していたのがわかる。空っぽの胸のなかまで、風が音を立てて、吹き込んでいく。

 荒れ地を歩いた、スニーカーがこんなに重いなんて。石をふみ、小さな枯れ木をまたぐ。茶色い鳥の羽根が落ちている。ただ歩く、そのざわつく肺に、吐き気がして、腰に手を置く。頭が熱くなる、視界に光の尾がいくつも回り出す。身体が固いものに押しつけられたように傾く。意識が渦のなかにのみこまれる。ゆっくりと地にひざを付け、わたしは倒れてしまった。
 寒い空の下で、わたしは汗をかいている。なにかの影が頭上を横切る。額から流れた汗がこめかみをつたう。幼子のように体を丸める。いだかれたい。枯れた草がわたしを包み込む。ずれた眼鏡の位置を直しながら、眠る。草の端が口の中にはいる。乾いた味だ。そのうちなにもわからなくなる、まぶたをとじた闇のなかで。

 手で宙をはらい、仰向けになる。うっすらと目を開けた。ぼやけた視界がしだいに明らかになる。地べたから見上げる空は、透明な青い色。眼鏡のレンズ一枚分隔たっている、距離。手を差し伸ばしてみる。何もつかめない。薄ぺらい雲の隙間から、太陽が現れてくる。ゆっくりと。なにかの影に隠れる。風が地を這ってわたしの顔を撫ぜる。空には何もない、風の音。手をおろす。乾いた砂地に指が触れる。砂をつかんでみる。その手のなかの砂から、わたしは浸食されていった、目をつむる。のどが渇く。水を飲みたい。口を開ける。水の代わりに乾いた風が口のなかに吹きこむ。風にさらされ、わたしはゆっくりと冬の砂漠になる。

 頭上で何かが鳴いた。片目を開く。わたしのまわりを旋回している。鳥らしい。大きい。その翼を見ながらも、身体は動かない。
(朽ちるのか)
 そうぼんやりと考える。骨になったわたしを、乾いた風が遠く海へと運んでくれるのだろう。
 両目を開けると、冷めたい太陽が空一杯に広がっていた。まぶしい。白い光の輪の中心から、斜めに光の槍がわたしに振り下ろされている。光の槍につらぬかれ、砂となったわたしの身体は、風に吹き飛ばされていく。
 細胞一つひとつが、砂となり、宙に吹き上げられていく。わたしの意識が、舞い上がり、四散して、ふいに脚を前にだした鳥が勢いよく突き抜ける。

 そしてわたしは、鳥の爪によって、地上に、叩き落とされた。


コミック雑誌

  みつとみ

その日、だれかに呼ばれたような気がして、家から外にでた。近所の、さくらの並木通り、書店でコミック雑誌を買う。花を見ながら、小学校の前を通りすぎ、病院へと向かう。となりのレストランの、外壁の大きな鏡に、通りすぎるわたしの姿が映った。

二十年前、ここを通ったときは、レストランはなかったが、この小学校も、通りをはさんだ病院もあった。わたしの前を小学生が走り去る。

わたしは少年の視線になる。
待ち合いの長椅子で、わたしはコミック雑誌を読んでいた。赤茶色の紙に、だぶった印刷で、絵が描かれている。父の個室から呼ばれて、雑誌を椅子の上において、部屋に入った。学校を見下ろせる、病室の窓に映る半透明な少年のわたし。休み時間になると、楽しそうな仲間たちの声が聞こえてくる。振り返ると、部屋の中央にベッドの父。明るい日差しの中で、わたしと母は、ずっと鼻ばかりかんでいる。ベッドの上の父を見下ろし、髪をなでつづけた。父はいつもと違い、微笑んではくれなかった。

医師の臨終を告げる声は、聞こえない。ただ空気でそれとわかる。めまいとともに、わたしの体は、宙にひきこまれそうになり、見えない渦にもまれた。
「どうしたの、ボク。さっきまで元気だったのに」
看護婦の声に、わたしの体は沈む。
「お父さんの体をいっしょにきれいにするかい」とだれかに聞かれ、わたしは首をふり、病室の外にでた。待ち合いの長椅子で、親戚たちが集まっている。空いている席に戻ると、読んでいたコミック雑誌はなく、そこで、わたしは大人の肩をかりた。
「お兄ちゃんの泣いているところはじめてみた」。
向かいの長椅子の、従妹の声が聞こえる。

四月十日、さくらの花は満開だった。葬儀を終え、三日して、わたしは登校した。みんなが校庭で遊んでいる。
「ねえ、みんなあ、仲間にいれてよ。ねえ」
微笑みながら、そばで大きな声で、何度も繰り返し、訴えたが、だれもわたしの方を、見ようともしなかった。ひとり、玄関の暗い廊下で、目を見開いて、足元を凝視していた。目に映るものが歪んでいた。
何日かあと、さくらの花が勢いよく散った。

病院の前で窓を見上げる。後ろの学校は静かだった。門のさくらの脇に、そっと、コミック雑誌をおいて、いまきた、さくらの並木通りに戻ろうとすると、後ろから吹く風が、わたしを追い越していった。

少年の声がわたしを追い越していく、あのときの、仲間にいれてくれるよう、訴える声、振り返ると、雑誌のページが風にめくれて、音をたてている。


ユニコーン

  みつとみ

 日曜日にわたしは、レジャーランドで、クリスタルのユニコーンを買い求め、夜のバスで家に帰る。窓の外は、暗がりの裂け目。
 窓には夜の空。自宅の浴室でうっすらとしたヒゲをそり、黒いセーターに着替えた。まだ肌が乾かないうちに、わたしは、部屋の窓から外を眺めていた。駐車場に、広く雪が積もっている。街路樹がわずかに揺れて、雪が落ちる。遠く、馬のいななきがある。近づく、ひづめの音は、雪に消されるかのように、静かに。明かりに照らされる馬の背から、だれかが降りる。ほかにひとのいない道に、影が歩く。ゆっくりと、下まで来て、止まる。影は上を向き、わたしに向かい手を差しのばす。冷たい窓ガラスを通り抜け、わたしの手の甲に、指を置く。
 ゆっくりと甲から内側へと、指をすべりこませ、温かい。握りしめる。
(−−落ちる)
 わたしの体が、ガラスを突き抜ける。下の駐車場は、森に一変する。声を出せずに、わたしは影に抱きとめられる。弓のように、影はわたしを迎える。手を回す、影の背は、細い。その顔にかかる髪に、わたしは顔をうずめる。甘い香りがする。白い光がわたしと、女を照らす。金色の、ウエーブした髪に、白い肌の、大きな目が、深い。わたしは、女にもたれかかったまま、息は荒い。額に汗がにじむ。
 素足の下には低い草が生えている。森の開けたあたりに、馬がいる。白いその馬にわたしたちは近づく。女に身をよせる馬の頭には、角がある。
(わたしはどこに行くんだろう)
 先に女が馬に乗り、わたしは女の手に引っぱられ、その馬に乗った。
 地を見下ろし、ゆっくりと、白いユニコーンは進む。
 地平を揺らすのは、深い森と、ユニコーンのひづめで、わたしを揺らすのは、女の背中だった。
 女はわたしの手を自分の胸に持っていき、
 頭上で/鳥が/鳴きながら飛んでいく/発音した。
 わたしの喉は渇いている。
 泉の前で、ユニコーンから降り、深い緑の葉の上で、わたしたちはもたれあう。女が縁の濃い目で見上げる。女はわたしを見つめ続ける。わたしはそっと視線を落とす。

 自宅の前に立っていた。戸を開けて、息をひそめるように部屋に戻り、あるもので朝食を済ませる。薄いカップに紅茶を入れる。湯気は見えない。母は田舎に帰っていることを思い出す。リモコンでテレビをつけるが、ミュートにして音は出さない。低い音が蛍光灯から聞こえる。窓ガラスのそばにある水槽で熱帯魚が一匹、水草を背景に泳いでいる。テレビには森が映されている。一人の女が歩いている。女は、森の開けたところに立ち、こちらを振り返る。女は無言のまま、その目が痛い。
 カップをそのままにし、わたしは洗面所に行く。指を鼻の上にすべらせる。歯を磨き、それからテレビを消し、わたしはアルバイトに出かける。雪の残る道を、自転車を走らせる。風が吹く中、空は電線で区切られている。白い風景が次第に、固いアスファルトと、コンクリートの色彩に変わっていく。手の冷たさに、コートのポケットに片手を入れる。駐輪場の前で、自転車を降りる。いつもの場所に置いて、わたしは駅に向かう。歩いていると、首が寒いので、手を当てると、金色の長い髪が指に巻き付く。わたしは、そっと、髪を風の中に、落とす。

 わたしの前を車が走り去る。
 冷めた街で、わたしは、胸のポケットから定期入れを探す。深い緑の葉がでてくる。わたしは、ゆらりと改札口を抜けた。女の名前を頭の中で繰り返す。あごを、一人さすり、ホームの人混みにまぎれる。乗車位置に立つ。わたしは、斜めに空を仰ぎ、待つ。

 白けた街並が続いている、その裂け目に、ユニコーンのいななきが聞こえる。鳥が/ホームの上で羽根を散らす。その小さな羽がズボンにつく。触れると、ゆっくりと落ちていく。ズボンのポケットのふくらみ、手を入れる。中から白い紙に包まれた、クリスタルのユニコーンをだし、手の平で、陽にかざす。
 白銀の景色、降り注ぐ金色の/
 女の髪の中で目覚めた、その朝に−−。


落下

  みつとみ

 荒れ地に伏していた。身体の自由が効かない。目を開けると、そばに灰色の蛾の死骸が見えた。風でうすい翅がゆらめいている。翅の鱗粉がかすかに光る。蛾の数本の細い脚が、宙をつかみ損ねていた。

 日が暮れはじめ、濃さをます闇に蛾が見えなくなる。自分の放りだされた腕、手、指も見えなくなる。暗がりのなかでわたしは呼吸をしている。石が当たるので、身体を反らす。風が周囲で、湿った音を立てている。枯れ草が互いに触れ合い、傷をつくる。胸が痛い。眼鏡のレンズを通して、暗い空を見つめる。

 息をする。まだ生きているらしい。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、真上の闇を見続ける。あの闇の厚みはいったいどれくらいあるのだろう。次第に闇は深さをましていく。
 湿った風が額をなでる。ほとんど何も見えない。
 落下してくる。まだらな雨が降り出した。顔や地面に当たる。指先にも。眼鏡のレンズにも雨粒が落ちる。周囲に音がつぎつぎとあがる。
 雨の激しさが加速する。体中にあたる水滴が痛い。耳元で破裂する。わたしは強く目を閉じる。閉じたまぶたから水がしみこむ。永く続くかのように、降りそそぐ水の玉。つかのま身体は熱く、そして次第に寒くなっていく。もう空腹感はない。麻痺したのだろう。濡れた体の重さ。地に埋もれる。わたしの重さで、地平がゆっくりと傾いていく。あの蛾も、きっと流されてしまったのだろう。
(わたしも、このまま雨に流されてしまってもいい)

 雨音が聞こえなくなった。目を開けると、眼鏡のレンズに雨が当たっている。けれども、自分の呼吸の音しか聞こえない。眼鏡のレンズは水に覆われている。耳元に流れる雨水。
 
 わたしはまた目を閉じる。ふたたび熱い。自分の体が熱をおびている。
(このまま燃えてしまってもいい)
 やみが自分を中心に渦をまく、そのくらみのなか、だれかが、わたしのジャケットをひっぱっている。が、動きがとれない。その闇には、光の帯がゆらめく。閉じた目を開き、首をわずかに曲げる。
 見ると、一頭の狼がわたしのコートの肩の部分をくわえている。食らう気はないのか、狼の目が、わたしに起きるようにうながしている。この狼は、月の目をしている。
 手を、伸ばす。濡れた狼の頬に触れる。柔らかな毛から水がわたしの指へと伝わり、しずくとなって落ちていく。狼は鼻をわたしの首筋におしつけ、匂いをかいでいる。手の感触で、狼が痩せているのがわかる。地に手をつくが、起きあがれない。手を伸ばすと、狼が自らの頭で下から支えた。

 稲光がして、地上にもたれるわたしと狼を照らした。流水で枯れ枝が流されていく。雨のなか、ふたり息をしている。地から仰ぐ、その雷光が、雷鳴とともに、わたしたちに向けて墜ちた。突き刺す槍に弾かれ、音もなく発火した。

 地上には、わたしたちの姿が見える。ひとりの人間と、いっとうの狼と、そしてあたりを包む暗がりと。ふたつの身体から炎だけが、闇のなかに舞う蛾のようにゆらめいている。


  みつとみ

 雷光の闇にくらみを覚えながらも、雨のなかに立ち、かすむ地平を、よりそう狼と見据えていた。雷で地に発火した炎は雨水で消えていた。眼鏡のレンズに大きな雨滴がたまっては落ちていく。
 行こう、わたしは狼にしずかに告げる。ふらつきながら、狼を見る。狼もわたしの目を見る。わたしたちは雨に打たれながら、互いにもたれあいながら歩む。

 白いもやの地に朽ちた樹が一本あった。ねじれた枝には葉はなく、幹は裂け目が走っている。その樹のしたで、わたしと狼は体を休めた。雨よけにもならない。灰色の毛から雨水が流れ落ちている。わたしは狼の背にそっと手を置く。やせている、感触でもそれがわかる。狼は雨でかすんだ彼方を見ている。賢そうな目で。口元はひきしまっている。わたしと狼は同じ地平を見つづける。

 灰色の毛皮のところどころに褐色の部分がある。鼻から額にかけては黒っぽい色をしている。わたしに牙をむくことはないが、ときおり覗かせる歯は鋭い。わたしは膝を折って、樹の根本に座り、狼の背に体をよせた。狼はわたしの匂いをかぎ、口元をなめる。互いの体温だけを頼りにした。 
 眼鏡のフレームをあげ、ジッポのライターの火をつける。狼の目は水で濡れている。火もとが熱くなり、ライターを閉じた。紺色の空気にまた包まれる。

 眠った。足下を流れる雨水の流れは、手の届かない空の雲から落ち、木やわたしたちの体をつたい、そして地表にたまる。雨水はいくからは地下にもぐり、多くは低いほうへと流れる。わたしたちは眠っていった。
 狼はわたしの首筋に顔を押しつけ、寝息を立てている。眠りながら、女の背。それもすぐに眠りの中で、流れていった。

 咳をして目が覚めた。雨は止んでいたが、寒い。暗がりのなかで、ジーンズのポケットのライターを取り出し、火をつける。女からの。いなくなってから、タバコはやめていた。味がしなくなってしまったから。銀色のライターに描かれた、片方だけの閉じたまぶたと長い睫毛。

 狼がわたしの顔を仰いでいた。何を考えているの、とでも問いたい目で。狼の首をなでる。灰色の毛に指先をいれる。もう片方の手でライターの火をかざす。暗やみに、ゆらめく。狼の目が濡れている。ライターのふたを閉じた。やみをわたしたちは見続けた。狼はわたしの膝に顔をのせた。

 それから、白い朝がくるまで、樹のしたでふたりもたれる。目を閉じると、どこまでも続く地平の彼方に、海がきらめいていたさまが見えた。あそこまで行ければ、助かるかもしれないと。そう思い、目を開けると、そこは果てのない大地。点々とした石、折れた枯草が風に吹かれて、ちぎれて空に舞う。遠くで鳥が叫び声をあげた。その声が火となって、乾きはじめた地の草を燃やしていく。



*8/9修正。「荒れ地」という言葉を「狼」シリーズ全編全面削除。第2連修正。


ペンギン

  みつとみ

一年に一度だけ、
わたしと母は、海草をとりに、
江ノ島に向かう、
その途中に、枯れ木の門がある。
昔、「厚生病院」と呼ばれた場所の前を、
母の運転する車で通る。
信号待ちで、助手席から、
裏庭はどこかと目で追う。
車窓にはりついた、
すねたペンギンのグッズが、景色の中に浮かぶ。

少年だったわたしは、
病院の裏庭で、
たったひとりで、
ウルトラマンの人形をもって、
笑いながら走り回り、
(あの曇った空を)
飛ぼうとすることに熱中した。

母が、急性の腎不全で入院し、
わたしは、ヒーローの人形を片手に、
父の手を、もう片手に、
強く握り締めながら、
母のベッドの脇で、
表情だけは笑いながら、うつむきそうになりながら、
必死な思いで立っていた。

六年後に、
父は、中古の家と、
だまされて購入した、別荘用地を遺し、
肝臓癌で他界した。

「お前は近所のひとが、
『お母さんの見舞いに、いっしょに行くか?』と声をかけても、
『ぼくはあとでお父さんと行くからいいんです』といって、
ひとをものすごい目で、にらむような子でね。
大人しそうに見えるけど、ほんとうはガンコで……」
母はハンドルを握りながら、
老眼で信号を注視する。
その脇で、
わたしは泣き笑うような顔を隠している。

走りだした車。
母の昔話を聞きながら、わたしは黙って、
窓の外を見る。
名前の変わった、病院の建物が遠くなる。
曇り空を背景に、ペンギンの黒い頭がゆれる。
(飛ぶことができずに)
海につくころ、雨が降りはじめた。


ペガサス

  みつとみ

太陽が隠れ、雨が降っている。
駅から、歩いて帰る途中、
だれもいない、
公園による。

幼いころ、よく公園で待たされた。
雨が降っていても、
寒さで凍えながら、
靴の中が水で濡れても、
汚れた指先で、
小石をつかみ、
地面に落書きをした、
なびく、たてがみの、
いっとうの馬。

公園のそばにある、
ソロバン塾には、
わたしの指を逆にそらせ、
手の甲につけては、
喜ぶ上級生たちがいた。
いつも、塾の授業が終わるまで、
わたしを、待たせている。

雨がひどくなれば、
塾ののきで、
水のはった地面を眺める。
いつまでも雨が、
降っていてくれれば、と。
塾の先生が心配して、
顔をだし、声をかけてくれても、
わたしは黙って、首をふり、
あいまいに微笑むだけ。

濡れた前髪からは、
しずくが落ちる。
足元の、
水たまりに映る、
空が小さくゆれる。
冷たい空気の中でも、
ひとりで笑っていた。

スーツの上の、
コートのすそを気にしながら、
公園の中に、
しゃがみこみ、
濡れた傘を肩にかけながら、
地面に小石で、
落書きをして遊んでいる、
わたしは、無力な子どものようで、
いつまでも、
だれもこないことを祈っている。

それでも、
あの雨雲の上は、
晴れているはずで、
羽根を付け足し、
地面の、
ペガサスが、
太陽に向けて駆けのぼる。


吠える(修正)

  みつとみ

 低く吹く風に睫毛がゆれた。乾いた土の香りがする。閉じていた目をあける。ずれた眼鏡の位置を正す。朝の光に、うっすらとまどろみが消えていく。徐々に、物の輪郭が確かになっていく。遠くにある山は、幾筋もの亀裂が頂きから麓まで走っていて、その向こう側から尽きることなく風が吹いてくる。わたしの喉の奥まで。喉を痛めていて、咳を二度繰り返す。連れだっていた狼はいるだろうか。かたわらの狼の毛を手でさぐる。けれども、その背に手が触れない。見ると、狼はいない。代わりに、昨夜拾ったペットボトルに手が触れた。底にいくらかの水が残っている。

 のぼり始めたばかりの日の青い色彩、空には白い雲がうすくひろがり、地には風にそよぐ陰り、草むらがある。風の音がしている。石の転がる地の、その離れたところには風にそよぐ草が見える。草の輪郭がぼやけたり、くっきりとしたり。その中央に、捻れた木がひとつ佇んでいる。その木をぼんやり見ていた。
(わたしはまたひとりになったらしい。いつものことだ)
 
 空腹を感じ、わたしは腰をあげる。立つしかない。ふらつきながらも、足を進める。何か食べる物はないか。石の転がる地は、やがて草に隠れていった。木の実でもあれば、わたしはそう思い捻れた木に向かって歩いた。ジャケットのポケットから手袋をだしてはめる。腿までの高さの草で隠れる。その枯れた草地を、ひたすら進む。遠く岬へと続いているはずなのに。しばらくすると、足がしびれた。ペットボトルを抱くようにして、片膝をつく。そして、体を丸め横たわる。
 乾いた風が吹くなか、わたしはうつらと一頭の狼となる。前脚を伸ばし、枯れ草の地に立つ。脚は白い毛で覆われている。草から頭ひとつ出る。そんな断続的な光景を見ては目を覚ます。

 影が動いた。見ると、白い素足があった。視線をあげると、裸の女が立っていた。まぶしいのは、背後の陽の光のせいか。女は正面に立ち、わたしの肩に手を置いた。意識がぶれる。女の髪は乱れており、灰色で一部に黒い色が混じっている。その髪が風でなびいている。
 女はわたしの肩に手をまわし、背に顔をふせる。女の髪が、肩にかかる。果実のような匂いが漂う。女の指がわたしの無精ひげの頬にふれる。女はもう片方の手にしていた果実を差し出す、その甘い香り。

 目を開けると、いつの間にか、あの木の根元にたどり着いていた。見上げるが木の枝に実はなかった。背後の空が青白く見える。ふいに肩を押される。振り返ると、狼が後ろ脚で立ち、前脚をわたしの肩にかけていた。狼は口にくわえていた果実を落とし、鼻先で押す。わたしは果実をうけとった。乾いた梨だ、実を手につつむ。たったひとつの果実の重さ。香りをかいだ。
 
 いつのまにかまた眠っていた。閉じていた目をあける。月の光に、蒼い地が照らされる。物音のしない夜だった。

 周囲に光がちらつく。ときおり押し殺した息が聞こえる。わたしと女は互いをかばい合いながら、見渡す。狼の群れだ。どうやら追いついてきたらしい。数頭か、十頭か。わたしは足下に手をはわす。石か棒きれかなにかないか手で探る。ペットボトルに触れた。わたしの背に、女は背をつける。群れの一頭の狼が、吠える。ペットボトルをつかみ、投げる。軽い音が鳴る。もう片方の手にあった梨を投げる。群れの一頭の額に当たり、小さな悲鳴がある。女の狼がわたしのジャケットの裾をひっぱる。わたしはジャケットを脱ぎ、ポケットからライターを出す。暗がりにライターをかざす。乾いた音を二度三度たてる、その指が熱い。ライターの火がつく。焦げた臭いがする。その火にジャケットをあてる。火とともに煙がでる、ジャケットを振り回す。熱さに唇をかむ。そのわたしの背後で、女が、うなる。
 わたしと女は、吠えた。

 青い月が、狼の群れに囲まれ、暗がりの草原で、火に包まれたジャケットを振り回す、わたしたちを見ている。
 そして、暗がりをにらみ、世界中の獣が吠え始めた。


転校生

  みつとみ

引越をした日は、
青空だった。
近所の空き地の、
壁に、ボールをぶつけ、
グローブで受けとる。
ひとりで遊ぶわたしに、
アキラとリョウが、
笑みを浮かべ、声をかけてきた。

初登校の日、
授業が終わり、
放課後になる。
わたしは、
クラスの男子たちに呼ばれ、
体育館の横で、
列をつくって、
ドッチボールを投げ込まれた。
一人、二人目のボールは、
受けとった。
五人、六人目の、
ボールは、足にあたり、
指にあたり、
転がった。
つき指をして、うずくまり、
わたしは唇をかむ。
群がる同級生たちの、足しか見えない。

わたしは、壁に向かって、
ボールを投げつづけた。
白いボールが、音をたてて、
転がり、グローブに収まる。
近づいてくる、
アキラとリョウの、
三人で空気銃をもって、
林にでかけ、
駆けまわりながら、
夕方までうちあう。

雪の残る林の中、
三人で、貯水池に行き、
空に向け、ひきがねをひく。

リョウの父が亡くなり、
制服のまま、
通夜にアキラとでかけた。
顔もよく見えない夜、
引越をしていったリョウの、
言葉は暗がりに消えていく。

わたしは、白いネクタイをして、
何年もあっていなかった、
旧友の、
披露宴にでかけていた。
ビールを、つぎにくる、
友人の知り合いに、
愛想笑いを浮かべ、
少ない言葉を交わしながら、
席にだされた、料理を、口に運び、
新郎に拍手した。

わたしは、心の中で、
壁に向かって、
ボールを投げる。


アカリ

  みつとみ

 月明かりのなか、わたしは狼を抱きかかえていた。眼鏡の片方のレンズが欠けている。暗くてよく見えないが、石や枯れ枝があることが、靴を通した感覚でわかる。すこし離れたところで、炎が風にあおられる音がしている。狼の毛並みは血で汚れ、濡れている。ときおり、遠く獣たちの吠える声が聞こえてくる。まだぬくもりのある狼の体。狼の半ば開きかけた口から、舌が垂れ下がり、息を吐いている。強く抱きすぎないよう、気をつけながら。
(こんなにも痩せている)

 枯れ枝が火で弾かれる音がした。振り返ると、あちらこちらの枝や草に飛び火している。
 膝が崩れた。わたしは狼をかばうが、体が横に倒れそうになる。体をねじってみるが、転がってしまった。地面に石が散らばっている。体が重く、力が入らない。しばらくの間、狼を抱いたまま、目を閉じ、背を丸める。獣に追いつかれたら、と思うがもう動けなかった。ここで襲われたら、もう終わりだろうけれども。

 閉じた目の暗やみから、わずかに戻り、首を振ってみる。まぶたを開こうとするが、おぼつかない。どうやら、つかの間、眠っていたようだ。
 狼の顔を見る。眼鏡の欠けたレンズのせいで、うまく焦点が合わないが。狼の目は開き、濡れていて、まだ光はある。思えば、この狼に名前をつけていなかったので、呼ぶこともできなかった。獣たちに囲まれているときの、背中に電気が走る感覚が戻ってくる。いつも狼は向こうからやってきてくれた。体からは、体温が伝わってくる。意識が夢の側に行こうとするとき、温かな感じがして、現実の側に戻ってくるとき、わたしは痛みで眉をひそめる。口のなかは錆びた血の味がする。手は火傷でこわばっている。手足は獣に噛まれたせいで、熱い。そしてまた眠りのほうへ、意識が漂う。

((わたしは草原を見下ろす。眼下に一頭の狼が駆けている。群れの狼らに追われて。一匹狼は大抵、群れの狼によって、殺されてしまう。そう本で読んだことがある。狼は草地を抜け、岩場を越え、遠く走っている車に向かっていた。追われている狼は車に近づいた。が、車のほうが早く進み、離れてしまうが、懸命に追いかけていった。この狼が生き延びるにはそれしかなかったのだろう。
 車はやがて止まった。どうやら燃料切れらしい。獣たちは追いつき、車の周りを囲みながら、車内をうかがっている。
 朝日が地を照らすころ、獣たちの姿はなかった。車のなかから青年が出てきた。倒れてしまう。肩の高さの草に隠れ、周囲に獣たちがいないことを確認して、一頭の狼がゆっくりと向かった。
 倒れている青年のジャケットの肩の部分をくわえている、狼は、起きあがるよう、うながす))

 胸がうずき、わたしは目を覚ました。痛みに、動悸がする。狼がわたしの肩の部分をくわえている。そして、目でうながす。狼の頭に手をあてる。その指先に、触れず、狼の頭は地に落ちた。半身を起こし、狼を抱き起こそうとするが、重くなって四肢が垂れ下がってしまう。いくら抱え直し、揺すっても、揺れる足先以外は、もう動かなかった。

 風が強く吹くせいか、月に、草地の火が燃え移り、青白い炎に包まれていた。ぼんやりとわたしは月の光を見上げていた。
 わたしは“アカリ”という名前をこの狼につけた。暗がりに、ひとりでいたわたしを照らし、よりそっていてくれていた。

 風がやみ、炎が消えたころ、白くぼんやりとした光が地を照らしはじめた。わずかな霧雨が降り始め、土を湿らせ、火を鎮めていた。わたしは硬くなった“アカリ”のために石で穴を掘っていた。ポケットのなかの梨の欠片を取り出し、“アカリ”と一緒に埋めた。土で汚れた、なえる手に、力をこめて。

「ア・カ・リ」。

文学極道

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